●「悲劇の誕生」読解メモ |
理解できているか怪しいです。 参考にする人は十分に疑って掛かって下さい。 第一章 ・アポロ的なものとディオニュソス的なものが相互に刺激し合った結果、どちらの要素も含んだ「アッチカ悲劇」が誕生した。 ・アポロ的なものは感情・情景(?)に形を与えるもの、たとえるならば夢の世界。具体的には詩歌や彫刻などがアポロ的なるもの。 ・アポロとは個体化の原理。たとえばリンゴの絵を描いたなら、それは「リンゴ」という個体化を果たしたということ。 ・ディオニュソス的なものは陶酔。個体化の原理が打ち壊され、主観的なものは自己忘却に消え去る。 ・ディオニュソス的なものの魔力の下では、人と人とのつながりや自然との和解が果たされる。 ⇒ある情景を詩歌に書くように、心の中にあるものを理知的に詩歌という形にする(もしくは彫刻を作ったりして、とにかく形にする)のがアポロ的なもので、そうではなくて感情が高まって踊ったり歌ったりする(個体化の原理が打ち壊される)のがディオニュソス的なもの。それら両者の交合の結果生まれたものがアッチカ悲劇。要はストーリーがあって歌も踊りもあるってこと?? 第二章 ⇒アポロ的なギリシア人にバビロンとかからディオニュソス的な力が入ってきた。アポロ的なものとディオニュソス的なものがないまぜになってギリシアの秘祭はいい感じになった。 第三章 ・オリンポスの神々を作ったのはアポロ的なもの。 ・オリンポスの神々は善悪に関係なく等しく神化されている。 ・ギリシアの伝説。王「人間にとって一番善いことってなに?」魔神「存在しないこと、次に善いことはすぐに死ぬこと」 ・ギリシア人は生存の恐怖を知っていたがゆえに、オリンポスの神々を生存するために必要に迫られて作った。 ・ギリシア人は自分の姿をオリンポスの神々として具象化した。 ⇒生きていると何か色々と辛いこととかあるので、ギリシア人はそれに対処するために、アポロ的なもの(個体化)を通して、自分たち人間をオリンポスの神々として具象化した。だからオリンポスの神々はあれほど人間的なのかも。神々を生活に組み込むこと、つまり自然と一体化することで、色々と辛いことを直視するのではなく、間に神々を置いてみることができるとか、そういう感じ。ニーチェさんによると、これは良いことっぽい。 第四章 ・寝てるときに夢を見て、そんで夢だと気付いてると基本的に楽しい。夢の世界を楽しむためには、普段のイヤなこととかは忘れてないといけない。 ・つまり、実生活はイヤなこととか色々あるので、心を魅了する楽しいもの(つまり芸術)が必要。 ・根源的一者(何を意味しているか良く分からないが「世界そのもの」といった意味合いか?)を想定すると、人は仮象であり、人が見る夢や人が作るアポロ的な芸術は仮象のさらに仮象となる。 ・アポロが信徒に要求するものは節度。それに対し、慢心と過度はディオニュソス的なもの。 ・苦悩と認識をアポロが覆い隠しても、ディオニュソスはそれを剥ぎ取る。 ・ディオニュソス的なものが入り込んできてアポロ的なものは色あせたけど、またアポロが盛り返してドーリス式芸術が盛んになった。そっからさらにアポロとディオニュソスが一緒になってアッチカ悲劇になる。 ⇒なんか色々辛いこととかあるので、神々を設定するとか芸術とか理知的に色々と作って(アポロ)対処するけど、理知的なものじゃない感情のあらわれ(?)みたいなの(ディオニュソス)が出てきて、それが今まで理知的に対処してたことをひっくり返す。ひっくり返したら「なんか色々と辛いこと」がまた出てくるんだけど、それは苦痛でもあるけれど歓喜でもある。色々辛いことに対して理知的に対処するのもいいけど、理知的じゃない感情の昂ぶりみたいなの(踊ったり)もあって、それはそれで楽しい。ということなのかなぁ・・・。 第五章 ・ギリシアの二人の詩人。ホメロスとアルキロコス、ホメロスが客観的な芸術家であり、アルキロコスは主観的な芸術家(抒情詩人)であると考えられた。そして近代人は主観的芸術家を下等と考えた(ヒューマニズムとの繋がりっぽい)。 ・客観的芸術の淵源はデルフォイの神託 ・詩作活動は思想の前に音楽的気分が先立つ。すなわち抒情詩人と音楽家の同一性。抒情詩人はディオニュソス的芸術家。 ・この音楽が抒情詩人の目に見えるようになるのはアポロ的な夢の作用のもとにおいて(つまり形あるものとして)。 ・抒情詩人の主観性などは最初の音楽(ディオニュソス的過程)の時点で放棄されている。 ・叙事詩人は形象を観照する(モノを見る)。一方、抒情詩人は形象を持たず、本人が根源的苦痛。この自己放棄と融合帰一の状態から形象世界が徐々に生まれてくる。 ・われわれは形象の群れである。本質界の根源的芸術者と融け合う限りにおいて、天才は芸術の永遠の本質を知る。なぜなら、その状態の天才は自分自身を観照できるから。 ⇒詩人を叙事詩人と抒情詩人の二つに分けると、前者は客観的な芸術家であり、後者は主観的な詩人とされた。おそらく、叙事詩人は神とか世界とかを客観的に歌ってるのに対し、抒情詩人は「私は怒った」みたいな個人的なことを歌ってるからだと思われる。で、近代人は客観性(科学とかね)を重んじてたので叙事詩人の方を高みに置いていた。近代人的には「抒情詩人なんて半人前の芸術家だよ」というスタンスだけど、ニーチェさんはそれは違うという。どう違うのかというと、抒情詩人というのはなんか詩を書こうとする前に、まず自分の中に音楽っぽい感情(?)が溢れて、んで、その音楽っぽいのを言葉(詩)という形にしていくのであって、この音楽っぽいのが出てきた時点で、抒情詩人はディオニュソス的な力と一体化してるので(なんか良く分からんけど根源的な「怒り」とかの感情と一体化してるので)、その意味で既に抒情詩人は私(主観性)を放棄してる。つまり、「私は怒った」ということを書いてても、それは「私は怒った」ことを意味するわけではなく、「私は世界の『怒り』と一体化した」というようなそんな意味っぽい。そうやって世界の本質と一体化してる状態だと、主観性は失われてるわけだから、今度は自分をも観照する(客観的に見る)ことができるらしい。具体的にどういうことかさっぱり分からないけど。で、これはおそらく、「叙事詩人は形象を観照することはできるけど(物事を客観的に見ることはできるけど)、それを見ている自分自身までは客観的に見れない」というニュアンスが対になってると思う。「だから抒情詩人も全然ダメじゃないよ」というのがニーチェさんの主張(←これだけはおそらく間違いない)。 ※ここまで書いてて思ったけど、哲学書って抽象的なことを書かないと自分の言いたいことを言い表せれないから抽象的に書いてるんだなあ。↑は僕なりに分かりやすく書き直してるつもりだけど、大分強引に元のニュアンスを捻じ曲げてでも分かりやすくしてるつもりなのに、それでも(僕は分かるけれど)たぶんこれを始めて読んだ人が分かるわけがないと思う。こんな調子で、読者に対する遠慮とかがどんどんなくなっていくとキルケゴールみたいになるんだろうな。まあ、自分が分かればいいや、というスタンスで続けます。 第六章 ・ホメロスは叙事詩でアルキロコスは民謡。民謡とはアポロ的なものとディオニュソス的なものとの結合。 ・民謡はまず音楽的な世界の鏡であり、根源的な旋律。旋律はこれと並んでいる夢の現象を探し出し、詩歌のうちに表現する。旋律が最初にして普遍的なものであり、歌詞の形で客観化(アポロ化)がなされる。 ・民謡の歌詞においては、言語が音楽を模倣しようとして極めて緊張している。 ・言語(歌詞、詩歌)は現象や形象の世界を模倣する(ホメロス=叙事)か、もしくは、音楽を模倣する(アルキロコス=抒情)かの2つの流れに区別できる。 ・ある楽曲が産み出した様々な形象世界は支離滅裂の様相を呈する。すなわち、『田園』と名付けられた曲が田園の形象だけを表現してるわけではなく、単なる比喩的な表象に過ぎない。この表象は音楽のディオニュソス的内容について、何も啓発しうるものではない。 ・アポロ的比喩により音楽を語ろうとする衝動にかられるとき、抒情詩人は自然全体と、そして自然の中の自分とを、はてしなく意欲し、渇望し、憧憬してやまぬもの、として解する。つまり、そういった意欲などが、抒情詩人が音楽を解き明かすための一つの比喩なのである。音楽自体は無制約性のゆえに形象や概念を必要としないため。 ・音楽の世界象徴法にたいしては、言語をもってしてはいかにしても太刀打ちできない。なぜなら音楽が象徴的にかかわっているものは根源的一者(世界そのものぐらいの意味)の心臓部における根源的矛盾、根源的苦痛に他ならず、それらは一切の現象の彼岸にあるから。 ⇒基本的には第五章と同じことを言ってます。抒情の方は先に音楽(自分にしか分からない)があって、それに歌詞をつける形で客観的なもの(みんなに伝わるように)にしようとする。一方、叙事の方は先に現象や形象の世界がある、ということ。間違ってるかもしれないけど敢えて簡単に考えてみると、目の前にあるリンゴについて、それをテーマに歌詞を書くと叙事。先に音楽(つまり、良く分からんがとにかく感情のこと)があって、その音楽(≒気持ち)を何とか客観的にしようと思って歌詞をつけると抒情。抒情詩人の中で音楽的な感情が最初に生まれて、これはなんかたぶん世界の矛盾とかそういうのに対する「はちきれそうな気持ち」(≒狂気?)のことで、でもそれを客観的にみんなに通じるように歌詞をつけるとなると、その歌詞をつけるという行為はアポロ的な行為(=理性的な行為)になる。 で、ベートーベンの「田園」なんかは歌詞がなくて音楽だけなんだけど、別にこの「田園」の音楽が、ただ田園の様子を表現してるというだけのものではない。そうじゃなくて、そういう「はちきれんばかりの気持ち」を表したのが音楽で、それに何となく(?)つけたタイトルが「田園」にすぎない。そこで、抒情詩人に戻ると、抒情詩人もそういう「たまらん気持ち」に捉えられた後で、理性的にその気持ちを歌詞に書こうとするんだけど、その「たまらん気持ち」は「自然全体や自然の中の自分への意欲や渇望、憧憬」といった形で抒情詩人は理解して、歌詞に書く(この「自然全体や〜」の具体的な意味が良く分からないのだけど)。つまり、抒情詩人はそういう「たまらん気持ち」を感じるんだけど、この「たまらん気持ち」は理性的にどうこう言えるようなものじゃないんで、仮に「僕は自然を渇望してるんだ」(意味不明)みたいな気持ちであるとして、その上でその気持ちを理性的に歌詞を書くということ。だから抒情詩人にしても、「たまらん気持ち」(ディオニュソス的なもの)を感じることはできるけど、それを客観的に表すことは全然できない。というのは、「たまらん気持ち」というのは言語では表現できないものだから。 第五章で意味の分からなかった「抒情詩人が自分自身をも観照する」というのは、つまり「自分はこういう気持ちなんだ」と仮定することで理性的に対処する、つまり、自分を客観視する、という意味のことだと思われる。 ちょっと現時点での最大の問題は「ディオニュソス的なもの」が何となくイメージでは分かってるけど、とても言葉にできないから分かりやすく書けないということ。ていうか、ニーチェさんもまさに第六章で「言葉にできないよ」と言ってるんだけど。あえて今自分の中でのイメージを書き出してみると、「どうしようもなく気分が高揚してる時の陶酔感」「世界の矛盾とかを論理ではなく直感で把握した時の悲しい感じ」とかそういうの。もう思いきって誤解を恐れず書いたら、「なんか分からんけどすげー幸せ」な気分や「なんか分からんけどマジへこむ」気分がディオニュソス的なもの、かと。たぶんこの言葉は、ここまで極端化しちゃうといろんな大切な要素がなくなっちゃうんだろうけど、僕自身これ以上、「ディオニュソス的なもの」という意味の分からんイメージと付き合わされるのはゴメンなので、間違っててもいいのでとりあえずこのイメージで進めます。間違いに気付いたら後になって訂正します。 ※第六章の暴言 「こんな寄せ集めの比較対照という作業に、自己流の貧弱な機知を弄し、真に説明の価値のある現象を見過ごしてしまうのが、まさしくあの美学のやりくちなのだ」 第七章 ・コーラスは理想的な観客であるとか、あるいは舞台という王侯的な縄張りにたいして民衆を代表するものであるとか――こんな論議にはけっして満足するものではない。 ・われわれがこれまで考えてきたまっとうな観客というものは、〜〜目の前に見ているのは芸術作品であって、経験的な現実ではないとたえず意識に留めている人間であった。ところがこれに対し、ギリシア人の悲劇のコーラスは、舞台上の人物を生身の肉体をそなえた実在の人物と見なすように強いられている。 ・理想的な観客とは、舞台の世界を美的なものとしてではなく、生身の肉体をそなえた経験的な者として感受する人間のことだというのである⇒御託 ・悲劇はコーラスによって現実の世界から遮断され、その理想的な地盤と、その詩的自由とを守るために、自己の周囲にコーラスという城壁をはりめぐらせたのだ、というのである。 ・『メッシーナ』の花嫁にコーラスを採用したのは、芸術におけるいかなる自然主義に対しても宣戦布告するため。 ・架空の自然的存在であるサテュロスと文明開化した人間との関係は、ディオニュソス的音楽と文明との関係に似ている。 ・国家や社会、総じて人間と人間との間にある様々な割れ目が強大な統一感情の前に屈して、自然の心臓部へと引き戻されるということ。これこそディオニュソス的悲劇のもっとも直接的な作用なのである。 ・真の悲劇を見終えたときにわれわれを訪れるあの形而上的な慰め――現象はたえず変転するにもかかわらず、事物の根底にある生命は不滅の力を持ち、歓喜に満ちているという形而上的な慰め ・実生活の通常の拘束や限界を破壊するディオニュソス的状態の恍惚境 ・日常的現実の世界とディオニュソス的現実の世界とが互いに切り離される。ところが、ここでふたたび日常的現実が意識にのぼると、その自覚はたちどころにわれわれに嘔吐を催させる。 ・認識は行動を殺す。行動するためには厳格のヴェールに包まれていることが必要である。 ・このように意志が極度に危機に瀕した時、治療するのが芸術。 ⇒前半はコーラスの存在意義についてのこれまでの考え方(政治的なものである、コーラスは理想の観客である)をニーチェさんが否定。 後半に至って、ニーチェさんのコーラス解釈が始まるのだけど、最初、コーラスは現実の世界から悲劇を切り離すためのものだと解釈する。舞台が自然主義的に演じられなければならないという考え方に対抗し、反現実的な状況で演じるためにコーラスを用いたという。つまり、舞台は現実を忠実に再現してるんじゃなくて、あくまで架空の世界なんですよ、架空の世界の上にコーラスは乗っかってるんですよ、ということ。とはいえ、その架空の世界は適当な空想の産物ではなくて、信心深いギリシア人からすれば信憑性のある一つの世界だと。 で、このギリシア悲劇ではサテュロスってのがコーラス隊員なのだけど、このコーラスに人は自分自身が打ち消されるのを感じる。ここの意味は、おそらく悲劇の物語性を理性で捉えているのに対し、コーラスの音楽性を感情(?)で捉えることだと思われる。このコーラスによって起こされる感情は観客がみな同じように感じるものなので、そのコーラスの前では現実世界の色々な齟齬などがなくなって、みんな一緒になれる。要は、コーラスがみんなの心に響く、くらいの意味か? ディオニュソス的な恍惚の状態(「なんかよく分からんけどスゲー嬉しい」)が起こってる時に、いろいろ問題とか矛盾とかある日常的現実のことを考えるとげんなりしてしまう。げんなりして行動できなくなる。げんなりしてると、地上のものはどうでもよくなるし、さらに、現実の世界をきらびやかにしたオリンポスの神々の世界もどうでもよくなる。存在の恐怖や背理(「なんか色々現実は問題があるなあ」)ばかりを考える。それを救うことができるのが芸術。恐怖の相を芸術的にすると崇高なものとなり、背理の相を芸術的にすると喜劇的な物になるらしい。前者は良く分からないけど、後者は何となく分かる。背理は「理屈に合わないこと」という意味だから、「『なんでやねん』というネタが面白い」くらいに捉えていいのかな。理屈に合わないことを恐れるのではなく、笑いにしよう、くらいの意味だろうか。 というわけで、サテュロス・コーラスもギリシア芸術の救済行為らしい。コーラスってのがそんな物語性から生まれる理性的な感情を消し去るほどの威力を持つ物なのかは、いまいち実感し辛いけど、とにかくニーチェさんによれば、コーラスは恍惚状態と現実的な問題との間の関係を良い感じにしてくれるものらしい。 第八章 ・サテュロスこそ、(ギリシア人の目から見れば)人間の原像であり、人間の最高にして最強の感動の表現であった。 ・文芸の領域とは〜〜詩人の脳髄から作り出された空想的な絵空事ではない〜〜なんの飾り気もない真実の表現であろうとする。 ・ディオニュソス神の従者たちは、熱狂し、群れをなし、歓呼の声を上げる。自分自身の熱狂の勢いに乗って、彼らは自分の目の前でみずから変容をとげる。サテュロスに化しているのだと妄想する。後にギリシア悲劇のコーラス隊として編成されるにいたったものは、この自然的な現象の芸術的模倣にすぎない。 ・ギリシアの劇場においては〜〜だれでもが周囲の文明世界全体を文字通り無視して〜〜自分自身をコーラス隊の一員であるかのように錯覚することができたのである。 ・登場人物とは、真の詩人にとっては〜〜詩人の目の前に否応なく立ち現れる生きた人物なのである。 ・このような芸術的才能を大衆全体に伝達することができるものが、ディオニュソス的興奮なのである。 ・悲劇のコーラスを生む過程が、ドラマの原現象である。 ・ディオニュソス的熱狂者は、自己をサテュロスとして見、そしてまた彼はサテュロスとなってあらためて神を見る。〜〜これが彼のアポロ的完成である。 ・舞台場面は、役者の演技は、結局はたんに幻影として考えられていたにすぎないものであり、唯一の「現実」はコーラスにほかならないのである。コーラスが自己の内部から幻影を生み出し、その幻影について、舞踏、音階、言語という象徴法のすべてをつくして表現するのだ。 ・コーラスが幻影の中に見るものはディオニュソス神。 ・コーラスというディオニュソス的な抒情詩と、舞台というアポロ的な夢の世界。 ⇒第七章で疑問を感じた「なんでコーラスがそんなにすごいのか」という答えが第八章で示されている。 「悲劇の誕生」では説明がちょこちょこしか書かれていないが、私の記憶によると、ディオニュソス神の礼賛は熱狂した群集が文字通り狂ったように踊ったり暴れたり歌ったり食ったりしながら山の中を練り歩いたりするものだったはず。で、その興奮状態にあって練り歩いている群集、それがコーラスになった、というのがニーチェさんの説。そのときの群集はそれはそれは興奮しているので、当然理性的なものをかきけすだけの力を備えている。 さらに大昔のギリシア悲劇では、それを見ている観客も、コーラス隊と自分を同一視して、ディオニュソス的な恍惚状態に入る。それで、そういう興奮状態にある人たちは、一つの熱狂、つまり「みんな同じように興奮してる」ということの前に一つになる(「みんないっしょ」の気分になる)。その「一つの熱狂」を神(ディオニュソス神)と呼ぶならば、それはコーラス(ならびに観客)が「自己の内部から生み出した幻影」(=みんなが同じように抱いている気持ち)といえる。その幻影を、台詞をいったり、演技したりして、なんとか表象する(形にしてみる)のがドラマであり、ドラマはその意味でアポロ的(なんかよう分からん気分を、なんとか理性的な枠組に抑えようとすること)である。 このようにして、ギリシア悲劇にはディオニュソス的なコーラスと、アポロ的なドラマが両立する。ディオニュソス的なコーラスが元で、そっからアポロ的なドラマが生まれるのだけど、ドラマはディオニュソス的なものを客観化(みんなが分かるようにする)ものである。コーラスとドラマはこういう関係。 第九章 ・アポロ的現象は、自然の内奥にある恐るべきものを見たまなざしの必然的な産物であり、いわば凄惨な夜闇に傷付いた目を癒すための光る斑点。 ・オイディプスの行動によって、道徳世界そのものが破滅しかねない。 ・オイディプス王はこの葛藤の結び目を、一目ずつゆっくりとほどいて行き、その結果、最後には彼自身が破滅するにいたるのである。このような弁証法的な解決に対し、〜〜ギリシア的な喜びが感じられ〜〜並外れた晴朗の気が漂い、戦慄的な事件はどぎつさを和らげられている。 ・詩人を解釈するというそのことは、たかだか、神話という深遠を覗いた後で自然の治癒力から差し出される、あの単なる光の像でしかないだろう。 ・一方には、勇猛果敢な単独者の計り知れない苦悩がある。他方には、神々の危難があり、神々の黄昏を予感させずにはおかない。これら2つの苦悩の世界を和解させ、形而上的融合へと押しやる力。 ・人間は、最善最高のものを冒涜行為により獲得したのだ。 ・能動的な罪は真にプロメテウス的な美徳であるとみなす。厭世主義的悲劇の倫理上の基盤とみなされたのは、人間の悪の是認、人間の罪の是認、罪によって引き起こされる苦悩の是認である。 ・事物の本質にはもともと災禍が宿っている。 ・個体化した世界は、個体として独立している場合にはそれぞれが正しい。しかし、それぞれが他の世界と並存した場合には、みずからの個体化のために苦悩しなければならなくなる。 ・個別的なものが普遍的なものに達しようと、あの一なる世界本質そのものに同化しようと試みる場合、個別的なものは、事物の中に隠されている根源的矛盾をわが身に引き受けることになるのである。 ・この厭世主義的な観念の非アポロ的性格をも感じ取る。なぜなら、アポロが個々の事物を安定させようとする手段は、個物間に境界線を引くことであり〜〜節度を要求することに他ならないからである。 ・「存在するものはすべて正当であり、正当でない。両者ともに同一の資格をもっている」 ⇒第九章は悲劇「オイディプス王」に関してのニーチェさんの解釈と思われる。 まず、オイディプス王を書いた詩人ソフォクレスを評価するのだけど、これは要は「オイディプス王の受けた悲運(=現実世界でのどうにもならない困ったこと)」を巧いこと謎解きしていく(アポロ的に説明していく)ことでスッキリできるという、その爽快感がすごいよね、というだけにしかならない。 ポイントはオイディプス王が英知をもって行動することにより、親父を殺したり近親相姦したりして自然の秩序を破ってしまい、それが原因で苦悩すること。 ところで、プロメテウス神話では、人間が火というすげえモノを手に入れるのだけど、火を獲得した人間はいつまでもそれを神的なものとは捉えない。それは冒涜行為である。 つまり、神の領域のものをゲットして、人間の領域のものにしてしまうのは冒涜行為だ。冒涜行為なので神は苦悩と悲哀の洪水を浴びせかけるらしい。 ここは何を言ってるのか良く分からないが、オイディプス王が受けたような悲運を与えるということか? そして、冒涜的に神の世界の何かをゲットすることは悲運を受けることになる。でも何かをゲットするということは能動的でむしろ美徳なので、逆に悲運の方を是認する。つまり、悪の是認、罪の是認、苦悩の是認である。 事物の本質には元々災禍が宿っているもので、神の世界と人の世界を個別化すると、それを並存して考えた場合、いろいろ問題が起こる。それをあえて普遍的なものにしようとすると、その根源的矛盾を引き受けることになってしまう。つまり冒涜というのは個体化されてるものを一緒にしてしまおうとする行動のことか? 神様の領域の火を、プロメテウスが人間に与える、つまり神の世界のものと人間の世界のものを一緒にしようとしたから、プロメテウスはゼウスに怒られて縛りつけられる、そのことを現してるからプロメテウス神話はすごいって話なのかな。 良く分からないけど、ここで言ってるのは「神の世界の領分」と「人の世界の領分」があって、アポロはそれぞれをキッチリ分別して「人は人の世界で生きていきましょうね」って言って安定を保つのだけど、それだけじゃ面白くないからディオニュソスはそれらを一緒にしてしまおうとする。すると、一緒になった時にいろんな問題が起きてくる。この問題が悲劇ということなのだろうか。 それはいいとして「神の世界の領分」と「人の世界の領分」が具体的に何なのか良く分からない。参った。オイディプスでいうと、親父を殺したり近親相姦したりすることが「人の世界の領分」を超えることなのかな? 第十章 ・ギリシア悲劇は〜かなり長期に渡ってディオニュソスこそが唯一の舞台上の主人公であった。 ・プロメテウスやオイディプスなどはディオニュソスの仮面にすぎない ・ただひとり真に実在する神格ディオニュソスが多数の人物の姿を借り、戦闘する主人公の仮面をつけ、いわば個別的意志という網の中にからまった形で現象する。この神は個人に似てくる。そして、これはアポロの作用である。 ・芸術とは、個体化の束縛を破りうるという喜ばしい希望 ・ホメロスの叙事詩はオリンポス文化の詩であった。悲劇文学の圧倒的な影響を受けて〜ホメロスの神話も生まれ変わることになる。 ・音楽の力は、神話を新しく、深遠に意義付け、解釈する。 ・神話がその最も深い内容、その最も表現豊かな形式に到達したのは、アッチカ悲劇によってである。 ⇒悲劇というものはオイディプスやらプロメテウスやらが主人公になるけど、どれも基本的にはディオニュソスという神格(なんか分からんけどとにかく嬉しかったり悲しかったりする気分)が、各々のキャラクターを得たものにすぎない。それで各々がキャラクターを得てしまえば、これは人間みたいなものなんで苦悩したりする。これがつまり個別化に際しての苦悩であり、この個別化はアポロの働き。 そんで、芸術ってのは、この個別化されちゃったのを一緒にできちゃう力を持っている。 おそらく「この芸術に触れることによって、それに触れた人みんなが同じような感情を抱く」ことかと思われる。 