●書評「スプートニク」 |
僕が最近、最も感動した芸術作品といえば、間違いなくこの書「スプートニク」です。 スペインのアーティスト、ジョアン・フォンクベルタの作品です。(村上春樹ではないです) しかし、この作品に触れているネット上のテキストを見ても、僕の感動を上手く代弁している書評はありませんでした。 そこで僕は、「自分の好きなものは、あまねく全ての人に押し付けたい」という情熱的な押し付けがましさを発揮し、作品「スプートニク」に対し、熱烈な書評を書き上げました。 無論、僕の受けた感動が、この書の魅力の全てでは無いでしょうし、まったく他の種類の感動を受けることも読み手の自由であることは言うまでもありません。 しかし、この作品のことを単なるネタ本としか思えなかった人には、是非読んで欲しいです。 勿体無いですから。 「スプートニク」はお笑いではなく、芸術(アート)なのです。 2600円もする、この作品。ネタ本と考えれば高すぎますが、芸術作品と考えれば安すぎますからね。 ちなみに、この「スプートニク」。 体裁としては、本の形を取っていますが、私見では、これは文学作品では無いです。 では、この作品はどのジャンルに属する芸術作品なのか? それは、作者のジョアン・フォンクベルタが何のジャンルのアーティストか?ということと併せて、最後の一文まで秘しておきたいと思います。 注意! この先の書評には、作品「スプートニク」にとって、致命的なネタバレが含まれています。 このネタバレはミステリにおける犯人ばらしと同じ程度に致命的なものかもしれませんし、人によってはそうでないかもしれません。 しかし、どちらにしろ、初読の時は何も知らずに読むのがベターかと思われます。 ですので、この先にはネタバレがあることを承知の上、読み進めてください。 なお、参考までに申し上げますと、僕がこの作品を読んだときは、既にその「ネタバレ」を知っていました。 書評「スプートニク」 「スプートニク」の梗概を説明いたしますと、時は東西冷戦下、激化する宇宙開発競争の只中において、自国の宇宙飛行失敗を隠蔽しようとしたソ連は、その飛行失敗において死亡した一人の宇宙飛行士と一匹のライカ犬の存在記録を抹消しました。 そして、時は流れ、1993年。 サザビースでロシアの宇宙飛行に使用した資料などがオークションにかけられ、その資料の中から、上記の、存在を抹消された宇宙飛行士の存在が浮かび上がってきます。 本書「スプートニク」は、その、国家により存在を抹消された宇宙飛行士の足跡を追ったドキュメントなのです。 「スプートニク」本文中のテキストは、それは淡々としたものです。 存在を消された宇宙飛行士―イワン・イストニチコフ―の生い立ちや、少年時代。 結婚生活を経て、軍でパイロットとしての訓練を受け、そして、飛行事故により死亡する直前の通信記録などが、多数の資料写真と共に描かれています。 その文章は、「国家単位の陰謀」を暴いているにも関わらず、決してヒステリックなものに陥ることはありません。 しかし、ただ淡々と事実を列記するその姿勢は、かえって読者に事実の重たさを実感させます。 僕たちは、決して扇動的ではないこの書が告げる、その冷厳たる事実に打ちひしがれ、また国家により存在を抹消されたイワン・イストニチコフに思いを馳せることが出来るのです。 ・・・・・・と、書きたいところですが。 しかし、この作品はそういう作品ではないのです。 そう、この作品は一冊丸々フェイクの塊、つまり、全てがフィクションなのです。 ただのフィクション―小説―ではありません。 上記のように、この書の文体は事実を淡々と列記することにより、また、資料写真を豊富に用いることにより、「あたかもノンフィクションであるかのごとく」見せかける努力に余念がないのです。 つまり、これは偽書、手の込んだドッキリ本、悪ふざけ、そう言っても過言ではありませんし、現にそのように捉える書評も多いです。 確かに、この書は悪ふざけとも言えるでしょう。 その点は否定できませんが、しかし同時にこの書は、素晴らしい芸術的価値も備えているのです。 何を以って、芸術(アート)と呼ぶか? その定義は人によって様々でしょうが、僕はこのように考えています。 「既存の概念・価値観を破壊し、新しい視界を啓かせること」 僕はそれをアートと呼んでいます。 その作品に触れた後、目に見える世界がそれまでとは違って見える。 そのような作品がアートであり、そのような作品に触れることが感動だと思います。 