シグレ×サギリ 著者:9_505様
それは時折、自らの立つ位置を思い知らせるかのように。
突如として―――。
視界に広がるのは、赤い色。
かつては見慣れたはずのその色は、今となっては忌まわしい記憶を呼び覚ます。
「ここ、は……」
ふと気が付いたサギリの眼前では、沢山の家々が炎に包まれる様が広がっていた。
火の粉が風に乗り体に飛んでくることがあったが、彼女はそれを振り払う事さえ忘れ、
集落を襲った惨状に目を奪われている。
燃える住居を結んでいるのは、水に浮かんだ回廊である。
その独特の作りは、ビーバー族の居住区に間違いはなかった。
サギリが義勇軍に入って、初めて戦いに参加した場所。
見覚えのある光景を、女はひとりきり、ふらふらと歩き出した。
その表情は微笑みを貼り付けてはいたが、まるで生彩がない。
怖くてたまらないのだ。この村を包む炎が。周囲を彩る、暴力的な色が。
けれども、何故か歩みは止まらず―――彼女はその時に向かっていた集落の長の家を目指していた。
おかしなことに、これほどまでに炎に取り囲まれているというのに、少しも熱気が伝わってこない。
それどころか家が焼ける匂いさえも感じられない。
焼き討ちを受けているこの場所に当然あるはずの恐怖に満ちた喧噪も、
今のサギリの耳には届いてはいなかった。
まるで視覚以外は麻痺してしまったかのような、異常な感覚。
しかし彼女はごく自然にその状況を受け入れている。
あるいは、これが現実のものではないと、頭で分かっているからかも知れなかった。
ああ、これは夢だ。残酷な夢。
早く覚めてくれることを望みながら、幽鬼のごとき女は進んでいく。
赤々と照らされた夜空には、星がわずかな光を投げ掛けていた。
異変は、目的地へ続く道の途中で起こった。
見知った幾つかの人影が小柄な影へと挑みかかるも、その度に打ち倒されていくのを見る。
小柄な影は、出で立ちからして普通の人間ではなかった。
人相を仮面で隠し、身軽ではあるがしっかりと武装したその姿は、訓練を受けた暗殺者のもの。
徹底的に感情を排されたその人物は、少しの容赦もなく確実に相手の命を絶っていく。
人を殺すことだけに特化されたからくりじみた動きを、サギリは呆然と眺めることしか出来ない。
そして彼女が戦いの場に近付くにつれて、足元に重い固まりのようなものが転がるようになる。
よく見るとそれは屍で、仲間の顔をしていた。中には住民であるビーバー族も混じっている。
思わずしゃがみ込んで助けようとするも、生きている者は一人もいない。
皆、一様に自分がどうして死んだのかも分からないという表情。
苦しみを感じたのは一瞬だったのだろうか。
恨み言さえ言えなくなってしまった彼らを見つめると、虚ろな心の中にようやく
恐れ以外の感情が沸き上がってくる。
暗殺者にとっての最後の獲物は、軍主である少年と、彼の護衛である少女。
地に崩れ落ちる少女を見て、少年が泣きながら彼女の名を叫ぶ。
その間にも敵の凶刃は迫り―――結果、少年も同じ運命を辿ることとなった。
その身に大きな責任を背負い、歯を食いしばりながらも明日を探していた彼らが、
あっけなく倒されていく。
ひどく悲しかった。
もっと生きていたかっただろうに、不本意に絶たれた命のこと。
それに、一緒にいたことで、わずかでも心を通わせた人々を失うことも。
ひとりひとりが、明日があることを信じて力を尽くしても、
こんなにも容易く断ち切られてしまうものなのだろうか。
戦場で訪れるたくさんの“死”。
その“死”を前にして、“生”はあまりにも脆いように思えた。
サギリはこれが夢だと言うことも忘れて、胸の奥が壊れてしまいそうな気持ちになる。
こんな時でも、彼女は刷り込まれた笑みの表情をはりつけたまま。
涙を流すことはなかったが。
気が付くと、いつの間にかすぐ側まで先程の暗殺者が歩み寄っていた。
接近を許したのは、悲しみで我を忘れていたせいではない。
