HOME(オボロ×フヨウ) 著者:七誌様

 目が覚めて、二段ベッドから静かに降りた。娘はごく僅かな衣擦れを立てて装いを整えると、しゃ。と、カーテンを開いた。窓を開けると鳥の囀り(さえずり)と共に、朝の冷気が入って来る。ベッドの方から、うぅー。と、目覚めを嫌がる唸り声が聞こえて来た。

「シグレ、朝」
 下のベッドに陣取っている、青年にそう声掛ける。わぁってる。と、くぐもった声で青年は応えるものの、一向にベッドから身を起こす気配は無く、娘が起こそうと、青年のベッドへと歩み寄ったところで――

「シグレちゃん! サギリちゃん! ごはんよー!」
 と、フライパンを鳴らすような、明るい声が部屋へと響いた。

『 HOME 』

「あんなでけぇ声出さなくても聞こえるっつーの……」
 まだ櫛を通していない、ぼさぼさの髪の毛を掻きながら、シグレは朝食の並ぶテーブルにつく。テーブルの上には、香り良いトーストと、黄が鮮やかなスクランブルエッグに、ぱりぱりのベーコン。薄切りのリンゴには、ヨーグルトに蜂蜜がかかる。

「あら、だってシグレちゃんってば、なかなか起きてくれないんですもの。ね、センセ?」
 木製の大きなボウルに入れられた、青々としたサラダを皆に取り分けながら、フヨウがオボロに話をふった。そうですよ。と、コーヒーを片手にオボロは応える。

「シグレ君はお寝坊さんですからねぇ。朝食を食べ損なうことが無いようにと、フヨウさんがわざわざ、呼んでくれているのですから、寧ろ、感謝しなくてはなりませんよ」
「言われねぇでも、起きてるよ……」
 片肘を着きながら、シグレはトーストの上にサラダ、卵とベーコンを乗せてさくり、と齧る。

「起きていても、こちらに来ないのでは同じですよ。ご飯はなるべく、皆で一緒にとりたいですからね。ね、サギリさん?」

 ベーコンに卵を包み、咀嚼していたサギリは、こくん、とそれを飲み下すと、オボロの言葉に頷いた。それを横目で見たシグレは、ぽりぽり、とひとつ頭を掻いて、しょうがねえな。と、呟く。コーヒーは? というフヨウの言葉に、いる。と短く返事した。

「で、ですね。シグレ君。本日の君のお仕事ですが……」
「あー? なんだよ。また地図に間違いが無いか調べて来い、とか言うなよ?」

 ず。と、シグレは不機嫌な口調でマグカップいっぱいに淹れられたコーヒーを啜る。言いませんよ。と、オボロはコーヒーカップ片手に笑う。
「まさか。同じことを二度もお願いするような芸のない真似はしませんよ」
「……芸だったのかよ」

「いやぁ、普通のことしていたらつまらないでしょ? やっぱり、他の探偵とは一味違うところをみせなくちゃ!」
 そんなところで違うところをみせようとするなよ。というシグレの言葉には触れず、オボロは先を続ける。サギリはいつもと変わらぬ表情で、サラダを口へと運んでいる。

「まぁ、いつもハードなことを頼んでいては申し訳ないので、今回はごく普通の尾行調査です。しかもターゲットは美女!」
「あー……それは……。ってちょっと待て。女の追跡は大体サギリだろ? 何で俺なんだ?」
「まぁ、シグレちゃんってば、照れちゃって! お年頃ね!」

 照れじゃねぇ! と、フヨウからの茶々を否定する。今まで受けた調査依頼の中で、自分が担当したものを思い返す。嫌な予感があった。

「大丈夫ですよフヨウさん。相手の女性も照れやさんですから、お似合いでしょう。うまくいけばロマンスがあるかも知れません。いやぁ! 青春ですねぇ!」
「尾行相手と芽生えるロマンスなんざロクなもんじゃねえだろ」

「いやいや分かりませんよシグレ君。尾行調査を続けるうちに相手のことを知り、不可解と思っていた相手の行動には信念と、真実とが隠されていたことを知るわけです! 相手の女性も、はじめは何かと付き纏う存在に嫌悪感を覚えるものの、多くの局面を助けられ、やがてお互いに捨て置けない存在となるんです! けれども互いの相反する立場! 揺れ動く心! ロマンスですよ! シグレ君!」

 まぁ! 面白そう! と、掛かった声に、そうでしょう? と、妙に満足げにオボロは微笑む。もう何やらこの会話だけで疲れ果てたシグレは、会話の端々に突っ込む気力も失せ、調査対象を言え。と話を促す。
「あ、気になりますか? シグレ君」
「……気になるからさっさと言ってくれ」

 深い溜息をつきながら、煙管に火を入れ、頬杖をつく。正直、多少の嫌な依頼だろうと何だろうと、さっさと受けて終えたかった。
「ゼラセさんです。頑張って下さいね。あ、彼女は朝早くから夜遅くまで行動するようなので、こうしていてはなりませんね! フヨウさん! お弁当を!」