そして、この意味で、僕はこの書「スプートニク」から感動を受けたのです。 では、この書から受けた僕の「感動」を語らねばなりません。 そのために、この書の芸術的特性を最も明瞭に表した、次の素晴らしい1枚の写真を御覧下さい。 僕は、この写真を見て、くずれ落ちるほどの感動を覚えました。 どうです?感動しましたか?? するわけないですよね。 だって、これはただの「風景写真」ですから。 この写真で感動するためには、文脈の中に位置付けられた、この写真の意義を捉えなければなりません。 この写真には、その横に 「イワンの子供時代、オカ川に支流が流れこむあたりの風景」 とキャプションが添えられています。 つまりこの写真は、イワンが少年時代を過ごした地域の、周りの風景を撮影した資料写真なのです。 なるほど、この写真が資料写真ということは分かりました。 では、この資料写真に感動できますか? 出来ませんよね。 なぜならば、いま僕たちは「ノンフィクションドキュメント」という文脈の中に位置付けられた、「ひとつの資料写真」として、この写真を捉えたからです。 もしも、僕たちが「スプートニク」がフェイク本であることに気付かず、本当にノンフィクションドキュメントと思って読んだならば、この写真は本当に「単なる資料写真」です。 仮に僕がそのノンフィクションに心を動かされ、おいおいと涙を流してイワン・イストニチコフの死を悼んだとしても、それでも、この写真はあくまで「単なる資料写真」です。 それは僕の心を動かせる一助にはなったかもしれませんが、そこに込められた情報は、たかだか「悲運の主人公が幼少時代に過ごした村の景色」に過ぎず、僕は、この資料写真のことなど一瞥するだけで次のページをめくっていたでしょう。 つまり、この写真が資料写真である限りは、僕の感動を誘う「芸術作品」には成りえず、あくまで「資料写真」に過ぎないのです。 では、この写真が置かれるべき本当の文脈とは何でしょう? それは 「作者フォンクベルタが読者を騙すことを目的にした架空のドキュメント」 です。 この写真は、そのフェイクの中で「信憑性を付加するため」に「資料写真の体裁を取って」掲載されているのです。 この何の変哲もない資料写真。 これを上記のような「正当な文脈と意義」において見た場合、その写真としての芸術的価値が生まれるのです。 上記までの流れをまとめながら話を進めたいと思います。 この写真を見る人は、大きく三つに分けることができます。 まず、この写真を単体で見た人。 その人の目には、これは単なる風景写真です。 別段、この写真自体に美的な価値は見出せません。 風景写真はそれ自体がつまらない以上、「ゴミ」といってもいいでしょう。 次に、「スプートニク」をノンフィクションと信じて読んでしまった人。 その人にとって、この写真は「資料写真」です。 「風景写真」同様、美的な価値はありませんが、代わりに「資料写真」には「情報力」があります。 「ノンフィクションという文脈」において、この写真を見たとき、この写真は、読者にイワンというキャラクターの周辺知識を与え、そのキャラクター理解を深める一助となります。 しかし、情報力があるという点で「資料写真」は「風景写真」よりも若干価値高いものとなりますが、その「情報」も、このノンフィクションテキストの中ではたいした情報ではなく、比較的どうでもいい、低価値の写真となります。 風景写真と違い、価値はゼロではありませんが、たいしたものでもない、ということです。 そして、三つ目の見方、「スプートニク」をフェイク本だと知って読んでいる人。 その人にとって、この写真は「まったくのゴミ」です。 だって、その人は「スプートニク」に書かれているテキストが、情報としてはまったく意味の無い、いわばジャンク(ゴミ)の集合だということを知っていますから。 ジャンクであるテキストを補完しようとする資料写真も、当然ジャンク、ゴミな訳です。 ならば、文脈と切り離して評価したならば? すると、この写真の価値は風景写真としての意味しか残らないわけです。やっぱり、ゴミです。 ですが、このように「スプートニクがフェイク本であることを知っている人」にとっては、ゴミに過ぎないはずのこの写真。 しかし、良く考えてください。 これは、実はすごいことではないでしょうか。 いいですか? 本にゴミが載っているんですよ。 200ページで2600円弱の、この本に、1/2ページを使って、ゴミが載っているんです。 