かといって、戦って退ける気も起こらなかった。
サギリは生きる気力のようなものが、心からすべて奪われてしまったような心地を感じていた。
自分のことなど、もうどうでもいい。
半ば投げやりな気持ちで、サギリはのろのろとその人物を見上げる。
隙だらけの自分に、どうしてか暗殺者は一向に襲いかかる動きをみせない。
仮面の奥からの視線と、女の弱々しいそれが交錯する。
言葉はない。
ややあって―――サギリは更なる絶望を味わうことになった。
暗殺者は、おもむろに身につけている仮面に手をかけた。
何故だかとてつもなく恐ろしい予感がして、サギリは後ずさる。
「い、や…………」
ついに悲鳴が口からこぼれる。ごく小さなそれは精一杯の拒絶。
ゆっくりと仮面が外される。
青白い顔色、感情を映さない瞳。
人形めいたそれは、感情を塗りつぶされて育てられた者の特徴である。
しかし露わになったおもての中で何よりも目を引く部分は、口元だった。
唇は両端を上げられ、笑みの形に固まっている。
貼り付けられた、虚ろな笑顔。
暗殺者の相貌を目にした瞬間、サギリの体は小刻みに震えだした。
―――私と、同じ。
我知らず口を手で押さえていた。
それはこみ上げる悲鳴を押さえるためか、または同じ存在であることを否定したいがためなのか。
恐慌に陥ったサギリには分からなかった。
ただ、視線だけは変わらず相手から離せずにいる。
暗殺者はサギリの動揺など意にも介していない様子だった。
ゆっくりと手を上げ、サギリの肩越し―――地面のある一点を指差す。
「え……?」
心を折られた彼女は、自然と相手の指し示す方向を振り向いた。
黒々としたものがたくさんあって、何を見せたいのかよく分からない。
けれどどうしようもない胸騒ぎと共に、その中から「何か」を探し出そうとする。
吐き気がするような光景を、目を凝らして、やがて。
「嫌ぁあ…………っ」
それは見つかった。
折り重なる遺体の中、目に入ったのは、自分の家族も同然の……。
たちまち目の前が真っ暗になる。もうこの“世界”で何が起こっていようとも気にならない。
ああ、これは夢だ。残酷な夢。
分かっている。こんなものは幼い頃から何度でも見てきたのだから。
頭の中で繰り返して己を納得させようとするけれど、怯えきった心は簡単には鎮まらない。
たとえ事実とは程遠いまやかしだったとしても、胸の痛みだけは真実で。
その耐え難い痛みを、どうやってやり過ごせばいいかばかりを考えている。
深い苦しみに苛まれ、もはや声も出ず、彼女は長い間うずくまっていた。
ぼんやりした意識の中で、眠りの終わりが来ることを祈りながら。
―――そうして、目を開ける。
「…………ぅ…………」
頭を少し揺らした瞬間に、ひどい頭痛が走った。
嫌な夢を見たあとは、いつもこうなる。
全身にはじっとりとした汗が浮かんでいた。
サギリは再び頭が痛まないように慎重に上半身をおこして、深く息を吐いた。
立てた膝を両腕で抱え込んで、しばらく目を閉じる。
遠くから水のせせらぎの音が聞こえる。
それを聞いていると、少しだけ動悸が収まってくるような気がした。
ここは、義勇軍の主将・ファルーシュ王子がセラス湖に構えている本拠地で、
サギリは与えられた部屋の寝台で休んでいる。
部屋の中は暗く、窓掛の隙間から差し込む星の光が唯一の灯りとなっていた。
いまの時刻はよく分からないが、夜明けにはまだ遠いらしい。
女は溜息を隠しきれない。
ビーバー族の集落での出来事は、もうずいぶんと前に終わったことなのに、
どうして今ごろになって夢に見てしまうのだろうか。
しかも、実際に起こったこととは全く違う内容に改めてまで。
現実的に考えれば―――義勇軍の精鋭たちがたった一人の相手に歯が立たないなどと言うことは
まずあり得ない話であった。
事実、このとき交戦した敵はすべて退けたし、仲間の内に死者も出なかったのだ。
下らない、と忘れ去ってしまえばよかった。