 はい! と、フヨウはオボロの声を受けて席を立つと、固まったままのシグレを残して台所へと姿を消す。煙管の煙は暫し途切れ――ぶっ、と。吹き出したところで、吸い込んでいた煙が一斉に噴き出した。

「ちょっと待て! 俺、王子さんにあれほど止めろと……!!」
「気になって仕方ないんですねぇ、きっと。今までにないタイプで興味津々なんでしょう。これは手ごわいですよ、シグレ君!」
「自分で調べるように王子に言えよ!」

「あらあら、何言っているのシグレちゃん! 何のための探偵ですか! はい、これお弁当」
 台所から戻ってきたフヨウが、ぽん、とシグレに竹の子の皮のお弁当と、シグレが愛用している竹で作られた水筒とを手渡した。一番右から梅、おかか、鮭だから。と、丁寧に具材の説明までつける。

「はい! いってらしゃーい、シグレ君! 身の危険を感じたら帰って来てもいいですからねー!」
 それって身の危険を感じるまで帰って来るなって意味じゃねぇか。と、呟きながらも、手櫛で髪を結わえ、羽織を羽織る。サギリちゃんとお菓子を作って待ってるから、頑張ってねー! という、能天気な声を聞きながら、煙管を咥え、幾らか肩を落としながら、シグレは外へと出て行った。

「……やっぱり、シグレの代わりに、私が行った方が」
 良かったんじゃないかな。と、扉が閉まった後に、サギリがぽつりと呟いた。良いんですよ。と、オボロは答える。

「ゼラセさんは、こっちが勝手に尾行しているというのに、それに気付いても、まずはきちんと警告をしてくれるひとですから、大丈夫ですよ。あまりお風呂に入ったり、食事をしているという話も聞きませんし、持久力あるシグレ君が適任でしょう」

 それに、と。サギリを見て、にこりと笑む。
「あそこでサギリさんが『やる』と言ったところで、どうせシグレ君は自分がやると言ってきかなかったでしょうから、サギリさんが気にすることはありません。それよりも、シグレ君が仕事に行っている間、家の方を片付けましょう」

 オボロの言葉にサギリは頷き、かたりと食器を片付け始めた。

 夕方近くに、王子が調査報告を受け取りに来ると思うんですよね。というオボロに、フヨウはベッドのシーツを取り換えながら、今回はリヒャルト君……じゃない、ミューラーさんでしたっけ。と、言葉を返した。

「ミューラーさんからの言葉は頂けなかったんですよね、確か。でも、傭兵の皆さんの反応とか、リヒャルト君が傭兵部隊に入った時期とか考えると、センセの考える通りなんですよね?」

 シグレの寝乱れていたベッドに、真っ白な、綺麗に洗われたシーツがふわりと広がる。オボロがドアの前で話をする中、フヨウは手を止めず、丸い、ふっくらとした手で、皺を伸ばし、安らかに眠れるようにと、シグレのベッドを整える。

 恐らくは。と、オボロは答える。
 仲間たちの鍛錬に時間を取られるから、しばらく事務所に来れないかも知れないという王子に、ならば事前に聞いておきたい人を何人か伺っておきますよ。と声を掛けた。次の探索で恐らく最後となることを予期してか、少年は時間を見出しては、こまめに事務所へと通っていた。

 城に身を置くものは、何もこの国に関係した人間だけではない。戦が終われば、何人かはまた、旅に出、二度と逢えない者もいることだろう。ならばせめて……というのが、そこに集った人々を呼び寄せた軍主たる少年の思いだった。

 少年はオボロの言葉に表情を輝かせると、分かる範囲で、出来た順でいいからと、二人の人間の名を上げた。ひとりが、ヴィルヘルム傭兵旅団、鬼の副長。そうしてもうひとりが、謎に包まれた黒衣の女、だった。

 ミューラーのことは、以前の調査を行う上で、城にいる仲間や、ヴィルヘルム傭兵旅団の傭兵達、そうして彼を慕うリヒャルト少年から幾らか評判は聞いていた。人相は悪い。口も悪いが、人格としては悪くない。寧ろ、曲がった事が嫌いな理のある人間、と言っても良かった。

 厳しい面も多々あるが、それは部下を思っての事であり、それは一種の優しさに思えた。ただ、偽悪者であった方が気が休まるのか、優しい面を恥じるのか、そうした素振りをみせようとはしないのだが――
 彼がどうしてああも、リヒャルト少年から慕われているのか、は本人の口からは聞けなかったが、推測として見えるものはあった。

 リヒャルトが傭兵として入った年齢。口を噤む人々。ミューラーの性格。型破りの剣技に、長期の修練が必要とされそうな、身体能力。テイラーより耳にした、忘れ去ったと言う故郷。盲目的に慕う存在。そうして、かつて幽世の門において見続けた、親の愛情に飢えて育った子どもがもつ、おぼろげな、目――

 導き出される答えが、自然とあった。
「多分ね、当っていると思うんですよ。私の推理は、悲しいことに」

 恐らく、少年は親から虐待を受けていた。ヴィルヘルムのあの性格からして、それを行なっていたのは父親だろう。ミューラーはリヒャルトの父親に憤ってか、どうかは知らないが、ミューラーはリヒャルトの父親を殺した。リヒャルトは父親の束縛から解き放たれ、解き放った相手である、ミューラーを敬愛した。