つまり、最初にみんなの集合的意識(これをディオニュソスという神だと言ってる)として「良く分からんが嬉しかったり悲しかったりする気持ち」ってのがあって、それがオイディプスとかプロメテウスとかのキャラクターを得て個別化するのだけど、その劇を見た人たちはコーラスの力により「なんか良く分からんけど嬉しかったり悲しかったりする気持ち」をみんなして抱く。これでまたみんなが集合的意識を持ったので「ディオニュソスが復活」するという話・・・だと思われる。 それで、オリンポス文化の詩ってのはアポロにより個別化された神々なのだけど、悲劇はコーラス付きで個別化を打ち破って一緒くたにするもんだから、オリンポス文化(ホメロスの神話)も、その影響を受けちゃう。 神話ってのは宗教の基礎に位置付けられて「こんなことがあったんですよ」という歴史的事実として捉えられちゃうと、「なんかよう分からんけど嬉しかったり悲しかったり」という面がなくなってしまう。「感情を動かすなにか」ではなく「昔あったこと」になっちゃうから。これも個体化なのかな? でも、コーラスはそれを補えるので、アッチカ悲劇においてはコーラスのおかげで神話はすごくイイ感じになってた。けど、そっからエウリピデスって人がダメにしちゃうみたい、というところで次の章に続きます。 第十一章 ・悲劇のこの断末魔を味わったのが、エウリピデスであり、その断末魔の面影をとどめている新種の芸術とは、新アッチカ喜劇 ・エウリピデスによって観客が舞台に上げられた ・エウリピデスまでは言語の性格を規定していたものといえば、悲劇にあっては半神であり、喜劇にあっては酩酊したサテュロスか半人間であったが、いまや庶民的凡庸性が発言権を獲得する ・ギリシア人は悲劇の死と共に、おのれの不死への信仰も放棄してしまった ・公衆を扱うに際し、エウリピデスほど傲岸不遜に、気まま勝手に処したものはいない ・アイスキュロスやソフォクレスは、芸術作品と公衆との間の不調和な関係などというものは、そもそも問題になり得なかった。 ・エウリピデスは観客のうちの二人の人物に対しては敬意を払っていた ・その一人は、思想家としてのエウリピデスである ニーチェによれば、そんなディオニュソス的なものに溢れたギリシア悲劇をダメにしたのがエウリピデスで、彼によって「観客が舞台にあげられた」という。それまでは、ディオニュソス的なもの(なんか良く分からんが嬉しかったり悲しかったりする気持ち)にオイディプスとかプロメテウスとかキャラクターを与えて個別化していたのだけど、エウリピデスはもっと庶民的なものを舞台のキャラクターにした。これによって、観客としては、まるで自分の分身が舞台に上ってるような気になったということだろう。おそらく。 そして、このことにより、ディオニュソス的なものが(おそらく)失われてしまい、「みんなで同じ気持ち」になることができなくなった。 ただ、そうすることで、舞台と観客は近しい関係になったという功績はあるように見えるけど、(ニーチェさんはちゃんと説明してくれてないのだけど)エウリピデスは傲岸不遜に公衆を扱ったらしく、一見近しくなったように見えるけどそんなことはないらしい。 具体的にどういうことか書いてないので想像するしかないのだけど、公衆ーを画一的に捉えて、それを公衆というキャラクターとして広めてしまったということだろうか?「エウリピデスが、主人公をお人よしで抜け目のない下僕的人間にした」とあるので、おそらく、公衆をそういう扱いにしたことが問題なのだろう。 で、これまた、ちゃんと理由を書いてないのだけど、一方でエウリピデス以前の人たちが「舞台と観客を離れさせていたか」といえばそんなことはないらしい。「だって彼らは人気があったから」という理由らしい。無理に庶民を主役にしなくても今までも人気があったんだから、ということか。 では、どうして(ニーチェさんに言わせれば)今までだって観客の人気はあったのに、エウリピデスは「庶民を舞台にあげる」といういらんことをしたのかといえば、エウリピデスは二人の意見に従ったからであり、その一人はエウリピデス自身。 つまり、エウリピデス自身が「なんで今までの悲劇はこんな大袈裟なんだ」と感じたから、そんなことをしたんだって。 さらにエウリピデスはもう一人同じようなことを言ってる人がいて、その人に勇気付けられたらしいんだけど、そのもう一人の話は次の章に続くっぽい。 第十二章 ・アイスキュロスの悲劇におけるコーラス隊と、悲劇的主人公とに対するわれわれ自身の気持ちを思い返してみよう。結局、われわれは、アポロ的なものとディニュソス的なものとの表現として再発見するにいたった。 ・全能の神、ディオニュソスの根源的要素を悲劇の中から取り除いてしまうこと、これがエウリピデスの傾向である。 ・エウリピデスの口を借りて語る神格はソクラテスと呼ばれた。 ・ドラマが音楽の胎内から生まれ出るものでないとしたら〜〜考えられる形式はただ一つ、劇化された叙事詩である。この種のアポロ的な芸術領域においては、悲劇的な効果をあげることはできない。 ・「劇化された叙事詩」を演じる俳優は、最後まで吟遊詩人であって、けして俳優そのものにはなりきれない。エウリピデスも俳優だが、彼は心臓が高鳴り、頭髪の逆立つ俳優なのである。 ・エウリピデスのドラマでは、叙事詩のアポロ的効果をあげることはできない。それでいて、ディオニュソス的要素からも可能なかぎり切り離されている。 ・彼の非ディオニュソス的傾向は、自然主義的な、非芸術的な傾向の中に迷いこんでしまった。 ・美学上のソクラテス主義の最高法則は「美しくあるためには、すべては、理知的でなければならぬ」 ・エウリピデスによれば「悲劇の効果は、中心人物の情熱と弁論術とが一つのとうとうたる大河へともり上がって行くあの壮大な、修辞的、抒情的な場面に基づくのである」 ・ソクラテスこそ例の第二の観客であった。 ⇒エウリピデス以前の悲劇の要素は「悲劇的主人公」と「コーラス隊」であるが、前者がアポロ的なもので、後者はディオニュソス的なものである。エウリピデスは、このディオニュソス的なものを悲劇から取り除いたらしいけれど、これが単にコーラスをなくしたということなのか(素直に読むとそうなのだけど)、それとも「頭の中に最初に音楽(感情)が現れて、それを言葉にする」という抒情的なストーリーを止めたのか、どちらかは良く分からない。たぶん後者だと思う。 それで、エウリピデスはディオニュソス的なものを排した訳だけど、アポロ的なものだけだと悲劇は面白くないらしい。良く分からないけど、アポロ的なものだけだと物語がスッキリしてて見てて爽快な気持ちになるから悲劇としてはダメらしい。 そのうえ、かといってアポロ的なものになったかといえばそうでもない。 アポロ的な叙情詩ではそれを語る吟遊詩人は冷静(?)なのだけど、エウリピデスは冷静じゃいられないんだって。役に自分を投影しちゃって、怒ったりビビったりするらしい。エウリピデスの演劇見てないから分からないんだけどそういうもんらしい。 というわけで、アポロ的でもなくてディオニュソス的でもないエウリピデスは、替わりに「ソクラテス」を求めたらしい。ソクラテスは「美しくあるためには、すべては、理知的でなければならぬ」というスタンスらしくて、そのためにエウリピデスはストーリー展開よりも、劇中の人物がしゃべる台詞の巧みさとか人物の情熱とかが大事だと考えた。悲劇は観客の情熱を盛り上げるためのものらしい。観客の理知に訴えて。この「ソクラテス」がエウリピデスが大事にした観客のもう一人なんだって。 これはこれで面白そうな気もするけど、ニーチェさんはぷりぷり怒ってダメ出ししてるんで、これはつまんないものなんだと考えて先に進みます。 第十三章 ・ソクラテスは知名の人士たちが、たんに本能からそれを行っているにすぎないことに気づき、愕然とした。「たんに本能から」――こういう表現によって、われわれはソクラテス的傾向の核心と焦点とに触れる。 ・「ソクラテスの本質をひらく鍵を与えてくれるのは「ソクラテスのダイモニオン」と呼ばれるあの奇怪な現象である。まったく異常ともいうべきこの人物の場合には、本能のもつ英知は、ときどき意識的な認識を阻止するという目的のためにのみ現れる。 ⇒十三章は主にソクラテスに対する悪口が述べられている。 周知の通り、ソクラテスは「知る」ことを重視した人。 これはつまり、認識によってではなく「なんか良く分からないが嬉しかったり悲しかったりする気持ち」からスタートするディオニュソス的なものの否定へと繋がる。つまり、ソクラテスにとって詩なんてものは、良く理解もせずに神様が降りてきてペラペラ喋ってるようなもので、預言者と変わらない。