だが、サギリにとってはそのように割り切れない何かが、夢のなかにはあった。
大切に思っていた人々を失うこと。
その殺戮を行うのが、自分の写し絵のような存在だったこと。
さらに己は、何の手立ても打てずに立ち竦むことしか出来なかったこと。
禍々しい赤に塗り潰された夢は、彼女の持つ恐れと不安そのものだった。
そしてそれは、どんな道理にかなった考えよりもサギリの心を埋め尽くしている。
ややあって、女は鈍い動作で顔をあげた。
なんだか、もう一度眠ろうという気にはなれない。
ひどいものを見たおかげで、神経が冴え渡ってしまっていた。
ふと、口の中がからからになっている事に気が付く。
せめて水か何かを飲めば、もう少し落ち着くこともできるだろうか。
サギリは音もなく寝台を降り、扉の方に向かった。
水飲み場がある階下に降りるためである。
扉を開ける瞬間―――彼女はどうしようもない衝動にかられ、部屋を振り返った。
自分が両親とも思っている人たちは、安らかな寝息を立てている。
目で確認すると、わずかな安堵を得られた。
けれどもすぐ後、それは背筋が凍りつくような感覚に変わる。
歩み寄って、ついたての奥をのぞき込んだ。
いつも眠そうにしている青年の、特等席のような寝床。
……あの人が、いない。
寝台の上には整えられた布団が敷かれているだけ。
サギリの心臓が、どくりと音を立てた。
脳裏によみがえる、忌まわしき幻。
必死につなぎ止めていた彼女の自制心は、些細なことで脆く崩れていく
まさか……あれは夢。夢のはず……。
女は少しの間凍りついた風に動かなかったが、やがて寝台に背を向け歩き出した。
そのまま、眠っている二人を起こさないよう静かに扉を開けて、部屋を出る。
もう、水を飲むためなどではない。
彼の姿をこの目で見つけるまで、心の中の平穏は訪れそうもなかった。
部屋の外に出ると夜風が吹き付け、まだ汗ばんだままの身体を冷え切らせていく。
だが、いまのサギリにはむしろその温度が己に相応しいとさえ思えた。
―――凶夢に操られる、人形のような自分には。
誰もいない廊下を踏みしめながら、サギリはほんの少しだけ、胸のうちで泣いた。
酒が入ってわずかに火照った身体を冷やすため、シグレは外へ出た。
つぶれるほどに飲むような真似はしていなかったが、
セラス湖から吹いてくる冷たい夜気は肌に心地良い。
いい気分になった彼は特に考えもなく、のんびりと船着き場の方まで足を伸ばした。
その場所は、本体である塔の部分から湖へと差し伸べられる格好になっていて、
実際に降りてみるとますます涼しい風が流れている。
そこで男は何をするでもなく、どこまでも広がる景観を眺めていた。
澄んだ水面には雲一つない星空が映っていて、ときおり吹く風がさざ波を立てているばかり。
夜の本拠地はひっそりとしていて、すでに大半の人間が眠りについていることが伺えた。
見張りの兵士も少なく、そのことがいっそう今晩の空気を穏やかなものにしている。
この夜、ぼさぼさ頭の青年は遅くまで酒をたしなんでいた。
眠りたがりの彼にしては非常に珍しいことではある。
いつもは誰かしら人がいて騒がしい酒場が、今日に限っては無人だった。
青年はちょうどその折に寄ったのだが、そのままなんとなく落ち着いてしまったのだ。
何度か手酌を繰り返していると、ここ連日の戦いの疲れが癒されるようで、
なかなか悪くない気分がした。
この城にいる他の連中も、大仕事を終えて少し気がゆるんでいるのだろう。
ファルーシュ王子の義勇軍はゴドウィン卿の軍勢を破り、女王と王都を取り戻すことに成功した。
これにより、ファレナ全土を二分する内戦状態は王子側の勝利で終わりを告げた。
現在では、王都を敵軍の抑圧から解放した彼らのうち、主立った者がかの地に留まっている。
軍の中心となる者が拠点を移し、それに伴って多くの兵士が出払っているいま、
このセラス湖の本拠地には待機を命じられた少数の人間が戻ってきているのみであった。
