●ノート「経済学道案内」(1)




これを読んでます。
あとでまとめるためのメモです。

Point
・「生産」というと、企業が商品を作ることと認識しているが、家事(シャドー・ワーク)なども「自給自足の生産」である。
・人間は基本的に働きたくない。なので、効率を上げるか、他者を支配する。
・私達は「できるだけ安く買いたい。高く売りたい」と考える。極論すると、資本主義は(意識はしていないが)「一銭も払わず、自分は好きなだけ相手の金を取りたい」つまり、「泥棒をしたい」と考えている。
・社会主義は性善説に由来し、資本主義は性悪説に由来する。
・「レンタル家族」など、「家族と一緒に生活する」といった元々経済活動とは何の関係もない活動までが商品経済(サービス業)となってきており、商品経済の範囲は拡大している。
・古代ギリシャ、古代ローマでは労働は卑しいものであった。
・プラトンやアリストテレスは「交換のための道具である貨幣で、利子を取って儲けるなんて不自然でけしからん」と怒った。
・中世まで資本主義(貨幣経済)は否定的に考えられてた。
・(ウェーバーによると)プロテスタンティズムの台頭により、資本主義は肯定的に捉えられるようになった。
・経済分析の視点は、流通(重商主義)から生産(重農主義)へと移り、さらに労働に着目するに至った。
アダムスミスを経済学の父として、そこから経済学は二派に分かれていき、資本主義を肯定する近代経済学と、資本主義を批判するマルクス経済学と二派が生まれることになった。


『第一章 経済の原理』

人間の生活活動の分類→生理的活動/精神的活動/社会的活動/経済活動

経済活動の分類→生産/流通/分配/(消費)

消費→生理的活動/精神的活動/社会的活動
生産→経済活動

生産の種類→自給自足の生産(家庭)/商品生産(企業)

家でカレーを作ったりするのは自給自足の生産だけど、社会通念的には商品生産がいわゆる「生産」なので、むしろ「カレールーを消費する」「野菜を消費する」など、カレーを生産することは「消費活動」と捉えられている。

GNPは商品生産のこと。GNPが多いということは「自給自足の生産」が目立たないということで、逆を言えば、GNPが低くても自給自足の生産は多いという国もある。

生産活動の中心は人間の労働
生産=労働+生産手段(※生産手段=労働対象+労働手段)
※魚を釣る場合は海が労働対象であり、釣具が労働手段となる。
※労働は生産の「主体的要因」で、生産手段は生産の「客体的要因」

人間の労働は「合目的的活動」すなわち「理性的活動」であり、動物の活動(クマが鮭を作る)などは「本能的活動」であるため、彼らの活動を、私達は「労働」とは呼ばない。

労働は自律的に変化する(人間は生産するために工夫をする)が、動物の活動は他律的にしか変化しない(環境が変化しない限り、動物は活動のあり方を変えない)。

「労働の自己矛盾」→労働には矛盾がある。
労働の効用→労働すると生活できる、労働はいいことだ。
労働の不効用→だるい。できれば働きたくない。
これらが矛盾となり、問題が生じる。

「できれば働きたくない」という労働のマイナス面が、労働の効率化を促進する。そして手に入るものが変化することで、生活も変化する。

労働の自己矛盾が内部で展開(内的展開)した場合、つまり「やらなきゃいけないけど、だるい」を「家族」などの組織内で何とかしようとした場合、それは能率を上げることに繋がる(各自に役割を決める分業制など※分業にすると各自がスペシャリストになるので能率が上がる)。
一方、それが外部に展開した場合は「他人支配」となり、他人を利用して「やらなきゃいけないけど、だるい」ことを解決しようとする。

「他人支配」の原始的な形が「泥棒、強盗」など。これらは労働の不効用を覚えずして、効用のみを手に入れようとする行為。「奴隷制社会」も同様。なお、奴隷制社会が緩くなっていくと(奴隷の力が抑えられなくなっていくと「封建制社会」となり、今ではそれもなくなって「平等な人間関係」の現代に至る。

もう一つの他人支配の形が間接的他人支配であり「資本主義制度」。まず、お互いが得意な物を作り(分業による効率化)それを交換する。この交換の際に、できるだけ自分は渡したくない、できるだけ相手から取りたいと考える。極論すると、何も渡さず好きなだけ取りたい、と考えている。つまり資本主義においても「基本的には泥棒をしたいと考えている」。けど、現実問題としてはそんなことはできないので、ある一定の割合で交換に応じる。しかしそれでも「差額を確保したい」という動機は働く。これが「営利原則」である。

昔は一つの生活集団の中での関係は平等ではなかった(資本主義ではなかった)が、ある生活集団とある生活集団の間では(例えば国家間では)基本的には平等な関係があり、(貿易などの)流通という資本主義が営まれていた。資本主義は元々社会の外側にあったわけだが、これが時代を経るに従い内部に入ってきて、その結果、流通だけでなく「生産」も資本主義化していった。