全然認識してないから詩人なんてダメだよ、ということになる。 それに対し、ニーチェさんは「そんなこと言うソクラテスはおかしいよ」と怒ってる。 「ソクラテスのダイモニオン」というのは説明がないのでさっぱり分からないが(本当に不親切でムカつく)、調べたところ「ソクラテスの心の中で『それはするな』という声が聞えることがあって、それがソクラテスのダイモニオン」ということらしい。「〜するな」とはいっても「〜しろ」とは言わないらしい。 理知的なソクラテスが、「〜するな」という良く分からない心の声(非理知的な本能的なもの)に従っていることから、その意味でニーチェさんは「本能が批判家であり、意識が創造者である」といってる。 ニーチェさんに言わせれば、普通の生産的な人間は「本能の力によって創造し(モノを作り)、意識の力によって抑止する(ダメだから止めようと思う)」のだけど、ソクラテスはそれが逆になってて、「意識して創造し、本能が抑止する」、だからソクラテスはおかしいよ、欠落から生まれた怪物だよ、と言ってる。ムチャクチャ言うなあ。確かに、意識して創造するっていうのはともかく、心の中で「やめとけ」って声が聞えたから止める、っていうのは変だけど。 第十四章 ・ソクラテスは悲劇芸術の中に全く不条理なものを見た。 ・ソクラテスには悲劇芸術が「真実を語る」などということは、とうてい有り得ないことのように思われた。 ・プラトンは後世全体のために新しい芸術形式の模範を与えている。小説という模範である。 ・哲学的思想が芸術をおおって繁茂し、アポロ的な傾向は、論理的な図式主義の殻の中に閉じこもってしまった。 ・エウリピデスの悲劇の主人公は、われわれの悲劇的同情を失う危険がある。なぜなら、弁証法の本質の中には楽天主義的要素があるからである。 ・この新しいソクラテス的・楽観主義的な舞台世界に対して、コーラスと、総じて悲劇の音楽的ディオニュソス的基盤全体とはいかなるものとして姿を現すのか。なければなくてもすむであろう悲劇の期限のなごりとしてである。しかし、コーラスは悲劇及び悲劇的なもの一般の原因である。 ・悲劇の本質とは「ディオニュソス的状態を外在化、形象化すること。音楽を目に見えるように象徴化すること」。 ・ソクラテスは獄中において、これまで軽蔑していた音楽を行うことにも同意する。 ⇒ソクラテスが悲劇を嫌った2つの理由がまず挙げられる。1つは、不条理でわけが分からんこと。だって悲劇ってのは「なんか良く分からんが嬉しかったり悲しかったりする気持ち」を劇にしたものだから、訳が分からなくて当然なのだけど。 2つめは、悲劇芸術が「真実を語る」ことなんてないということ。これに関してはイデアの解説が必要になるのだけど、イデアっていう理想的な形がイデア界ってところにあって、実際に私達が接してるのは、そのイデア界にあるイデアの似姿みたいなもの。例えば、三角形のイデアってのがあって、この三角形だけが本当の三角形で、私たちが目にする三角形はちょっといびつな三角形(微妙に線がずれてるとか)だということ。そんで、絵画とかは、そのいびつな三角形もどきを見て描いてるから、現象界(私たちの世界)よりさらに一段低いレベルにあるということになる。となれば、悲劇なんてものが真実(=イデア)を語るはずがないと、たぶんそういう話。 というわけで、ソクラテスは悲劇が嫌い。こんな悲劇嫌いのソクラテスの影響を受けたプラトンなんかは、新しい芸術規範を産み出すのだけど、それは対話篇などの小説という形になりました、ってことらしい。 それで、そんなソクラテスに影響されたエウリピデスが書いた悲劇は、まずアポロ的なものは論理的な図式主義の中に閉じこもってしまうらしい。これはイマイチ意味が分からない。アポロってのは確かに「良く分からんものを形にする」ものだったんだけど、それが、「理知的にはっきり分かるものを形にする」というものに変質したということかな? こういうわけで、アポロ的なものはなんかダメになっちゃったし、そもそも弁証法的なものは一つ結論が出るたびに「やったあ、僕たちの理知的な思考でこんな結論が出たぞ」と喜ぶものだから、悲劇の劇中でも「結論が出てハッピー」なことが多多あるため、全然悲劇的じゃなくなってしまうらしい。 そのうえ、エウリピデス以降はコーラスも軽んじられちゃうみたいで、ニーチェさんの言う通り、悲劇の本質が「音楽を目に見えるように象徴化すること」だとしたら、コーラスはすごく大切なものだから、コーラスを軽んじちゃったら、悲劇は台無しになっちゃう。だから、悲劇に弁証法(理知的な考え方)を導入したソクラテスはダメなやつだ、ってのがニーチェさんの言いたいこと。 でも、そんなソクラテスも死ぬ間際には神様の「音楽しろ」という言葉が聞えて音楽をしたらしいよ、というところで次に続きます。 第十五章 ・理論的人間もまた、芸術家と同様に、目の前にあるものに限りない喜びを感じる。そしてまた、芸術家と同様に、厭世主義の実践倫理から免れることができる。 ・理論的人間は、自分の力によって真理の外皮をはがしてゆくその過程を喜びの最高目標とする。 ・思惟は因果律という導きの糸をたぐって、存在のもっとも深い深遠にまで到達するという信念、この形而上学的妄想はいくたびも繰り返し科学をその限界へと導く、そしてこの限界において、科学は芸術へと転化せざるを得ない。 ・存在を理解可能なもの、立証ずみのものとして表現することこそ、科学の使命に他ならない。もし論証で足りないならば、神話もまた用いられなければならない。 ・楽天主義的認識の飽くことをしらぬ渇望が、突如、悲劇的諦観ならびに芸術必要論に変貌する。 ⇒どうして、あれだけ理知的な人間だったソクラテスが、あれだけ音楽をバカにしてたソクラテスが死ぬ前に音楽をしちゃったのかという理由が書かれている。 理知的な人間、つまり科学をする人間ってのは、真理を発見するのが最終目的なのだけど、そうではなく真理を発見するに至る過程も楽しめる楽天主義的な人間である。ソクラテスの対話が一つの結論が出るたびに、嬉しい気持ちになるのと同じで。 科学や神話というのは世界にある様々な存在の理由付けを行うためにある、もっと言えば自分以外の物の自分との関係性を定義するためにある。 たとえば、酸素ってのは人間が吸ったりするんだよ、という風に。 これは科学の考え方だけど、たとえば神話だったら神様が作ってるんだよ、みたいなことになって、結局何かしら理由を与えてくれる。 こういうことをしなければ、人間は耐えれなくて落ちこんでしまうらしい(=「実践された厭世主義」→世界は不合理で無意味だから、もうどうでもいいや)。 だから、科学とか神話って大事なんだね。 そして、科学をする人達は、こんな楽しい発見を続けていけば、いつか真理に辿り着くよウヒョーと喜んで頑張るんだけど、でも、真理ってのはあまりに遠いところにあって、頑張って進んでるんだけど全然辿り着けない。 そして、いい加減疲れてきたところに「音楽とかああいうワケわかんないものがあってもいいんじゃない?」と思うようになるらしい。で、音楽とか芸術とかに触れて、また明日から科学頑張るぞ、という気持ちになるみたい。 つまり、理知的に論理的に物事を進めていくのは、基本的には良い事だけどちょっと限界があるので、それに耐えれなくなった時に非理知的で非論理的な音楽とかそういう芸術をやることによって回復するみたい。 だから、とっても理知的なソクラテスも最後には音楽をやった、と。 第十六章 ・悲劇的世界観のもっとも尊貴な敵対勢力はもっとも深い本質において楽天主義的な科学である ・仮像における救済が達成されるには、アポロの像によるしかない。一方ディオニュソスの神秘的な歓呼の声によって、個体化の束縛は粉砕され、事物の内奥の核心への道が開かれる。 ・音楽は現象の模写ではない、直接に意志そのものの模写である。 ・音楽を世界の表現であると見なせば、音楽はもっとも高度に普遍的な言語である。 ・音楽というディオニュソス的芸術は、アポロ的な芸術能力に対して、二様の作用を及ぼす。第一は音楽に刺激されて、ディオニュソス的普遍性を比喩の形で観照できるという作用、第二は音楽に引きたてられて、比喩的な形象が最高の意義を与えられるという作用。音楽は悲劇的神話を生み出す。 ・最高の意志現象である悲劇の主人公が破滅するのを見て、われわれは快感を覚えるであろう。それというのも、主人公とてやはり現象にすぎず、主人公の破滅によって、「意志」の永遠の生命は微動だにしないからである。 ⇒これまで見てきた通り、悲劇芸術にはアポロ的な面とディオニュソス的な面がある。 