 ――もしかしたら、ヴィルヘルム達がやっていたという『傭兵だか山賊だか分からない稼業』から足を洗ったのは、その事件がきっかけなのかも知れない。
 だが全ては、自分の推測でしかなかった。

 そうですねぇ。と、フヨウは返した。バスケットにシグレのシーツを放り込み、ぎぃぎぃと音を立てて上のベッドへと登ると、サギリのシーツを抜き取り、ベッドの上から放り投げた。
 白いシーツはゆっくりと、バスケットにかぶさった。私は、とフヨウが言った。

「推理は推理! で、良いと思いますわ。センセ。誰かからきちんと証言を受けていれば、それは証言を受けたという確証を持てますけれど、今回はそれが無いわけですし。
 ユーラムさんの調査報告の時みたいに、その推理がそのひとの為になるというならともかく、そうでないなら、伏せておくに越したことはない。と、思います」

 ぎっ、ぎっ。とベッドが賛同の声を上げる。シーツを敷き終わったのか、音を鳴らしてベッドから降りると、よいせ、と、フヨウは白で包まれたバスケットを持ち上げた。
「真実は尊い。でも、それが幸いであるかどうかは別問題。真実を教えて欲しいという依頼でない限りは、より幸いに近い、嘘ではない事実を述べた方が良いと思いますわ」

 そうですね。と、フヨウの言葉にオボロは笑むと、ひょい、とフヨウの手にしていたバスケットを持ち上げた。センセ、私が……という声に、いいんですよ。と、バスケットを胸に抱える。振動でか、胸ポケットで眠っていたネズミがぴょこん、と飛び起き、チュウ、と一声上げて床へと降りた。そのさまに、ふと、二人して笑いがこぼれた。
 ネズミは洗い場へと進む二人を、二本足で立って、しばらくじっと見ていたが、耳を少し動かすと、ちょこちょこと後駆けて二人と並んだ。

 洗濯を済ますと、シンダルの機械であるという「えれべーたー」を使用し、宿の吊橋へと辿り着いた。洗い桶にはオボロのシャツや、シグレの羽織、下着を除くサギリやフヨウの服などが入れられており、濡れた衣服はかなりの重さだが、気にせずオボロは腕に抱える。

 宿の屋根と、吊橋近くにある円柱には、何本かのロープが渡してある。うち、吊橋奥の円柱へとオボロは歩み寄ると、備え付けられた取っ手に軽く手を添えた。
 フヨウは、ぱぁん、と白いシーツを広げ、ロープにかける。
「センセ、いいですよ。回してくださいー」

 フヨウの言葉に、オボロは取っ手を手にして、ぐるぐると回す。カタカタという音を立てて歯車が回り、洗濯物をかけたロープが進み、空にはためく。フヨウは目の前のロープに、洗濯物をかけ、また、オボロは取っ手を回す。

 人が住めば、それだけ多くの生活を営むための空間が必要とされる。そうした声にいち早く答えたのがビーバー達や、バシュタンといった発明家の人々だった。
「ぶつぶつ言いながらも、あっと言う間にこんなものを考えて、作っちゃうんですから、何だかんだ言っても、凄いですよねぇ」
 そう呟きながら、オボロが取っ手を回していると、「あ!」という声が上がった。

「センセ! 王子さまですよ! どうしたんでしょー? お早いお帰りですねー」
 フヨウの声に、目線を寄せると、階段下、塔一階入口近くに、見慣れた緋色の衣があった。見れば、暖かなレンガ色の上着と、若葉色の明るいスカートという、穏やかな装いをした女性も目に留まる。

 ――わ! と、そこで突如、オボロはひとつ声上げた。同時に身を崩して取っ手が回り、まだ洗濯物がかかっていないロープが進む。ぐわりぐわりと、洗濯物が風に舞い、身を崩した拍子に、名刺がばらばらと、階段下にいる二人のもとへと散らばった。

「すみませーん、フヨウさん。名刺、拾ってきまーす」
 言い、手を止め、ぱたぱたと階段を降りる。もぉ、どうしちゃたんですか、センセ。という声を受けながら、申し訳無さそうにオボロは駆けた。

「う、うわぁ!?」
 名刺は階段下の王子にぶつかったらしく、王子は何事かと、背後からふりかかった名刺の嵐を、ばたばたと大きく腕を振り、払った。王子に付いていた紙が、後頭部から滑り落ち、床へと散らばる。そうした王子の様子に、向かい合っていた少女はぱちりと大きく目を見開き、
「ロ……ロイさん?」
 と、おずおずと、遠慮がちに呟いた。
「はぁ? なんで俺って……」
 言った拍子に、ロイのかつらが、ずるりとずれた。

「やぁ、すみません。すみません。名刺が飛んでいってしまって……おや、王子……じゃなくて、ロイ君。どうしたんですか? その格好は?」
 頭を軽く下げながら、階段を降りて来たオボロを、茶髪の少年はぎろりと睨む。気にせずオボロはにこりと微笑む。くそー、あとちょっとだったのに。と、呟くロイに、腰を屈めて名刺を拾いながら、「何があとちょっと、だったんですか?」と、にこやかに問い掛けた。