資本主義は性悪説に由来する。他人(外部)を利用して得をしようという考え。
一方、社会主義は性善説に由来する。家族(内部)の原理を他人の集まりに適用しようとしたのが社会主義(そしてそれゆえに失敗した)

性善説と性悪説ではどちらが正しいということはおそらくない。どちらも併せ持っているのが人間。であるならば、資本主義と社会主義も対立概念ではなく、「対外原理」「対内原理」という一組のセットであり、どちらか一方が他方を排斥するのではなく、バランスが重要となる。


(まとめ)
労働はしなければいけないけど、できればしたくないものである。
この矛盾点を克服するに、二つの方法が取られる。
一つは内的な展開であり、分業制による効率化(効率を上げて全体的な労働量を減らす)
もう一つは外的な展開であり、他人の利用(泥棒をする、奴隷を買う、商品を交換する)
例えば、家庭における家事分担などは前者であり、資本主義は後者である。
「家庭における家事分担」を、他者にまで広げたのが社会主義である。
家庭では家事を分担し、社会では他者と商品交換をするのは一般的なライフスタイルである。
とすれば、社会主義の原理と資本主義の原理は相対する二者択一の原理ではなく、両者のバランスが重要となるのではないか。


『第二章 経済はいかにして発見されたか』

以前は農業、商業、工業などは生業であったが、その中でどんどん「お金を使って活動する部分」つまり「貨幣経済」が出てきた。すると、この「貨幣」に関係する部分の経済活動、すなわち「商品経済」の面のみが「経済」という概念で捉えられるようになる。貨幣を光に例えるなら、貨幣という光に照らされた部分、「カネになる生産」「カネになる労働」だけが、生産であり、労働と考えられる。主婦の家事は「カネにならない」ので、「陽の当たらない労働」であり、「生産」や「労働」とは認識されない。(シャドー・ワークはGNPには計上されない)
※「シャドー・ワーク」はこの人が言ったっぽい。

商品経済とシャドー・ワークの他に、経済とは関係ない、例えば「フロに入って髪を洗う」みたいな、生きていくための本能に近い行動がある。
で、商品経済というのは最近広がってきているらしくて、例えば「ごはんを作る」というシャドー・ワークは「外食をする」という「商品経済」に乗り換えられる。「陽の当たらない生産」が「陽の当たる生産」になる。(経済概念の内的拡大)
その一方、「フロに入って髪を洗う」のような元々経済とは関係ない行為も、例えば散髪屋で髪を洗ってもらえばカネが動くので、商品経済に取り込まれ、経済活動(サービス業)となる。(経済概念の外的拡大)
後者の端的な例はレンタル家族で、これなどは「家族で生きる」という、まさに生活そのもの(=経済活動でもなんでもないもの)を商品経済にしている。
今までは、経済活動全ての中で「貨幣が照らす部分」を、特に「経済」と考えていたが、このように経済の概念は変化している。
※「経済概念の内的拡大/外的拡大」のところで用いられる「経済」とは「商品経済」のこと。
※風俗なんかも「経済概念の外的拡大」の典型じゃないかと思った。

古代のギリシア・ローマでは労働は奴隷のすることであり、Labor(苦役に近い)である。一方、日本の奴隷制度はあまり広がらなかったため、苦役というよりは勤労(生活共同体に参加し巧くやっていく)である。これが現代にも続いており、欧米の労働は「後ろ向きで消極的」、日本の労働は「前向きで積極的」である。

古代ギリシャやローマでは、プラトンやアリストテレスでさえも「商業や農業など(経済活動は)卑しいものである」と考えていた。政治や哲学などの精神生活を重視していた。
※ただし農業はどう考えても重要なものであるため、商業よりは重視されてたらしい(ローマ)。これが後代、重農主義に繋がるらしい。

プラトンやアリストテレスは、自給自足を良しとしていた。そのため、商品を交換したり、貿易したり、貨幣を用いたりするのは品位が低いと考えていた。
※自分達が働いてないから(労働の効率化とか考えないから)言いそうなことだなぁ……。でも、貿易だけではなく自給自足が国として大切というのは確かにその通りだ。

プラトンやアリストテレスは(貨幣経済の象徴的なものである)利潤や利子を「交換のための道具である貨幣を、それを貸すことで利潤を得るなんて不自然だ」といって反対した。ローマでは「農業生活をしろ、欲に溺れてカネを貸したり利子を取ったりするな」と哲学者は言ってたが、実際には諦めムードだった。このように(現代に至るまで)利潤や利子といったものには、否定的な態度が続いている。

中世キリスト教社会においては、「封建制度」「キリスト教」が二重の枠となって経済活動を押さえ込んでいた。その両者の支配力が弱まっていくにつれ、商品経済が現れて(目立って)くる。

カトリックでは、経済を「正義」(キリスト教の教えに由来する正義)という観念から考えた。それによると、農業や手工業は自然で正しいけど、商業はむさぼるから良くないのだそうだ。需要と供給で決まる物の値段(市場価格)も否定しており、物には「真の価値」「正しい価格」があると考えていた。利子を取ることも禁止すべきと考えていたが、実際のところ、当時の最大の金融ネットワークは教会だったらしい。とにかく、古代ギリシアから中世に至るまで、貨幣経済は否定的に受け止められてきた。
※確かに「ちょっと良い香りがするキノコ」である松茸があれほど高いのは「正しい価値」かどうかと思う。