シグレも、そんな中の一人だ。
悲願を達成した彼らだったが、事が全て終わったという訳ではない。
絶大なる力を秘めた、太陽の紋章―――それを奪ったゴドウィン卿は逃亡を続けたまま、
依然として居所が掴めなかったからだ。
彼を見つけだし太陽の紋章をあるべきところへ戻すまでは、
ファレナで起こった一連の動乱は真の結末を迎えることはない。
現在、義勇軍は全力を挙げてゴドウィン卿の所在を探っているが、
それさえ明らかになったならば、すぐにでも出撃があるのだろう。
おそらくはまた激しい戦いになるはずだ。
けれどもそれで今度こそ最後になるであろうことは、
この義勇軍にいる者は誰しも感じ取っているようだった。
そしていまは来るべき時のために、わずかでも休息を取る期間だと考えられていた。
……まあ、面倒くせえ事はもうすぐ終わりだ。
揺れる水面を見ながら、シグレは心の中で呟く。
戦いの終わりを前に、彼は幾分か気が休まる思いだった。
無愛想で表情の読めない青年であるが、いくさが好きかと問われれば即座に違うと答えるだろう。
彼は幼い頃、暗殺組織に身を置いていたという過去を持つ。
そこでは来る日も人を傷付ける術を教え込まれ、組織のための殺しを強要されていた。
苛酷な日々は彼の心に暗い影を落とし、いまだに癒えきらぬ部分さえあるほどである。
しかし平和な生活を与えられたいまでは、シグレは人と人とが殺し合う虚しさを
骨身に染みて理解していた。
それはきっと、普通の人生を送ってきた者と同じくらいに。
過去と向き合うためとはいえ、この義勇軍に身を寄せている以上
自分が再び誰かを害しているということは、分かっていた。そういう覚悟もしている。
けれど多くの犠牲者を出したこのいくさが終わることは、単純に嬉しいと思えた。
人死には、少なければ少ないほどいいに決まっているのだ。
それに―――サギリのこともある。
組織の束縛を逃れてからというもの、ずっと隣にいた近しい存在。
彼女もまた、暗殺組織のために幼い日々を暗闇に塗りつぶされた人間である。
サギリは普通の生活をはじめて八年経ったいまでも、
作り笑い以外の表情を浮かべることが出来ないでいた。
組織によって、標的の油断を誘うための笑顔を徹底的に訓練された末のことだ。
そして彼女も自分と同じように、多くの人を殺めるという罪を背負わされてしまった。
過去の苦い経験から流血を恐れ、戦うことを拒んでいた彼女も、
自分達を苦しめた組織がこのいくさでまたも暗躍しているのを知り、義勇軍に身を投じていた。
かつての彼女と同じ存在や命を奪われる人々を、少しでも減らしたいがための参加である。
それは、昔の過ちに正面から向き合おうという彼女の決意の現れでもある。
『わかった…私も、やる。もう……逃げない』
サギリを父の仇として憎んでいる者の前で、彼女が誓いを立てたとき。
微かに震えていた声音を、シグレはこの先忘れることはないだろうと思った。
罪と、覚悟と。名状しがたい感情を抱えたまま、今でもサギリはここにいる。
その固い意志を前に、余人が口を挟む余地はない。
誰よりサギリの近くにいたシグレであっても、彼女の心からの思いに対して
水を差すようなことは出来なかった。
人の、いちばん奥底にある問題に決着をつけられるのは、結局は当人だけだと知っているから。
自分達は同じ境遇で、ずっと隣にいた存在。
それでも、サギリが納得する生き方は、きっと彼女自身にしか見つけられない。
だから今は、彼女の気が済むまで。シグレは近い場所で、その軌跡を見届けようと考えていた。
サギリにとって、本当は何が最善かは分からない。けれど自分は変わらず、隣にありつづける。
それこそが過去と対峙する彼女の側にいるうえで、青年がかたく心に決めていたことであった。
そういった“本音”は―――気恥ずかしくて、誰に言えそうにもなかったが。
ただ、どんなに心積もりをしていても、気がかりはある。