 別に。という言葉に、人形劇の。という、チサトの言葉が僅かにかかった。目線を走らせるロイに、チサトは萎縮するものの、笑顔で先を促すオボロに、おずおずと、口を開いた。

「あの……王子さまのお話を作りたいな、って思って……。子どもたちから喜ばれそうな、セーブルでのお話を、伺いに、行ったんです……」
 ぼそり、ぼそり、と言う言葉に、はぁー。と、ロイの盛大な溜息がかかった。

「『セーブルでのお話』って、要するに、俺が王子さんに化けて悪さをしたって話だろ? ま、確かに子どもウケはいーだろーよ」
 そんな! と、小さな声がかかった。ああ、悪りぃ。と、軽く手を上げ、ロイが制す。

「あー。アンタを悪く言ってるわけじゃねえんだ。俺がやったことを今さらどうこう言うつもりはねえよ。たださ、俺たち悪ガキにとってもさ、あんたのやってる、人形劇とか、そういうのって、すげぇ小さい頃からの、アコガレ、ってゆーヤツだったんだよ。普通のガキどもとは一緒にゃ見れねぇから、遠目で見たりさ。
 ここであんたを見た時、フェイレンとか、すげぇ喜んだんだ。この歳になったら、恥ずかしいから近くでなんて見れねーってのに、よ。
 そこで、俺たちの話を作るために、王子さんから話を聞くっていうじゃねーか。ちょっとな……気になったんだよ。別に脅すつもりとか、そういう気は無かったんだ。騙したことは、悪かった。悪りぃ」

 言い、ぺこり、と頭を下げる。チサトは小さな唇を僅かに震わせ、あの。と、呟いた。
「あの……! ロイ、さんっ!」
 大抵の人間からすれば、ごく普通の大きさの声。だが、娘からすれば、ありったけの大声、だったのだろう。頬をひどく紅潮させ、緊張からか、足をがたがた震わせていた。

「あの……わたし。さっきまでロイさんのこと、王子さまだって、思って、ました。気付かなかったん、です」
「ああ、ここで俺と王子の違いを気付くのはリオンくれぇだ。気にすることねぇ
――」
「ちがい、ます」
 わたし、は。と、震える唇でチサトは言った。

「わたし、これでも、演技を見る目は厳しいんです。なのに、わたし、ぜんぜん、気付かなかった。それって、ロイさんが、きちんと演じたから、だと、思います」
 ロイさん。と、娘は言った。

「わ、わたし、こんなだから、人前になんて出られないけれど、ロイさんは、違います。もし、この、いくさが終わって、やる気があるなら、一度、舞台に臨んで、みて下さい」
 へぇ。と、ロイが応えた。口の端を吊り上げて、笑みを浮かべる。
「俺みたいな下賎な人間にも、舞台っていうのは踏めんのか?」

「ぶ、舞台は平等です! 見て、評価するのはお客であって、問われるのは役者の力です! そりゃあ、はじめは端役ばかり、かも、知れないけれど……見ている人は、見てくれています。才能、なんて言葉、私はあまり好きじゃないけれど……才能と、本人の努力が、実を結ぶ世界だって、私は、思います。
 ――お客さんの、子どもたちの笑顔に、貴賎なんて、ないの――」

 言い、チサトは深く、面(おもて)を伏せた。少年が唇を僅かに開いたところで、ああ、いいですねぇ! と、声がかかった。

「今はロイ君が王子のそっくりさんですけれど、舞台に上がって、ロイ君が有名になれば、王子がロイ君のそっくりさんになりますね! 生まれだとか、血筋だとかとは関係のない世界ですから!
 北の大陸にある劇団辺り、いいかも知れませんね。文化が発展しているから、お客さんの目も厳しいでしょうが、その分実力でものを見てくれそうです」

 散らばった名刺を拾い集め、かさかさ、と、手で揃える。
「おい! 俺はまだ、やるなんて……!!」
「嫌ですね。可能性のひとつ、ですよ。どうするかは、自分しだいです。
 まぁ、有名になったらひとつ、うちの宣伝をお願いしますよ! あ、これ名刺です」

 言い、ふたりに名刺をそれぞれ手渡すと、「それでは、これで」と、階段を登り、姿を消した。
 オボロを見送り、ふぅ。と、ロイはひとつ溜息を吐くと、ふと、ずれてしまったカツラの三つ編みが、緋色のスカーフを巻き込んで、壁に引っかかっていることに気がついた。それを取ろうと、三つ編みに覆い被さるスカーフを手で払おうとし、凍り、ついた。

 どれだけの力で刺さったのだろうか。そこには一枚の名刺が、銀色の髪と緋色の布とを噛み合わせ、階段壁へと縫い付けていた。

「真実をみつける、探偵、ね……」
 ちっ、と、どことなく悔しそうに少年は舌打ちし、やや乱暴に髪と布とを引っ張ると、一枚の白い紙はひらりと外れ、ゆらゆら左右に揺れながら、少年の足元に、ふわりと落ちた。

