ボクらの花
―ゴトッ。ガシャン。
あっという間のできごとだった。真っ先に頭に浮かんだのは
母さんの怒った顔。それから、悲しそうにうつむく顔。
ボクは思わずぎゅっと服の裾を握りしめた。母さんがおばあちゃんちに行ってから一週間がたつ。いつ帰ってくるか分からないけど、帰って来るときは笑顔でいてほしいのに。
ボクの足元にはボールが転がっている。おそるおそる振り返ると、粉々になった花瓶とぐったりと投げ出された花があった。
「どうしよう・・・・・・」
奈々はボクの後ろで、おろおろと立ち尽くしている。今にも泣きそうな様子に、ボクは慌てて花瓶のかけらを集めだした。
「大丈夫、大丈夫。兄ちゃんが何とかするから」
こういうときこそ兄らしさを見せようと胸を張ると、奈々はわっと泣き出した。
「お兄ちゃんがお部屋でボール遊びしよって言ったからだよ。ナナは悪くないもん。ナナはだめって言ったもん」
確かにせまいマンションの部屋で、ボール遊びなんか始めたのはよくない。でも奈々が、「だめ」なんて言った覚えはないぞ。面白がって「やろう、やろう」って言ったじゃないか。
「めちゃくちゃなボールを投げたのは奈々だろ」
「ナナはまだ一年生だもん。お兄ちゃんが受けるの、ヘタクソ
なだけでしょ」
せめて一つくらいと反論すると、すぐに言い返された。いつだって口で勝つのは奈々だ。顔は全然似てないくせに、こういうところはだんだん母さんに似てくる。
「あーもう、わかった。兄ちゃんが悪かったって」
だんだん面倒くさくなって適当に答えると、奈々はにやっと笑った。さっきまで泣いていたのが嘘みたいだ。
「じゃあ、おかたづけ手伝ってあげる」
あげるって何だ。花瓶を割ったのは奈々だろ。そう言いたいのを我慢して、一緒に片付ける。花瓶がのっていた戸だなの裏にまで破片が散らばっていた。奥の方は暗くて見えにくい。
「痛っ」
人差し指にガラスの破片が刺さった。傷は浅くて、血はほとんど出てない。
「はい」
奈々が傷テープを持ってきてくれた。かわいらしいピンクのうさぎが描いてある。一瞬、受け取るのをためらった。
「あ、ありがと」
まあいいや。明日には治ってるだろうし。
「奈々は怪我してないか?」
「してないよ。お兄ちゃんじゃないんだし」
どういう意味だ、それは。3つも年下のくせに生意気な。そうこうしてるうちに、花瓶は片付いた。
「でもどうしよう……同じやつ、どっかに売ってないかな。困ったなあ」
花瓶なんて自分で買ったことなんかない。それに、ボクのおこずかいは、おやつやゲームに使っちゃってほとんど残ってなかった。母さんがいつ帰って来るかは分からないけど、それまでには何とかしなくちゃ。
「なーにーが、『困ったなあ』なんだ?」
急に頭の上から声がしたから、ボクはびっくりして、しりもちをついてしまった。しかも運悪く、水がこぼれた場所だ。
「わー、お兄ちゃん、おもらししたみたい」
くすくすと奈々が笑ってる。顔を上げると父さんの腕にぶらさがっている奈々が見えた。父さんは帰って来たばかりらしく、まだ着替えていない。
「こら、お前たち。また何かやらかしたな」
父さんは、怖い顔で言った。
「何でも壊れたら買えばいいってもんじゃないぞ?」
「そーよ、そーよ」
奈々まで一緒になって言っている。
「でも・・・・・・」
ボクだけが悪いんじゃないって言いかけて、ボクはやめた。父さんがますます怖い顔をしたからだ。そんなこと言ってるんじゃない、と父さんの目が言っていた。
「――――ごめんなさい」
「それは父さんじゃなく、母さんと花瓶に言わなきゃだめだぞ」
そう言った父さんの顔は、いたずらっぽく笑っていた。どういう顔をすればいいか困ってるボクの頭を、ちょっと乱暴になでる。
奈々は、父さんの腕から離れて花瓶のかけらに頭を下げた。
「・・・・・・ごめんなさい」
奈々はボクのほうを見て、少し笑って見せた。父さんはボクの横で満足そうにうなずいている。
「よし。花瓶は父さんが何とかしてやろう。――――しかーし」
途中で父さんは急に声をひそめた。
「困ったことが一つある」
ボクと奈々は顔を見合わせた。
