◆ 舐める ◆
「舐めるんだよなあ」
「いきなり何の話です、木場の旦那?ああ、ほら、お茶がこぼれたよ関口君。君がその何日はいたかわからないようなズボンを汚すのは勝手だがね、この部屋にある本に少しでも被害を及ぼしたらただでは済まないからね、覚悟したまえよ」
「わ、わかってるよ、京極堂。旦那、なんだって?」
「いや、だからよ、今ここにいねえヤツがよ、最近さ」
「ああ、関口君、君、汚れを拭いてるのかい、それとも広げてるのかい?全く、何をやっても駄目なんだなあ、君は。で、旦那、なんですって?榎さんがどうしたんですって?ほら関口君、貸したまえ」
「ご、ごめん」
「おい京極堂、畳にもこぼれてるぜ」
「ああ、全く。全くとしか言いようがないね、関口君。ちょっとどきたまえ、僕がやった方がいくらかましなようだ」
「何もそんな言い方しなくたっていいじゃないか、京極。旦那、榎さんが何がおかしくたって、別に今更なんてことないんじゃないのかい?もう随分長いこと付き合ってるけど、おかしいのが榎さんじゃないか」
「だってよ、舐めるんだぜ?普通するかよ、そんなこと」
「一体何を舐めるって言うんです?油ですか?なにやら大層猫が好きなようだし。
君、関口君、君だよ。靴下まで濡れてるんじゃないか?歩いた後が見えるじゃないか」
「うわっ、ホントだ。ご、ごめん。どうしよう・・」
「いやあ、油じゃあねえんだけどよ。・・俺が見てねえだけで、油も舐めてやがんのか、もしかして?おい、先に足の裏雑巾で拭いちまえよ。あんたは全く、子供みたいだなあ。」
「本当だね、ほら、靴下を脱いで。なんで僕が君の後始末をしなくちゃいけないんだろうね。まあ、油じゃないとして、何です?君のお陰で、人の話を真面目に聞くことすらできないじゃないか、関口君。だから、まず靴下を脱ぎたまえと言っているのに。この家に君の足跡をいくつ付けるつもりだい?」
「ご、ごめ・・うわっ」
「おいおい、どうしたんだ?」
「……他人の家に勝手に遊びに来て茶を出させた挙句、こぼして汚して、立ち上がったと思ったらつまずいて卓袱台にぶつかり、茶碗を割る、か。実に君らしいね。いいかげん少しは年相応の大人らしく、落ち着きというものや分別なんかを身に着けたらどうなんだい?大体君はねえ・・、ああ、言ってどうにかなるものならとうの昔にどうにかなっているな、これは僕が悪かったよ。もういいから、ちょっと庭にでも出てズボンを乾かすなり靴下を絞るなりしてきたまえ。せめて片付けの邪魔だけはしないでくれ、ほら」
「……………」
「・・なんつーか、なあ。相変わらず、なんて言ったらいいのか……」
「何にも言わなくて結構ですよ。・・いや、何か言いかけてましたよね。榎さんがどうしたんですって?まあ、あんまり聞かなくてもいいような気もしますけどね」
「ああ、そうそう、それよ。いや、どうも最近なあ、あの野郎、なんでもかんでも手当り次第舐めんだよ。机や三角錐や鉛筆や、まあ、なんでもだな。こう、まず臭いをかいでからペロリとさ。それからなんか、不思議そうな顔して、で、違う、と言う」
「何が違うんです?」
「それさ。何が違うのか訊いてみても『五月蝿いバカ修、この僕にわからないことがお前ごときにわかるか』とこうだ」
「本人がそう言うなら放っておけばいいじゃないですか。あ、旦那、破片がどこまで飛んだか判りませんので気を付けてください」
「おう。いや、そうなんだよなあ。あの野郎に係わるとどうせロクなことにならねえしなあ」
「例えば犬は、親愛の情を示すときに舐めますけどね」
「ああ、そうだな」
「猫は甘えるときと・・、それから獲物を舐めますよね、これから食べる。案外、それに近いんじゃないですか?あ、旦那、笑ってますね」
「だってよ、いくらあいつが人間じみてないっつてもよ・・」
「日本語がおかしいですよ、旦那。『人間らしくない』か『動物じみている』だと思いますがね」
「はいはいだよ、古本屋。あーあ、そうだよなあ、わかんねえよなあ」
「提供された情報も少ないですしね。わかりたくないというのが本音です」
「ま、だよな。俺、もう帰るわ。悪かったな、邪魔してよ」
「・・慣れてますけどね」
「ああ、いいやいいや、忘れてくれ、ヘンな話して悪かったよ。こう、腹に溜めておけなくてよ」
「僕は塵溜めですか?」
「ひねくれた言い方するんじゃねえって、細君によろしくな、・・ん?」