そして、ディオニュソス(音楽)は現象を模写したわけでなく、意志を模写したものである(「田園」は田園という現象の模写ではなく、ベートーベンの意志を模写したものに「田園」と名付けたに過ぎない)。 悲劇において、ディオニュソス的芸術(音楽)はアポロ的な芸術(ストーリー)に対し、「音楽が表現する意志を物語の形で比喩として表現」し、かつ、「その比喩をイイ感じのものにする」効果がある。 つまり、ホントに表現したい気持ちは音楽の中にあるわけで、それを分かりやすく伝えるために、ストーリーをつけて演じてる。ストーリーは音楽から発生したのであり、また、そのストーリーは音楽によって盛り上げられてる、というくらいの意味だと思われる。 そんで、ストーリー上では悲劇の主人公はえらい目に遭うんだけど、その主人公ってのも、しょせんは比喩のために打ちたてたもの(個別化されたもの)に過ぎない。そんな個別化されたものが破滅したって、もっとも伝えたい気持ち(意志)は揺るがないわけで、かえって「個別化されたものが失われ、意志をみんなが共有する」から、悲劇の主人公がひどい目に遭って破滅しても、観客はスッキリしてイイ気持ちになれる。 第十七章 ・発生するものは全て、苦悩しながら没落することを覚悟していなければならない。しかし、形而上的な慰めがわれわれを一瞬救い出してくれる。ほんの瞬間的な間だけ、われわれは根源的本質そのものである。 ・科学の精神がぎりぎりの限界にまで導かれ、普遍妥当性への科学の要求が破棄された時、われわれは悲劇の復活を期待することができる。 ・音楽は新酒神賛歌によって現象のイミテーションと化し、神話創造力が奪い取られた。 ・ソフォクレス以降の悲劇において、性格描写と心理的洗練とがいちじるしく優勢をしめている。性格はかつてのように、永遠の典型へと幅をひろげていくことがもはやない。 ・形而上的慰めに代わって登場したのがデウス・エクス・マキーナである。 ⇒先の章で見たように、悲劇において個体化されたものが破滅することにより、観客は根源的本質に触れることができてスッキリする。個体化、つまり一つの人格を持つということは、いろいろ大変で辛いことがたくさん。でも、このように悲劇に触れることで、一瞬、根源的本質に触れることができて慰められる。 でも、ソクラテスに影響された、いわば科学的世界観での悲劇では、例えば、音楽は現象のイミテーションになってしまい、意志を現すものではなくなってしまう。 つまり、戦闘シーンの曲だったら号令の音を入れるとかして、「戦闘っぽい曲」を作ってしまう。本当は「観衆が"戦闘のイメージを喚起する"曲」でなければならないのに。 人物の性格描写においても、写実的になってしまう。これは良いことのように思われるけど、ダメらしい。そういう微に入り細かに入り描かれた性格では、1つのキャラクターとしての枠の中に収まってしまい、広がりがないらしい。 つまり、音楽にしてもキャラクターの性格にしても、どちらもより「個体化」へと向かってしまい、ディオニュソス的な「根源的本質」を失ってしまい、悲劇の魅力がなくなってしまう。 本当は根源的本質に触れることが魅力だったのに、代わりにデウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)を出してしまう。 こうして、悲劇は科学的世界観のせいで本質を失ってしまったのだけど、ソクラテスが最後に音楽をしたように、科学というものが限界を迎えた時、悲劇が復活するかもしれない。 科学が限界を迎えるというのが、ミクロなレベルにおいては理解できるけど(科学的解明が間に合わないということ)、マクロなレベルにおいてはどういうことなのか良く分からない。「科学によって解明できること(存在に理由を与えること)の限界」という意味だろうか。 第十八章 ・われわれが文化と称するものは全て、この種の刺激剤から成り立っている。かくて、3つの幻影の段階は(1)ソクラテス的文化、(2)芸術的文化、(3)悲劇的文化と名付けることができよう。これらは(1)アレクサンドリア文化、(2)ギリシア文化、(3)インド文化といってもよい。 ・われわれの近代世界全体はアレクサンドリア的文化の網の中にとらえられている。そこで理想とされる人間は、高度の認識力を備えている、科学のために働く理論的人間のことである。 ・近代の蒼ざめ疲れ果てた宗教、近代の宗教自体が、その根底において学者宗教に堕し、したがってあらゆる宗教の必然的前提ともいうべき神話はすでに半身不随にかかっている。 ・異才たちは、科学という武器そのものを利用して、認識一般の限界と制限とを論証することに成功した。この認識と共に、悲劇的文化が開始されることになる。 ・悲劇的文化の悲劇的人間は、厳粛と恐怖とに耐えようとする自己教育に際し、一つの新しい芸術を、すなわち悲劇を熱望する。 ⇒私たちが生きていくためには、自分を取り巻く世界に対し、巧いこと付き合っていかなければならない。その方法は、科学的に世界を捉えるのが一つ、芸術の美に魅了されて心慰められるのが一つ、そして最後に「根源的なものを見出す」ことが挙げられる。これを順に、アレクサンドリア文化、ギリシア文化、インド文化と読んでいる。とりあえずこの章ではアレクサンドリア文化とインド文化しか取り上げられないので、ギリシア文化はスルー。 それで、言うまでもなく近代社会は科学マンセーなので、アレクサンドリア文化が一番普及してる。そして、言いかえればアレクサンドリア文化のように、「根源的なもの」を見つけ出すことが苦手になっている。 アレクサンドリア文化においては、「しっかり理論的に考えれば答えは出るよ」という(ニーチェさんに言わせれば楽天主義的な)考え方なので、宗教とかもそんな感じになっている。宗教の基礎である神話なども、歴史的に扱われており、つまり理性のレベルで認識できるものと考えられている。そんな捉え方をしていたら、宗教の内奥にある「根源的なもの」は見えてこない。 ところで一方、カントとかショーペンハウアーは科学的な方法でもって科学の限界を説いたっぽい。これはおそらく科学哲学の話だと思うのだけど、要は「科学ってそんな万能じゃないよ。限界あるよ」ということをたぶん言ったのだろう。科学者の楽天主義を否定したわけだ。 となると、科学の楽天主義だけでは心の安らぎを得ることができない。じゃあそろそろ悲劇復活してもいいんじゃない?となってくる。つまり、「しっかり理論的に考えれば答えは出るよ」という楽天主義を拝し、「どう考えてもよう分からんモノはある」として、さらに、その「良く分からないモノ」(「感情」とか「思い」くらいに考えてもいいかもしれない)をみんな持っている、その点でみんな一緒だよ、という点に心の安らぎを求めることができる、という多分そう言うことが書いてある。 違ってるかもしれないけど単純化して言うと、「理解できないモノに当たったとき、『理解できない』という、そのままに受けとめ、さらに、『みんなも理解できないと思うけど、みんなこういう理解できない同じ気持ちをもってるよね』と感じることで、自分は一人ぼっちじゃないよイェイ!と慰められて、また頑張って生きていこうと思う」ことだと思われる。 第十九章 ・近代のソクラテス文化をオペラ文化と呼べば〜 ・レシタティーヴを定義するなら、叙事的朗唱と叙情的朗唱との混合とも言うべきものであって、これほど異質なもの同士の間では内的に安定した混合物は決して達成されない。 ・オペラの生成過程はひとつの欲求、すなわち牧歌への憧憬であった。 ・オペラの発生の原因は、楽天主義的な人間賛歌そのもの、原始的人間を生まれながらにして善良かつ芸術的な人間であるとみなす人間解釈にあった。 ・オペラの前提をなすものは、芸術発生の過程に関する誤った信仰である。もっと正確にいうと、感受性のある人間であれば、だれでももともと芸術家なのだという、牧歌的な信仰である。 ・ドイツ精神のディオニュソス的根底から一つの力が湧きあがってきたのである。この力とは、すなわちドイツ音楽のことだ。 ・科学的ソクラテス主義の限界を論証する考察こそ、概念的に把握されたデォニュソス的英知と呼ぶことができよう。 ⇒オペラも悲劇もワーグナーも良く知らない私には、単にニーチェさんがオペラ嫌いだっただけじゃないかと思えるのだけど、それは置いといて話を進めてみる。 まず、ニーチェさんに言わせれば、オペラ文化とは近代のソクラテス文化によるものらしい。それで、今の論旨ではソクラテス文化は悪者なので、オペラも悪者である。 オペラというのは、歌ってはいるけれど、「音楽(ディオニュソス)」な側面よりも「歌詞(アポロ)」を重視している。だから、いつもは歌詞が聞き取りやすいように歌う。