 洗濯物を干し終わると、フヨウはサギリとケーキを作るのだと、事務所の台所へと、サギリと共に引っ込んでいった。ビーバー達の手もあって、ここは本拠地であり、同時にかつての船でそのかたちを持っていた、『家』でもあった。

 本拠地に事務所を移すとなったときは、どうなることかと、幾許か不安の念もあったが、結果的には良かったと、オボロは事務所のテーブルで報告予定の書類の整理をしながらひとり、思う。

 案ずるよりも、とはよく言ったものだ。人と交流を持つことに抵抗がある、シグレやサギリも、うまくやっている。寧ろ、多くの人々の場で生活することによって、自己を確立していっている傾向が見える。
 ――きっと、他者を知る、ということは、同時に自身を知ることでも、あるのだろう。

「こうした考え方を力づけてくれたのは、フヨウさんのお陰、でしょうねぇ……」
 そっと、呟く。
 初めての依頼人としてフヨウが訪れ、それから事務所の手伝いに来始めた時、自分たちの過去を話すか、話さないかが、オボロと子どもたちの間で問題となった。

 口煩いと愚痴をこぼしながらも、フヨウの明るさにシグレは救われ、サギリもフヨウの気立ての良さや、くるくると変わる表情に憧れや、好感を覚えたようだった。しかしそれでも、自分たちが元、暗殺集団であったことを告白するのは抵抗があった。

 罵られるのが怖いのでも、それを広められるのが怖いのでもない。勿論、罵られれば悲しく、広められれば、死活問題にも成り得る。だが、それ以上に苦しく、悲しいと思っていたのは、理解し合えない悲しさだった。自分たちが好感をもった人間から、自分たちの過去や、存在を認められないということは、悲しい。これ以上もない程に。

 子どもたちとは何度も話をした。大抵シグレがオボロの意見に反対し、サギリが揺れ動く。だが、最終的には過去を告白することとなった。
 ――なんのことはない。結局のところ、三人が三人とも、フヨウとより親しく、理解してもらえる仲に、なりたいと、願ったのである。

 あの、告白をした日のことは、今でも忘れられない。桟橋に船を着け、普段閉め切りがちなカーテンを全開し、いつでもフヨウが、「逃げられる」ようにした。自分たちは最早暗殺集団ではない。他人に聞かれては不味い話だが、出来る限り、信頼をして欲しかった。

 緊張した空気の中、ぽつり、ぽつり、と静かに話すオボロにフヨウは目を丸くして聞いていた。怯える空気も、法螺話だと馬鹿にするような気配もそこにはなく、ただ、少し気掛かりな様子で、話を終えた後、それでセンセ。と、聞いて来た。

「それで、センセ。私にこの話をしたら、探偵を辞めてしまうおつもりなのでしょうか……?」
 え? と、全く虚をつかれた声をオボロは上げた。コトリ、とシグレの煙管が落ちる音がした。
「い、いえ……やっていける限りはやりたいと思っていますが……」
 珍しく、自信のない、口篭もりながらの言葉に、なら良かった! と、フヨウは朗らかな笑みをふわり、とこぼした。

「ならセンセ、全く問題ありませんよ! だって私は『オボロ探偵事務所』に惚れ込んで、ここに来たんですから!」

 すとん、と。あるべきものが、あるべき場所へと納まったかのような、あの感覚を。そうしてじんわりと胸へと染み込んで感覚を、自分は決して生涯、忘れることは無いだろう。

 ありがとう。と、オボロはフヨウのふっくらとした、手を取った。いやぁだ! センセ! 照れ臭いじゃないですか! と、フヨウは恥ずかしそうに、それでも、明るく笑って。骨筋ばったオボロの手を、包み込んだ。

「ほぉら、サギリちゃん! この型に流し込んで……そうそう。じゃあね、今度はイチゴを洗って、シロップと生クリームを作りましょう!」
 溌剌とした声が、耳に触れる。器具の触れる音と、水の音。サギリに指示を与えながら、片づけをしているのだろう。
 イチゴという言葉が出てくるところからすると、今日のケーキはイチゴのショートケーキなのかも知れない。

 フヨウがあのふっくらとした頬で笑みを作って、真っ白なクリームと、赤いイチゴで彩られたケーキを食べているところを思い描き、ふと、笑みを浮かべる。とても似つかわしく、可愛らしい。台所で調理をしている二人の姿を覗きに行きたい衝動に駆られるが、以前調理中に冷やかしに行って、フヨウからもサギリからも邪魔者扱いされてしまった時のことを思い出し、どうにか留める。もうしばらくすれば、恐らく土台が焼き上がる。その時を見計らって、覗きに行こうと、オボロは年甲斐もなく心をそわそわ浮き立たせた。