戦いのさなか、彼女の瞳によぎる寂しい光のことだ。
もともとサギリは気の優しい女であり、戦いを極端に嫌っている。
そんな彼女は大規模な戦闘があるたびに、どこか疲れたような空気を纏わせていた。
おそらくはこの軍にいる間中、過去に向き合わなければならない責任と、
人を傷付けたくないという心情が、せめぎ合っていたのだろう。
感情の板挟みになるサギリの姿を間近で見ていると、
彼女を早く解放してやりたい気持ちになったのも確かであった。
サギリに決意があることは先に述べたとおりに、重々承知の上。
かといって、彼女の痛々しい様を見ていて平気かと言われれば、当然そうではなく―――
至極簡単でつまらない結論ではあるが、サギリのためにもこの争いが
早く終わることが重要だと考えたのだ。
戦いを続けなくてもいいならば、さしあたって彼女が心をすり減らすことはなくなるだろう。
……もう、あいつが痛い目を見るのは十分だ。
数々の憂いを抱えながらも、懸命に立ち上がろうとしているサギリ。
シグレは、そんな彼女に新たな傷を負わせたくはなかったのである。
「……どうも、柄じゃねえなあ」
とりとめのない思考がいつしか深刻になっていたのに気付いて、男はほんのわずかに口の端を上げた。
こんな風に真面目くさって考えこむなどということは、全くもって性に合わない。
サギリのことなら、もうそれほど心配は要らないはずだ。
王都奪還戦を終え共に本拠地に戻ってきたとき、
彼女は大仕事での緊張を解き、かなり心を休めていた風だった。
自分が必要以上に気に揉まなくても、特におかしな点はないように見える。
あとは、ファルーシュ王子が残している最後の後始末に手を貸したら、
ここでの自分達の役目は終わるのだろう。
義勇軍も解散して、また探偵船での日常が戻ってくる。
そうしたら、サギリも過去をもう少し吹っ切ることが出来るような気がしていた。
いくさの事でたびたび悩んでいたサギリだったが、義勇軍での生活の全てが
彼女にとってマイナスに働いたという訳ではない。
むしろ同年代の娘が仲間に数多くいるこの場所で暮らしたことは、
彼女にいい影響をもたらしていたように思う。
普通の毎日を繰り返して、そうしたら……いずれは、凍りついたサギリの表情にも
感情の起伏が表れるのではないかと、シグレは期待している。
いや―――待ち望んでいる。
だからその時のためにも、しっかりと生き残らなくてはならない。
自分も、彼女も。最後の戦いだけではなく、その先も。
まずは生きていなければ、どんな将来に繋がる道もないのだから。
ふと、愛用している煙管が欲しくなり、腰まわりに手を伸ばした。
しかしそこにいつもの感触はなく、どうやら寝泊まりしている部屋に
置いてきたらしいことに思い至る。シグレは少々不満だったが、諦めることにした。
どのみち眠気を感じ始めている。そろそろ戻って休むとするか。
寝付きのいい自分ならば、多少の欲求はものともせずに眠れるだろう。
青年は誰にはばかることなくあくびをし、来た道を戻るためその場を振り返った。
すると、視界の奥の方―――塔の露台の部分から、白い人影がこちらを見ていることに気付く。
それだけならまだ気に留めなかっただろうが、その人物はシグレが振り向いてから、
一拍置いて駆け出しはじめていた。
「……あん?」
こんな夜中に何をやっているのだろうか。
夜目が利くシグレであったが、距離があるために相手の顔までは判別がつかない。
けれども人影はただひたすらに自分に向かって走ってきており、それがさらに彼を訝しませていた。
やがてその人影が、湖水に建てられた石の廊下まで降りてきたころ、
相手の顔が分かったシグレは、ますます目を丸くすることとなった。
「サギリ。お前、どうしたんだ?」
脇目も振らずに青年の元へとやってきたのは、今しがた彼が思いを巡らせていた同僚の女性だった。
組織での特殊な訓練のためか、結構な距離を走ってきたにも関わらず、息にはあまり乱れがない。