でも、たまには歌詞を気にせずに思いっきり歌いたくもなるから、思いっきり歌える箇所も作ってる。つまり、歌詞を聞き取りやすいように歌うところと、思いっきり歌うところが交互にあるわけで、アポロ的なものとディオニュソス的なものが交互に慌しく入り混じるものらしい。 それで(オペラを知らない私には全く実感が湧かないけれど)そんな慌しいものが良い物なはずがないらしい。 ちなみに、一方の悲劇は最初に音楽(音楽的な感情)があって、それを何とか表現するためにアポロ的なもの(ストーリーとか)が出来ている。つまり、最初に音楽ありき。音楽と歌詞を交互に目立たせるオペラとは全然違って、悲劇はいわば歌詞の後ろに音楽がある形。 では、なんでオペラがそんな慌しい形にしたかっていうと、これは昔のギリシアの悲劇みたいなのをやろうとして、工夫したらこうなったらしい。 すなわち、その当時のソクラテス文化においては、昔のギリシア人ってのはすごく晴朗な人たちで何かの感情を覚えたらすぐ口に出して歌ったりする人だと思ってたらしい。(これが何かの比喩なのかどうか分からない) でも、ニーチェさんに言わせれば、本当のギリシア人はそんな晴朗なばかりの人間ではなくって、ディオニュソス的な「なんか良く分からん気持ち」を奥の方に抱いてる人間で、つまりオペラはギリシア人の捉え方からして間違っている(ソクラテス的に捉えてる)らしい。 そんで、現在はこういう感じでソクラテス文化が幅を利かせてるんだけど、当時前衛芸術だったドイツ音楽のワーグナーはソクラテスって感じじゃないし、カントやショーペンハウアーも科学の限界を科学的に論証したのでソクラテス文化から離れてきている、だから、もうすぐギリシア文化が復活するよ、という話らしい。ニーチェさんの頃の時代を知らないから何とも言えないけど、あんまりソクラテス文化が減退した気はしないんだけどね。 ちょっとここで捉え直しておきたいのだけど、今まで「ディオニュソス的なもの」(これはニーチェさんが言葉ではいえない、といってるのだけど)を、「良く分からんが嬉しかったり悲しかったりする気持ち」と便宜的に考えていたけど、オペラが目指す牧歌的な人間ってのは、腹がたったら「ムカ〜つ〜くよ〜♪」と歌うような人らしいので、「感情=ディオニュソス的なもの」ではないっぽい。おそらく、ディオニュソス的なものを言い表すのに一番適切なのは「信仰心」に似たものではないだろうか。私は信仰を持ってるような持ってないような人間なので余り実感はないのだけど、なんでも理性的判断ではなくガツンと心に響くような、そういうのがあるらしい。そういう理屈じゃなくてガツンと来るのが「ディオニュソス的なもの」じゃないだろうか。 第二十章 ⇒ソクラテス文化のせいでいまの文化はボロボロだけど、もうすぐディオニュソス(=悲劇)が復活するから大丈夫だよ、というお話。 第二十一章 ・ディオニュソス的攪拌がいちじるしい猛威をふるうと、政治的本能の毀損が認められる。他方、アポロは「個体化の原理」の守護神であり、国家と郷土愛は「個体化」された人格を肯定することで成り立つ。 ・ディオニュソス的な狂躁秘祭から出発した道をたどっていけば、インド仏教への道へ行きつく。これとは反対に政治的衝動の無制限の支配から出発した道を辿るならば、極端な世俗化の軌道へと落ちこむ。この世俗化のもっとも大規模な表現がローマ帝国である。 ・悲劇は、その音楽の普遍的効力と、ディオニュソス的に感受できる聴衆との間に、神話という1つの高貴な比喩を置く。 ・アポロ的なものは、形象、概念、倫理的な教え、同情からくる感動といった、非常に力強い作用によって、人間が狂躁陶酔的な自己破滅に落ちこむところを強引に引っ張り上げてくれる。 ・人間には個別的な世界形象が見えるのであり、ただ音楽の力を借りれば、これがいっそう良く、いっそう内面的に見えるというだけの違いでしかないという錯覚をアポロ的なものは与える。 ・音楽とドラマのこの難解な関係に対して、霊魂と肉体というような通俗的な、完全にまちがった対立の立て方をもって説明しようとしても、むろん何一つ説明できない。 ・悲劇がもたらす全体的効果という点では、ディオニュソス的なものがふたたび優位を獲得することになる。 ⇒二十一章は主に前半と後半に分かれており、前半は悲劇と政治的なものとの関係。後半はこれまでのおさらいみたいな内容になっている。 前半は、要はディオニュソス的なものが強いと政治的に無関心になって、アポロ的なものが強いと政治的になるという話。でも、アポロ的だと良いのかというとそうでもなくて、極端な世俗化へ繋がってしまうらしい。ディオニュソス的な文化がインドで、アポロ的な文化がローマらしい。そんで、両者の間にあったギリシアはそのバランスが良かったんだって。なんでかって言うと、悲劇が浸透してたかららしい。 演劇が良かったから政治も良かったんですよ、というこの論旨には全く共感できないが、ディオニュソス的なものと、アポロ的なものとのバランスが大切、というところは押さえておく。 そんで後半。 ニーチェさんも、今まで自分が書いてきたことが難解だって分かってるらしく、具体的な例を出しておさらいしようとしてくれる。 具体例が出ればきっと分かりやすいだろうな、と期待するが、ワーグナーを具体例に引っ張り出してくるので、ワーグナーを知らない私には、今までの抽象的な議論よりさらに分かりにくい。まじムカつく。 言ってることは基本的にはこれまでのおさらいで、前半で「バランスが大切」ということも述べていたのだけど、その話になる。 ディオニュソス的なもの(音楽)は、そればっかりだと狂躁陶酔的な自己破滅に陥るらしい。この表現だといまいち理解できないので、「音楽だけ聴いてても『ウヒョー』って気分になるけど、それだけであんまり楽しくない」とちょっと曲解しておく。 でも、アポロ的なもの(ドラマ)があれば、そういうウヒョーって気分だけじゃなくて、ストーリーとかあるので、倫理的な物とか同情とかで、より感情が揺れて、感動できて楽しくなる。 ここで、多くの人は「ドラマが基本的に楽しくて、音楽があるとさらに楽しくなるんだな」と思うのだけど、それはニーチェさんによると錯覚らしい。本当は「音楽が最初にあって、それを分かりやすくするためにドラマがくっ付いてくる」らしい。 ちなみに、音楽とドラマの関係を、霊と肉体の関係に考えるのも間違いらしい。 ドラマは具体的な何か、というよりは、音楽が表現すべきもの(根源的なもの)を比喩的に表現したものであり、いわば「すごく深い霊とそんなに深くない霊の関係」になるということだろう。「無意識と意識」くらいに言い換えてもいいかもしれない。 あと、結果として悲劇を見終わった後は、アポロ的なものによる感動(あれがこうなってこうなってこうなったから、いい話だった、感動した)ではなくて、ディオニュソス的なものによる感動(何がどうって言えないけど、なんかとにかくすごく良い気分だよ)の方を感じることになるので、やっぱりディオニュソス的なものが主であって、アポロ的なものが従なんだって。 第二十二章 ・観衆は舞台という光明化された世界を見てはいる。それでいて、その世界を否定している。観衆は舞台上の事件の奥の奥までをも理解している。それでいて、理解しがたいものの中へ好んで逃げ込みたがる。観衆は、主人公の行為が是認されていると感じている。それでいて、この行為が主人公を破滅させてしまうと、いっそう高揚した気分になるのである。 ・このような奇怪な自己分裂、いいかえればアポロ的な極限状態の崩壊は、ディオニュソス的魔力に由来するものである。 ・悲劇的神話は現象の世界をその限界へと導く。その限界点において、現象の世界は自己自身を否定し、真実にして唯一なる実在のふところへと、ふたたび帰還しようと企てるのだ。 ・こうして悲劇が再生するとともに、美的聴衆というものも生まれ変わることになった。 ⇒再びアポロとディオニュソスの関係、ならびに悲劇の効果について、言葉を変えて語られている。しかし、ここでの表現は分かりやすい。 特に分かりやすいのが「観衆は、主人公の行為が是認されていると感じている。それでいて、この行為が主人公を破滅させてしまうと、いっそう高揚した気分になるのである」この部分ではないだろうか。 論理的に考えて正しいことをする。これはアポロ的なものである。 しかし、結果としてはロクでもないことになる。 正しいことをしたのにロクでもないことになるというこれは、いわば正常な理知的な思考を否定することである。 例えるならば、道で財布を拾ったから交番に届けたら、いきなり警官が殴りかかってくるようなものだ。 だが、悲劇を見ている観衆は、主人公が警官に殴りかかられる様子を見てとても高揚した気分になるらしい。 