 扉の側を通ると、ふんわりと、柔らかな香りが漂って来た。思わず、くぅ。と、腹の虫が音(ね)を上げる。こっそりと中に忍び込み、何事かと覗き込む。

 中にはあの、憎っき好敵手であるオボロと、丸くてよく喋るのと、細くて全く喋らない女とが、何故かお揃いのフリフリした白のエプロンを身につけて、ボウルをかちゃかちゃ鳴らしていた。側にはこんがりとキツネ色したスポンジケーキが金網の上に乗せられており、ケーキの屑だろうか。茶色い欠片を、オボロは肩に乗せたネズミへと与えていた。ネズミはそれを両手で行儀良く受け取って、カリカリと食べる。それを見て、細身の無口女は「……可愛い」なんぞと、微笑みながら呟いて、丸い方は、
「甘いんだから、あんまり与えちゃ駄目ですよ!」等と、子どもを叱るような口調で自分の好敵手を叱っていた。

 その言葉に対し、「いやいや。すみません。ついつい可愛くて……」と、自分の肩にいるネズミではなく、丸いを見つめてにこにこ笑っている自分の好敵手に――
 ――何だか凄く腹立った。

「じゃあ、クリームも出来たし、スポンジもいいみたいだから、シロップを塗って、生クリームを塗りましょうか!」

 そう言い、フヨウがスポンジケーキへと手を伸ばしたところで、ぷつ……と窓のカーテンの留め紐が切られ、陽の光が遮られた。ばぁん! とキッチンの扉が閉まる。そこに、突如、わーはっはっはっはっはっはっは! という、聞き慣れた馬鹿笑いが響き渡った。

「スポンジケーキは貰った! 悔しければ、取り返してみろ、オボロ!」
 見れば、スポンジケーキがぷかりと宙に浮いている。原因が分かっている為、全く驚くことはなかったが、なかなか面白い光景だと、一同は妙なところに関心を寄せた。

 暫くそうして見つめていると、「……おい」という、不機嫌な声が掛かって来た。
「取り返せと言っているのだ! 取り返しに来んかー! 
 ……ははん! 分かったぞ! さては、この俺様の素早さと紋章の前に、恐れをなしたな!?」

 スポンジケーキから声が上がった。ケーキが喋るというのは、童話や絵本といった、想像の世界だから良いのであって、実際に喋られると、あまり気持ちの良いものではないな。などということを思いながら、別に良いんですよ。と、愛想良くオボロは答えた。は? という、間の抜けた声がケーキから上がる。

「だってそれ、レーヴンさんの分ですから。ね、フヨウさん?」
「ええそう。レーヴンさんとナクラさんの分として作ったものですよ。本当はきちんとデコレーションをしてから差し上げようと思ったのですけど、スポンジケーキで欲しいのなら、仕方ないですわね。ね、センセ?」
 そうですね。と、にこやかにオボロは答え、「持ち帰って結構ですよ」と、手で勧めた。

「ま、待て待て待て待てーッツ!! 自分の物をとったところで、盗んだことにならんではないか! その上、他の人間の食べ物まで奪ったときては、俺は単なる食い意地の張った悪漢ではないか! そ、それに! 俺が盗ったら、そのナクラという奴の分のケーキはどうなるのだ!? 可哀想ではないか!!」
 大丈夫。と、サギリの細やかな声が上がった。
「私の分、あげるから……」

 そう言って、笑みを形づくる娘に、レーヴンはきゅぅぅうーんと、何かを撃たれた。何かは分からない。ただ撃たれて、ふらりと揺れた。あらあらあら! とフヨウの声が上がる。

「まぁま! サギリちゃんってば! そんなこと言わないで、皆の分をちょっとずつ分けあえば大丈夫ですよ!」
 そうですよ。と、オボロからも声が掛かった。
「それに、皆で一緒に食べた方が、美味しいに決まってます。ね? サギリさん」
 娘は二人の顔を代わる代わる見つめると、やがて、こくん。と、幼い仕草で頷いた。またもやレーヴンの中で、何かが撃たれた。

「ああああああああああ! こ、この大馬鹿ものどもがーッツ!!」
 さっと、カーテンが開いた。陽の光がキッチンに滑り落ちる。そこにはスポンジケーキ片手に、涙目になった29歳とは思えない、自称大怪盗の姿があった。

「そ、そんな。こと、を、したら……ッ! お、俺は大悪人では、ない、か……!」
 潤んでいる目頭を押さえながら、ぐずぐずと鼻を鳴らしている。ほら! と、手にしたケーキを差し出した。

「こんなに、食ったら、俺は太って、怪盗など、やっておれん! と、いうか、半ホールもいらん! 一切れで、じゅうぶんだ! 他のやつに、くれてやれ!」
 言い、フヨウにケーキを手渡した。

「さっさとデコレーションしろ! それまで俺は出掛けてる!」
 ぐずぐずと、まだ、鼻を啜りながら、それでもしっかりとした足取りで、レーヴンはキッチンを出、ぱたん、と、扉を閉めた。

 ――変わったひと。と、呟くサギリの頭をオボロは軽く撫ぜ、根は悪いひとじゃあ、無いですからね。と、言葉を付け足す。
「それじゃあ、フヨウさん、サギリさん。もうすぐ王子も見えるでしょうし、お願いします」
 オボロの言葉に、ふたりは頷き、光を弾くボウルを手にした。