「この花は花屋さんには売ってない」
父さんは腕を組んで言った。さあどうする、という顔でボクを見た。花のことまでは考えてなかったボクは、返事に詰まった。そういえば母さんは、花瓶より花を大事にしていた。
「う・・・・・・」
ボクは困って奈々を見る。奈々は小さく首をふった。
「もう一回、花瓶に生けてもだめかな」
ボクはぐったりした花をそっと拾い上げた。奈々も花をのぞき込む。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
奈々が、急に大声をあげた。
「ん?」
「根っこ。根っこ」
「えっ?」
奈々が花を指さす。茎の下の方の部分に、ちょろっと白い根っこが生えていた。
「地面にうめたら、また咲くかも」
奈々は「ねっ?」と得意そうにボクの顔を見た。
「種じゃないんだから、埋めちゃだめだろ。植えるんだよ」
ボクも嬉しくて夢中でそう言った。奈々はぷうっと頬をふくらませる。
「なによー」
珍しく奈々に勝った気がする。ますますボクは嬉しくなった。
「母さん、大事にしてたもんな。だから根っこまで生えちゃったんだな」
「早く植えなきゃ」
「そうだな」
うなずいて、ふと父さんを見た。
「父さん」
「よかったなー、お前たち」
父さんはにこにこと言った。ボクがほっとしたとたん、父さんはいきなり頭をかかえて叫んだ。
「ああーっ!」
「な、何、どうしたの、父さん」
「植える場所がない」
ボクはぽかんと口を開けて父さんを見た。そういえば、うちはマンションだ。しかも二階だから庭はない。
「大丈夫、お母さんのプランターがあるもん。まだ何も植えてないよ」
どうしようと大騒ぎしているボクと父さんの横を、奈々はさっさと通り過ぎる。そのままベランダに出て、プランターの側にしゃがみこんだ。
「やー、しっかりしてるな。奈々のやつ」
父さんは感心したようにうなる。
「けど生意気だよ。ボク、いつも負けてる」
「そりゃあ、仕方ないな。女の子はいつだって強いからな」
「父さんも母さんに負けてるの?」
思わずボクは聞いた。言ってから、まずかったかな、と父さんの顔をのぞき込む。父さんはボクに、にやっと笑ってみせた。「それは違うな。負けてやってるんだよ」
そう言うと、父さんはふと笑うのをやめた。
「もう! お兄ちゃんもお父さんも手伝ってよ!」
「はいはい、今行くよ」
ベランダに向かって答えると、父さんはボクの顔を見た。
「うーん。やっぱり今回も父さんの負けだな。もう一度、負けてやるか」
それはもしかして・・・・・・。
「奈々、その花を植えたらおばあちゃんちに行くぞ」
「ほんとっ?」
父さんの言葉に、奈々はぱっと顔をあげる。
「よかったね、お兄ちゃんっ」
にこっと笑いかける奈々に、ボクもうなずく。
「もう寂しいって泣かないですむよね」
「そ、それは奈々だけだよ」
ボクは真っ赤になって言い返す。もう少しで奈々の言葉に乗せられるところだった。
「ははは。―それにしても、母さん許してくれるかな」
父さんは、ふうっと息をついた。
「がんばれー、お父さん」
奈々が持っていたスコップを振り上げる。ボクも、「がんばれ父さん」と心の中で言う。
「お兄ちゃん、お水やって」
奈々に言われて、ボクはジョウロで水をやった。
「早く元気になれよー」
花瓶の花から根っこが出たなんて、どんな顔するだろう、母さん。
「お兄ちゃん! やりすぎ!」
「あんまりやりすぎると腐っちゃうぞ」
奈々と父さんに注意されて、ボクは慌てて傾けたジョウロを戻す。少し水がはねて、またズボンが濡れた。
「あーあ・・・・・・」
「早く着替えなよ」
ちょっと恨めしい目つきで、ボクは奈々を見た。別に奈々のせいじゃないけど。
「そうだ、どうせ今から出掛けるんだから、二人とも着替えておいで」
「はーい」
ばたばたと部屋に上がって、奈々が着替えに行く。
「まあ、お前たちが来てくれるから、きっと大丈夫だよな」
父さんがそう言って、ベランダから遠くの街を眺めた。母さんのいる、おばあちゃんの家を見ているのかもしれない。
その足元で水をやったばかりのプランターの花が、夕日を浴びてきらきら輝いていた。