中世まで否定的に受け止められていた貨幣経済(=資本主義)が、今では「尊敬される資本主義」となっている。(松下幸之助とか尊敬されてる)
いつから資本主義が尊敬されるようになったのか、ということに一つの説明を出したのが、あの有名なマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」。ウェーバーによれば、プロテスタントは「神によって与えられた自分の職業に励む」「遊ばない、無駄遣いをしない、禁欲的な生活をする」ものであり、本当に信仰心の強い人がこれらを遵守すると、当然その人はお金がたまって、お金持ち、つまり資本家になる。そして、そういう高潔な資本家がたくさん出てくるので、世間の資本主義に対する「見る目が変わってくる」。高利貸しのような下品な資本主義ではなく、上品な資本主義になったと、ウェーバーは考えた。もちろん、現実はそう簡単ではないのだけど。

ホッブズやロックの社会契約説に見られるように、近代になるとキリスト教の枷が外れて、神ではなく人間を基準に社会を考えるようになった(学問の発展)

資本主義が肯定的に受け止められるようになって、まず出てきたのが重商主義。富はイコール金、銀などの貴金属であり、国富を増進させるなら、外国貿易を行い、輸出を多くして、輸入を少なくすればいいといった、経済を流通の面でしか捉えていない、表面的な経済分析だった。

重商主義が経済の「流通」を面ばかりを見ており、貿易(社会外部での経済活動)だけだったのが、経済が社会内部にまで広まる、つまり、国内での「生産」という経済活動にスポットライトが当たることになる。ここで「生産」というのは、「貿易のための余剰が生み出せるもの」であり、それはこの時代は農業であった(工業には余剰を生み出すほどの力はなかったため)。そこで起こったのが重農主義である。この後は工業が栄えたので、工業が主役となり(産業革命による)、現在に至っている。(現在ではサービス業の方が主役になりそうな勢いだけど)

経済分析の視点は流通(重商主義)から生産(重農主義)へと移り、さらに深化して「労働」へと至った。キリスト教の影響が弱まり、社会を神に与えられたものではなく人間が作るものであると考えるようになったことは「主体性の自覚」であり「労働の発見」でもある。労働に視点を置いて、アダム・スミスは「商品の価格」は「その商品を生産するのにどれだけの労働が必要であったか、その労働量で決まる」と考えた。

アダム・スミス――リカード――マルクス
       |    ―ミル――マーシャル――ケインズ
       ―マルサス――――――↑

・アダム・スミスは経済学の父
・リカードは産業革命により誕生した新しい勢力である「産業資本家(ブルジョワジー)」の利害を代表する立場で経済理論を展開した。
・一方、マルサスは中世から社会に君臨してきた地主勢力の立場で経済理論を展開した。
・マルクスは資本主義の悪い面(資本家がすごく威張ってる)を見て、「資本主義は良くないんじゃないか?」という考え方(社会主義、共産主義)の立場から経済を分析し、資本主義の問題点を捉えようとした。
・ミルはリカードを引き継ぎながらも、資本主義の問題点を考えるため、社会主義の考え方を取り入れた。
・マーシャルはミルの考え方を引き継ぎつつ、マルサスの考え方も取り入れた
・ケインズはマーシャルを受け継いだ。

マーシャルからケインズを経て出来上がった理論が「近代経済学」であり、「マルクス経済学」と並ぶものとなっている。

マルクス経済学と近代経済学を比較すると、マルクスの方が「地動説的」であり、近代経済学の方は「天動説的」な捉え方である。マルクスの方は、現象(太陽が昇って沈む)を見て、なぜそうなるのかを真剣に考えていき、「実は動いてるのは地球なんだ」という結論にまで辿り着く。近代経済学の方は、現象を見て、そのまま「天が動いてる」と理解する。どちらが深いかと言えばマルクスだが、マルクスの深さは「資本主義の否定」に結びつくため(ふかーく理解して『やっぱり資本主義はダメだ』になる)、現実の政策にはあまり役立たない。

(まとめ)
古代ギリシアや古代ローマでは労働は卑しいもの、苦役と考えられていた。中世くらいになると、労働はキリスト教的にも正しいものとして考えられるようになったが、古代から一貫して、貨幣経済の象徴である「利子」に関しては否定的だった。ウェーバーによれば、プロテスタントの台頭と共に資本主義が正当なものと認められるようになり、重商主義にまず経済分析の目が向けられ(経済活動の「流通」に注目した)、その後、重農主義となり(経済活動の「生産」に注目)、さらには、生産における「労働」の要素へと視点が移っていった。
アダムスミスを経済学の父として、そこから経済学は二派に分かれていき、資本主義を肯定する近代経済学と、資本主義を批判するマルクス経済学と二派が生まれることになった。



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