 昼が過ぎ、陽が傾きかけた頃に、王子は来た。ゆったりとした足音と、規則正しい足音。軽いノック音に、どうぞ、と応えたところでドアが開き、「お邪魔します」と、銀髪の少年と、黒髪の少女は入ってきた。

「今日はご苦労様でした。成果はどうです?」
 椅子を立ち上がり、書類の束を整えてソファを勧めると、少年は頷き、少女は入口で待っています。と辞退した。そうした少女に少年は何度か言葉を掛け、少女が折れて座ったところで、少年もようやくソファに座った。

「鍛錬の方は、順調だよ。先の女王親征のお陰で、探索隊の絞込みもあまり苦労しなかったから、思ったより早く進めそうだ。焦って仕損じるのは御免だけれど、時間が無限にあるわけでもないからね。
 ――がんばるよ」

 不安や疲れを押し殺すように、笑みを浮かべる少年に、大丈夫です! と少女が力強い声を上げた。
「大丈夫……。あと、あとひといきですよ、王子! これが終われば本当に……みんなで、帰れるんです!」

 みんな、と言うときに、少女も少し、俯いた。それでも少年と道を共にするような、深い信頼がみえる抑揚に、少年は優しい眼差しで少女を見つめ。ありがとう。と答えた。
 そうした二人のやりとりに、心温まるものを感じながら、こちらが調査結果です。と、茶封筒に入れた一枚の紙を、少年に差し出す。
 少年はそれを受け取ると、さっと目を走らせる。口元に手をやり、くつくつと肩を震わせて、笑った。

「ふふ。そっか、随分と嫌な質問をさせてしまったね。棍棒で追い掛け回された?」
 さすがに人の目があったので。と、オボロは答える。
「まぁ、そんなおおっぴらにはなりませんでしけど、目線で殺されるかと思いましたよ。ほんとに嫌なことに対しては、無口になるんですね。あのひと」

 そっか。と、また少年は、くつくつと笑う。そうして不思議そうな顔をしている少女に、さっと報告書を差し出し、戸惑う少女に目で促した。
 少女はちらり、と少年とオボロに目線をやった後。さっと用紙に目を走らせ、困惑気味の声を上げた。

「ええっと……これ、結局分からなかった。ってことですか?」
 少女の言葉に、面目ない。と、オボロは頭を下げる。慌てて言葉を詫びる少女に、分かったこともあるよ。と、少年は朗らかな声を上げた。

「つまり、ミューラーさんにとって、リヒャルトさんが慕ってくる理由は、本当に秘密にしておきたいことなんだ。ってことだね。
 自分のミスにも、他人のミスにも厳しいひとだけれど、リヒャルトの言葉を借りれば『本当は優しい照れやさん』だから、秘密にしているのは、誰かのため、なんだろうね」

 その「誰か」が誰であるかは指摘せず。少年は目だけで、どこか楽しそうな笑みを浮かべる。ふと、そうした少年の仕草や物言いから、彼の叔母を思い描いた。
 ありがとう。と、少年は言い、席を立った。

「やっぱりちょっと、気になっていたんだ。でもこれで、これ以上聞かない方が良いってことが分かったよ」
 少女を伴い、事務所を出ようとする少年に、あ、ちょっと! と、オボロが少年を呼び止めた。キッチンから、白い紙箱を手にしたフヨウがぱたぱたと姿をみせる。

「今日、サギリさんとフヨウさんとで作ったケーキです。折角ですから、王子も頂いて下さい――甘いものは、疲れを取ります」

 少年は年相応の、まだあどけなさをもつ眼で一度、オボロを見ると。再度ありがとう――と静かな笑みで礼を述べ、二人で事務所を出て行った。

 陽がとっぷりと落ち、星の光が見え始めた頃、シグレがよろよろとした足取りで、事務所のうちへと帰って来た。ぼすん、とソファに座り込み。

「疲れた……」
 と、心底深い溜息を漏らす。すぐにご飯にしますから! とフヨウの声がかかる中、サギリがお疲れ様。と、汚れた羽織を脱ぐのを促す。シグレは促されるまま羽織を脱ぎ、それを見たサギリが、穴が開いている。と、呟いた。

 見れば、確かに丁度、シグレの体の線にそって、何かが刺さったような跡が続いていた。恐らくは、針を投げつけられたのだろう。

「ご苦労様でした、シグレ君。しかし、体を傷つけずに、こうも正確に狙って来るとは、ゼラセさん、やりますねぇ」

「感心するとこ違うだろ。こっちは本気で命の危険を感じたぞ。尾行してたっつーのに、いつのまにかあのねーちゃん、俺の後ろに回ってて、問答無用に壁に縫い付けやがった! 壁から身を離すのに、どんだけ大変だったと思うよ!?」
 ああ。それは……と、言葉を返す。

「後でビーバーの皆さんにお知らせして、壁を埋めてもらわなくちゃなりませんね。シグレ君の体の形が跡になってたら、皆さん何事かと思うでしょうし」
 だから見るところ違うだろ! と、シグレが荒げた声に、怒る元気があるのなら、まだまだ平気ですよ。と、さらりと流す。