彼女が自分を見上てくる瞳は、今は特にぼんやりとしていて、
容易に考えを掴むことが出来なかった。
「あー、だから、何だって……」
一体何ごとかと思い近くに寄ってみる。
と、シグレは彼女の着ている服に気付いた。
なるほど、遠くからでも彼女の姿だと分からなかったのは、このせいもあるらしい。
サギリが身につけているのは普段の探偵助手としての服装でなく、白い薄手の寝間着だったのだ。
丈の短い衣服の上下からは、ほっそりとした四肢がむき出しになっている。
それをまじまじと見たあとで、青年はあからさまな溜息を落とした。
「……お前なあ。そんな格好でうろうろしてんじゃねえよ」
シグレの口から出たのは、怒っているというよりも、呆れたような響きの声。
彼は元より愛想のいい青年ではないが、低められた口調でさらにすげない印象になる。
サギリという女には、年頃の割に鈍いというか、無防備な一面があった。
それを今のごとく目の当たりにしてしまうと、いい加減で通っているシグレも、
柄にもなく渋い顔にならざるを得ない。
大体にして、危なっかしいのだ。
この城には年がら年中・誰彼構わず求婚するような、度が過ぎた女好きがいる。
他の連中ならまだともかく、“アレ”と遭遇することを考えると、
サギリが寝間着姿で城を歩き回るのはとてつもなく好ましくないことに思えた。
それに―――何より自分が、目のやり場に困る。
サギリの、細くてまっすぐな髪はなめらかな首筋を隠し、彼女の呼吸に合わせて微かに揺れていた。
星明かりのもとで青白く発光しているかのような、華奢な手足。
さらに、大人しい顔立ちに反してふくらんだ胸が、寝間着を押し上げているのがちらついて―――
……………おっと、やべー。
いつの間にか、視線がその部分に吸い寄せられそうになり、シグレは慌てて彼女から目を逸らした。
こんな風に間近で見ていると、普段は努めて抑えている感情を、掻き立てられてしまいそうだ。
こいつは俺の頭ん中なんか、分かっちゃいねえんだろうが……
見上げる瞳は余りにも澄んでいたので、シグレはほんの少しだけ彼女が憎たらしい気分になった。
それにしても、本当に様子がおかしい。
今の家族と暮らすようになってから、規則正しい生活を送っているサギリは、
こんな風に夜中にふらふらと出歩く癖など無かった。
おまけに、自分を見つけて急いで走ってきたわりには、彼女はそれから一言も話そうとしない。
ただじいっと、シグレの顔を見つめているのみである。
「まさか、寝ぼけてんのか?」
怪訝に思った彼は、女の顔前で手を動かしてみるが、やはり反応はない。
長年の付き合いがあるシグレとしても、こうも妙な状態になっているサギリに対して
どう扱えばいいか戸惑ってしまう。
微笑んでいるばかりの、考えが読めない女―――他人からはそう見えていたとしても、
自分はおおむね彼女の感情を読むことが出来る。多少の自負があったのに。
茶色の頭をぼりぼりと掻いてみる。
しかし、それでこの状況がどういうことであるのか、答えが浮かぶはずもなく。
……なんか……考えるの、面倒くさくなってきたな。連れて帰るか。
非常に彼らしい結論に達したのは、間もなくのことであった。
しかし―――このままの状態の彼女の手を引いて部屋に戻るのは、何となく居心地が悪い。
せめてサギリの、この妙に刺激的な服装だけはどうにかしなくては。
そう思ったシグレはとりあえず自分が着ていた羽織を脱ぎ、女に手渡そうとした。
ところがぼんやりしているサギリは彼の意図には気付かない。
そのため青年はまたしても大きな溜息をつき、彼女の両肩に羽織を引っかけたのだった。
彼はさほど大柄な体格ではなかったが、男物の上着はさすがにサギリの体には合わない。
特に肩のラインは目立ってずれていて、少し不格好な姿になってしまう。
けれども露出した肌は大部分を覆うことが出来たので、シグレはそれで良しとした。