すなわち、ここでは「財布を届けたのに殴りかかるとはなんという警官だ!」という理知的な思考が崩壊している。 理知的な思考が崩壊した先には、人間の理知では捉えきれない「良く分からない世界」が広がっており、悲劇はこうして、その良く分からない世界へと聴衆を導いてくれる。 その良く分からない世界こそが「真実にして唯一なる実在」であり、この「真実にして唯一なる実在」を体感するのが美的観衆というものであって、そういう理知を超えた先の世界に触れず、悲劇をあくまで理知のレベルで解釈しようとする批評家どもはみんなクズ、といってるみたい。 第二十三章 ・神話は圧縮された世界像である。しかし、何か学問めいた行き方で仲立ちしてくれる抽象的な概念の助けでも借りなければ、過去における神話の存在などをとうてい信じる気にはなれないというのが正直なところだろう。しかし、神話なくしては、文化はその健康にして、創造的な自然力を喪失する。 ・たとい国家といえども、神話的な基礎以上に力強い不文律を知らない。 ・これと並べて、神話なしに導かれる抽象的な人間、抽象的な教育、抽象的な風俗、抽象的な法律、抽象的な国家というものを考えてみるがよい。何一つ堅固な原住地をもたず、ありとあらゆる可能性をあさりつくし、ありとあらゆる文化の血を吸って、かろうじて露命をつないでいる文化、これこそ、神話の破壊を目指したソクラテス主義の帰結としての、現代の姿である。 ・この文化が手を触れれば、どんなに精がつき薬になる滋養物でも、「歴史と批評」に姿を変えるのがオチなのだ。 ・ひとつの民族は、おのれの体験に永遠なるものという刻印を押しうる能力をどの程度にもっているかという、まさしくその程度に応じて、価値が定まるのである。それというのも、民族はこれによって、いわば世俗を脱却するからであり、生の形而上的な意義についての、自己の無意識な内的確信をあらわすことになるからである。 ⇒とにかく神話は大事なものであり、神話に根ざした文化じゃないとダメだと言ってる。 でも、現代では科学が幅を利かせているので、神話を神話のまま体感的に受け入れることはできなくなっている。 現代人は何らかの解釈を挟まないと神話に触れることができない。神話を実際のことのように感じ取れない。 でも、神話を実際にあるものとして、自分の世界観の根底に神話を位置付けている文化の方が良い。 根底に神話があると、世俗を脱却し、自分の生の意義について確信を持つことができる。 逆に根底に神話がない、科学的世界観に支配された現代は世俗的である。 つまり、科学的世界観では自分の存在の意義を感得することはできないが、神話を基礎においた世界観においては、自分を世界の中に位置付けることができるということだろうか。 第二十四章 ・悲劇的神話は、醜悪と不調和がこれでもかと繰り返される。醜悪と不調和に対してこそ、いっそう高い快感が知覚されるため。 ・人生の実際の成り行きが事実このように悲劇的であるということだけでは、ある芸術形式の発生を説明することにはならない。 ・存在と世界とが現象するのは、美的現象として是認されていればこそである、という命題。この命題の意味において、醜悪と不調和さえもが芸術的遊戯となる。醜悪と不調和とは、「意志」が永遠にあふれみなぎる快楽のなかで、自己自身と戯れる芸術的遊戯と考えられる。 ⇒悲劇が「論理的に考えて正しいことをしてるのに酷い結末になる」ことを、まず「醜悪と不調和」とし、では、なぜそんなものに惹かれるのか(なんで悲劇が見てて楽しいのか)、というのが24章のテーマ。 私はずっと勘違いしていたのだけど、「論理的に考えて正しいことをしても常に良い結果にならない、それが現実だからよ」、というのは悲劇が楽しい理由ではないらしい。そういう要素もあるかもしれないけど、それはメインじゃないとニーチェさんは言ってる。ニーチェさんはこの理由をとりあえず否定して、でもあんまり根拠を示してないから腹が立つ。 ニーチェさんによれば、芸術ってのは現実に対する補足でなければならないから、そういう「現実ありのまま」を模写してるだけなら、これは芸術じゃないらしい。じゃあ、悲劇は現実の何を補足しているのか? ここから急に文章が難解になり、全く意味が分からないが、私は以下のように理解した。 第五章において、抒情詩人は自分の心の中に流れる音楽的感情(ディオニュソス的なもの)と一体化することにより、主観を排し、逆に自分をも客観的に見つめなおす。 「醜悪と不調和」が音楽的感情だとすれば、音楽的感情は自分を客体化することである。 悲劇の最終的な効果がディオニュソス的なものを与えることにあるとすれば、これをもっと端的にいえば、「普通の生活では自分を客体化できないけど、悲劇に触れてると自分を客観視できる。だから楽しい」ということになる。 自分を客観視するというのが全く実感できないのが困りものだけど、「自分より大きい存在を体感すると、自分のことも他の人や他の物と並べて見ることができる」くらいの意味ではないかと思う。 第二十五章 ・もしも不協和音の人間化ということを仮に想像することができるとしたら――人間はそれ以外の何物でもないのだが―― ・人間化された不協和音は、生きることが可能であるために、壮麗な幻影を必要とするであろう。 ・いっさいの存在の基礎、つまり世界のディオニュソス的根底が、人間的個体の意識にのぼることがゆるされるのは、アポロ的な光明聖化の力によって、これがいまいちど克服されうる、その可能性の届く範囲内に限られている。 ⇒まず重要な認識が開示されるのだが、「不協和音」とは「ディオニュソス的なもの」であり、「ディオニュソス的なもの」は「根源的一者」であり、そして、ここでは「不協和音」が「人間」そのものだと言っているので、今まで何度も出てきた良く分からない概念「根源的一者」とは、実は「人間」であったことが示される。これはおそらく「概念的思考などを失った人間そのものの感情や思念」くらいの意味だろうか。 そして、概念的思考を持たない人間は、単なる「感情」「思念」だけでは生きていけない。そのために「概念化」「個別化」を必要とする。それがアポロである。「なんか嬉しい」「なんかムカつく」だけでは個人は世界の中で宙ぶらりんになってしまい、まことに生き難い。そのため「概念化」「個別化」を行い、「3丁目の山田さんちの子供が勝手に牛乳を飲むからムカつく」という風に、個人を世界の中に関係させる。ただ一人「なんかムカつく」わけではなく、「他者との関係の中でムカつく」ようにする。 このような状況においてディオニュソス的なもの(なんかムカつく)が出てくるのは、それが直ちにアポロ的なもの(概念的なもの)で覆い被せられる、そういう場合にのみ出てくることになる。 悲劇を見ていると、人はあくまでそのドラマによって良い気分になったのであり、バックミュージックはオマケ(ドラマで良い気分になるのを補助する)だと考えるが、本当はバックミュージックによって良い気分になったのであり、ドラマはバックミュージックを分かりやすくするために比喩の形で物語をこしらえたものにすぎない。こういう風に「ドラマで良い気分になったんだよ」と人が錯覚する(アポロ的なもので覆い被せられる)場合にのみ、ディオニュソス的なものは姿を現すらしい。 まとめ 悲劇は音楽とドラマとで成り立つ。 一方、人間にも「根源的な意志」と「概念」とがある。 人間は「根源的な意志」からスタートして「概念」を生んだ。 同じように悲劇も「音楽」からスタートして「ドラマ」が成立している。 彫刻や絵画など、他の芸術形式と異なり、音楽ならびに悲劇が優れている点は、「概念」ではなく「根源的な意志」を直接的に観衆に伝えることにある。 「根源的な意志」はいかんせん「理屈」が抜けてるため、醜悪で不調和なものに見える。 では、そんなものに人が惹かれるのはなぜか? それは醜悪で不調和なものが生の現実であること、そして、醜悪で不調和な「根源的な意志」に触れていることで、主客を排し、客観的に自分を含めた世界を見ることができることにある。 アポロは世界を個別化することにより個人を世界と関係させ、ディオニュソスは世界を一緒くたにすることにより世界と関係させる、ということだろうか。 (そしてこれは解説書に書いてあったことで私は読み取れなかったのだけど)ディオニュソスにより、「醜悪で不調和」なものが人生である、つまり人生は苦痛に満ちている、ということが明らかにされながらも、それでも「生への意欲が苦痛を生むが、それゆえに人は生きている」ということが、ニーチェさんの言いたいことらしい。やっぱり私には読み取れなかったけど。 |
戻る |