「フヨウさんが支度をしているうちに、早く手を洗って来てしまいなさい。今晩はフヨウさんの特製シチューですよ」
 オボロの言葉に、シグレはひとつ溜息をつき、頭をぽりぽり掻きながら、物臭そうに立ち上がった。

 夕食を終え、出されたケーキをぶっきらぼうながらも、きちんと褒めると、シグレは眠ると言って自室へ戻った。片付けは良いから、と、サギリも戻す。恐らく自室で二人、今日あった出来事を語り合うのだろうと思いながら、オボロとフヨウはゆっくりと、コーヒーと、ケーキを食べる。

 ふわり、としたスポンジの弾力に、香ばしい香り。甘くひろがる生クリームに、イチゴの酸味。
 ほっと、肩の力を抜けさせて安堵させてくれるような、こころを慰撫する、味だった。

 フヨウが食器を片付ける間、オボロはソファに腰掛け、ゆっくりと書物を捲る。外に響く虫の音(ね)と、食器を洗う水音。やがて片付けも済んだのか、フヨウが手を拭きながら現れると、向かい側のソファに座り、シグレの羽織を繕い出した。

 丸い、小さな指先が、器用に空いた穴を埋めてゆく。蝋燭の音が聞こえる。ぼぉん。と、柱時計が、ときを告げた。
「今日は、お疲れ様でした。センセ」

 顔を上げ、顔全体でフヨウは笑う。いえいえ。と、オボロは答える。

「今日はシグレ君が頑張ってくれましたからね。まだまだのところもありますが、ゼラセさん相手にあの時間まで粘れたんです。あともう少し教えたら、色々任せても、良いかも知れません……」
 そうですね。と、フヨウは返し、手を止めずに針を進める。針に繋がれた糸は、縫い目を殆ど感じさせずに、布と布を繋ぎ合わせる。

 また、しばらくの静寂が流れた。ページを捲る音と、何度か糸を切る、軽い鋏の音が流れる。出来た。と、フヨウが満足そうに、シグレの破れていた羽織を広げた。
 それは完全に、破れていた箇所が修復され、清らかなかたちを保っていた。センセ。と、針を仕舞いながら、フヨウが言った。

「シグレちゃんも、サギリちゃんも、良くやってくれています。たぶん、何かを任せれば、ふたりはきっと、全力で、それに応えようとしてくれると、思います。
 王子が、ここに私たちを呼んでくれて、様々な人たちと出会って、知って――いくさは嫌ですけれど、ここでこうして過ごせたことは、事務所にとっても、子どもたちにとっても、良いことだったと思います」

 ええ。と、言葉にオボロも同意する。様々な人のありさまを見た。そうして、それを率いる少年の、葛藤しながらも進む強さも、悲しみも、憤りも目にした。
 ――その光を目にし、何度も、目を逸らしていた、かつての闇を、深く思った――

 目を、伏せる。ナクラと出会った折、そっとしておいてやりたいというシグレに対し、サギリは戦うことを臨んだ。目を逸らすことを拒んだ。過去の自分を否定せずに受け入れた上で、なお、先へと歩もうとした。
 ――自分も、と、自然、思った。

 シグレやサギリが、一人前になるまで、探偵事務所がもう少し、根付くまでと、そう引き延ばし、引き延ばしにして来てしまったが、そろそろ、決着をつけなればならない時期なのかもしれない。
 それは他の誰でもない、幹部であった自分自身の責務に思えた。
 保身を思うつもりはない。ただ、子どもたちに、フヨウに、累が及ぶことだけが恐ろしい。失敗か、成功か、生か死か。それだけだった。

 センセ。と、フヨウの声が響いた。同時にふと、暖かな両の手が、自分の痩せこけた頬を、ふわりと覆った。大丈夫ですよ。と、声がかかった。

「わたしが事務所に入りたいと思ったのは、わたしが、そうしたいと願ったからです。シグレちゃんも、サギリちゃんも、きっと、そうですよ。
 皆、そうしたいと思い、そうした。ただ、それだけなんです」
 センセ。と、フヨウは続ける。子どもを諭すような、やわらかな抑揚で。

「センセの思うように、なさって下さい。ただね、忘れないで下さい。ここは、
『オボロ』探偵事務所、なんです。
 いつまでも看板が居ないのでは、看板に偽り有り。泥棒さんになってしまいますわ。それじゃ、折角の依頼人も、来なくなって、しまいます!」
 ――だからね、と、フヨウは言った。

「戻って来て、下さいね。真実を、守るためにも。それまでは、子どもたちと、私が、守りますから――」

 じんわりと、手のひらからぬくもりが広がっていた。頬に当てられたまま、オボロは自分の手のひらを、フヨウに手に、そっと重ねる。ぷくり、とした、働き者のフヨウの手は、安堵させ、こころを慰撫し、やわらかい。

 深く深く、頭を垂れていると。ぱたた、と、テーブルにいくつかの染みが、出来た。フヨウは何も言わず、ただ、手のひらを重ねている。
 眼と心が、どこまでも熱かった。

 ――さいわいとは、こういうことをいうのだと、心の底から、そう思った――

*END*

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