さしあたって一番の問題は……夜中に二人で手を繋いでいるという現場を、
誰かに見とがめられやしないかだ。
寝ぼけた同僚を部屋に連れて帰る。
それ自体には色気の欠片もない行為である。シグレとて、他意がある訳でもない。
しかし、こんなところを他人に目撃されたらと思うと、それこそ死にそうなくらい恥ずかしい。
その事態だけは猛烈に遠慮したい。
よって、出来るだけ人気のない道を通って帰ることを心に決める。
青年はいまだぼうっと佇んだままのサギリに、いつもの通り適当な言葉を掛けた。
「あー、サギリ。寝ててもいいけど、ちゃんと歩けよ」
帰るぜ、と。男は何気なく、彼女の片手を引いて歩き出す。
サギリの手はやけにひんやりとしていたが、シグレはさして気には留めなかった。
その時、背中ごしの彼女の様子も当然目にすることもなく―――。
「……………シグレ」
弱々しく、かすかな。
ようやく女の唇からこぼれた声は、己の名前。
それを頭で認識するより早く―――シグレは右腕に、何かが軽くぶつかるような感触を得た。
「えっ」
はっとしてその方向に首を動かしてみると、
サギリが自分の腕にしがみついているところが、目に飛び込んでくる。
「うおっ……!お、おい、何だ?」
シグレは思わず、阿呆のように上擦った声を上げてしまう。
女の動きは静かだったが、青年にはあまりに思いがけないものだった。
ゆえに彼は、自分が酔いのあまりあやしい幻覚でも見ていることを、疑ったくらいである。
しかしサギリと触れ合う感覚は、これをまさしく現実だと説明している。
抱きしめられた腕からは彼女の体温が伝わり、それがますます男をうろたえさせた。
冷たい。
先ほど手を取ったときはさして気にならなかったが、
こうして身を寄せ合っていると、改めてその異様さを実感させられる。
芯まで冷え切ったサギリの体は、シグレの羽織の下で小刻みに震えていた。
「……よ…った」
「あ?」
再び女の口に上ったのは、やはり消え入るような声音。
こんなに近くにいてさえ、上手く聞き取ることが出来ないほどの。
より注意深く耳を傾けると、サギリがわななき混じりに囁いているのが分かった。
「よかった…シグレ……ちゃんと、生きてる」
「サギリ、お前―――」
彼女の言葉が届いたとき、男は唐突に理解した。
サギリのこの体の震えが、どこから来ているものなのかを。
寝間着姿で自分の元へと駆けてきた、その理由は。
女は青年の腕に顔を押しつけている。
覗き込んでみたなら、おそらくそこには普段と変わらない微笑みがあるのだろう。
けれど彼女の心の内側の表情は、今のシグレには簡単に想像できた。
泣いているのだ、と。
右腕の戒めをそっとほどいて、サギリに向き直る。
「……あ…」
彼女が息を漏らした。その吐息には、落胆の色が隠せない。
わずかばかり腕に寄りかかっていた女の体は重心を失い、心許なくふらつく。
かろうじて姿勢を整えようとするサギリの姿。
だがシグレは彼女が顔を上げるよりも早く、その両肩を掴んでいた。
全身があらかじめ持っている考えを離れて、自然に動く。
よろめく細い体を引き寄せ、腕の中にすっぽりと収めてしまう。
彼女のわななきがいっそう強くなったけれども、一向に構わなかった。
ただ、苦しくない程度にやんわりと抱きしめる。
触れ合った場所から、サギリの冷えきった体温が伝わる。それに伴い、奪われる肌の熱。
しかし逆に、胸の奥からは温かな思いが次々と染み出すのを感じていた。
「……どんな夢、見たんだよ」
尋ねる男の声は、この夜で最も穏やかなものになった。
彼女は涙を流せない。
感情を、涙に変えて流すことは出来ない。
だから悲しみは、言葉に託して。
そして彼女は訥々と、辛い夢の内容を語りはじめる。
気が付けば、先程まで吹いていた風はほとんど止んでいた。
それでもシグレはサギリから身を離そうとはしない。
震えが収まるまでのしばらくの間、彼女を包むようにして抱いていたのだった。