「あ・・」
「わーーははははははは、もうとっくに春だというのに、ここにでっかいコタツがいるぞ!お前、下駄男、ここで何をやっている!茶だ、京極堂、茶を所望だ!!最中はいらんぞ、出すな!!羊羹がいい!おお、猿!!そんなところで何をやっている。そうか、お前、立たされ坊主か、おもらしか!」
「え、榎さん、大きな声でなんてことを・・違うよ」
「お、赤くなったぞ、赤猿だ赤猿だ。京極、茶だというのに、急げ!」
「今淹れてますよ、うるさいなあ」
「バカ修、何を突っ立っている、座れ座れ。ただでさえでかいのに鬱陶しいことこの上ないぞ」
「やかましいや、生憎だが、俺はもう帰るとこだよ。全く、お前一人来ただけで百人から人間がいるみたいだぜ。うるせえったらありゃしねえ。じゃあな、京極堂、邪魔したな」
「なあんだ、帰っちゃうのか、修ちゃん・・。よし、僕ももう帰るぞ」
「榎さん、お茶が入りましたけど」
「お前飲んどけ、京極。それか、あそこの震え猿に飲ませとけ。僕はもう帰る。待てよ修ちゃん、一緒に帰ろう。おい、待てって」
「・・二度と来なくても一向に構いませんがね」
「わははは、そう言うな。またな。おい、修ちゃんってば!」
「・・まあ、猫は、本当に食べるものしか舐めないんだけどね。臭いを嗅いで、舐めてみてから、おいしそうだったら本当に口に入れる。美食家だからね。親愛と食欲が隣り合わせなのかなあ?それもまた随分・・。まあ、いいか。関口君、雲も出てきたし、風邪でもひかれては夢見が悪そうだから、上がってきたらどうだい?」
「あ、うん・・」
「君、靴下持ったまま立ってたのかい?」
「うん」
「・・縁側に置いておけばよかったじゃないか」
「あ、そうか・・、い、いや、わかってたんだけど、悪いなと思って、本当だよ」
「誰も嘘だなんて言ってやしないよ。ほら、それはまだ乾いてないだろう?そこに置いて上がってきたまえ。一つお茶が無駄になったから振舞ってあげるよ」
「なんでそういう言い方をするかなあ・・、あ、痛っ!」
「どうした!」
「・・いっったーーーーー・・」
「足の裏か?見せたまえ!」
「わっ!!な、何するんだ京極堂、しりもちついたじゃないか!痛いなあ、もう」
「文句を言える立場かい?ちょっと大人しくできないか?」
「・・」
「・・ああ、ほら、破片だ。君が壊した茶碗の。畳の隙間にひっかかってたんだな」
「・・ごめん」
「今日だけで何回謝ったかねえ。舐めるよ」
「え?」
「手っ取り早い消毒法だろう?」
「そ、そうだけど・・」
「君に薬だなんて、もったいない」
「・・酷いなあ」
「修ちゃん、修ちゃん、しゅーうーちゃん」
「ついてくんなよ、礼二郎、鬱陶しいヤツだな」
「ヒドイ顔してヒドイ事を言うな。下僕のくせに。どうせ今日は仕事じゃないんだろう?一緒に帰って酒盛りをしよう」
「馬鹿言え、なんでお前と酒盛りなんて」
「いいじゃないか、しようよう、しようよう、なあ、木場修。僕は最近、何を食べてもうまくなくて困ってるんだ」
「関係あるか。・・うわっ、馬鹿、道っぱたでからみつくな鬱陶しい、こらっ、く、首を締めるな、噛むな!こら!舐めるなって!!くすぐってえだろうが」
「・・あ、これだ、わかった」
「あ、なんだよ?おい、放せよ」
「お前は知らなかっただろうが、僕はここのところずっと悩んでたのだ」
「悩むようなタマかよ、お前が」
「五月蝿い、今はわかったから教えてやろうというのに。あ、『うるさい』と『うまい』は似てるなあ」
「似てねえよ。だから、別にこっちは知りたくもねえってばよ」
「そうか、では教えてやらん。ふうん、そうか。修ちゃんは知らなくてもいいのかあ」
「・・なんだよ、その言い方、気になるじゃねえか。言えよ」
「うちに来るか?」
「行かねえよ」
「じゃあ教えない」
「ガキか、てめえは。酒代はてめえもちだろうな」
「教えを乞う上に酒までご馳走になるつもりなのか。呆れるなあ、修ちゃん」
「文句言うなら行かねえぞ」
「まあ、いいか。その後食べさせてもらうしな」
「あ?何だって?」
「あはははははは。行くぞ、木場修!」
了
●本人の解説(言い訳)・・お友達の美坤桜良(みずちさくら)さんのHPでうっかり地雷を踏んでしまった時に、美坤さんのリクエストに基づいて作ってしまったものです。この内容はそのせいなんです。あ、乙女向け&15禁です。