本質的には何の価値も無いこの写真が、横にもっともらしいキャプションを付けただけで、本の中にさも当然かのように納まっているのです。 この写真を見た瞬間、僕は腹がよじれる程に笑いました。 「なんだ、この本は!何の変哲もない風景写真を半ページ使って載せていやがる!!」 と。 そして、ひとしきり笑った後、僕は気付きました。 やられた。僕が笑った、ということは、これは芸術作品(アート)だ、と。 つまり、です。 僕は、この写真を見て、笑いました。 風景写真として見れば、単なるつまらない写真。 資料写真として見ても、一瞥して、それで終わってしまう、それだけの写真。 しかし、この状況下に置かれたその写真は、僕を笑わせるだけの意義と情報があったのです。 僕は先ほど、この写真を文脈と切り離すことでジャンク(ゴミ)と断定しました。 しかし、この写真は、文脈と切り離されゴミとなることにより、逆説的に再び文脈と結びつき、価値を得たのです。 文脈と切り離されることでゴミとなった写真は、それが文脈の中に置かれていることを再確認させることで、僕を笑わせたのです。 この写真は、このとき「風景写真」や「資料写真」などとは比べ物にならない「価値」を得たのです。 本質的には「風景写真」と何ら変わることの無いこの写真が、「風景写真」よりも、遥かに「価値」あるものとなったのです。 (僕が思っていたことで、世間一般の認識とは違うかもしれませんが) 僕は写真の価値というものは、「ファインダーの中に収められた情報を、客観的に第三者へ伝えることができる」ことだと、それまでは理解していました。 その写真に収められた映像が美的であったり人の心を揺さぶるものであれば、それが写真の芸術だと考えていました。 ですが、上に挙げた「スプートニク」の写真は、美的な価値も、情報的な価値も、持ち合わせていないのです。 その写真は私の考えていた「写真の価値」に照らし合わせれば間違い無く「ゴミ」だったのですが、にも関わらず、この写真には「価値」があったのです。 これほど興味の湧かない、退屈なものに、腹を抱えて笑わせられたのは初めてだったからです。 「一見すると資料写真」であるこの写真は、その本質が「つまらない風景写真」であるにも関わらず、実際は、資料写真の価値よりも、風景写真の価値よりも、高い価値を備えているのです。 この「つまらない風景写真」は、元来が「資料写真」を模して撮られた物ですから、通常の場合であれば、この写真に「資料写真」以上の価値を与えることは出来ません。 しかし、「資料写真」では、価値を与えてもたいしたものにはなりません。 その常識的な価値の限界を「スプートニク」は突破しました。 本来ならば、ちょっとした情報力を持つだけに留まる「資料写真」で僕を笑わせたのです。 笑わせただけではありません。僕が笑ったということは、この写真に、僕は「資料写真」以上の価値を見出したということです。 そして、僕をそこまで導いたのは、言うまでも無く、この作品「スプートニク」です。 これは、つまり「スプートニク」が僕の中での写真の概念・価値観を破壊し、新しい地平を見せてくれたということです。 先に書いた、僕の芸術の定義を繰り返しましょう。 「既存の概念・価値観を破壊し、新しい視界を啓かせること」 その意味で、僕は「スプートニク」を芸術作品(アート)と呼ぶのです。 具体的な話をしましょう。 仮に、この作品がフェイク本であることを知らずに読み始めた人がいるとします。 その人は、作中に出てきた、この写真を「資料写真」と捉え、「ふーん、イワンはこういうところで育ったんだ」と思います。 そして、それで終わりでしょう。 この時点での写真の価値は、それだけです。 次に、その人はラストまで読み進め、この書がフェイク本であることを知ります。 そして、その人はもう一度この本を見返して、例の写真を再見します。 「なんだよ、じゃあこれは、ただの風景写真かよ」 そう思うでしょう。 そこで、ケラケラと笑うことが出来れば、その人は幸運です。 笑った瞬間、この写真には新たな価値が生まれるからです。 そして、その価値は、この写真が本来「資料写真」として用意されたにも関わらず、「資料写真」の価値など遥かに通り越した大きな価値なのです。 さらに、 「資料写真として用意されたものが、資料写真以上の価値を持っている」 このことに気付いたならば、その人の勝利です。おめでとうございます。 その人は、この作品に少なくとも2600円以上の価値を見出せたと思います。 「スプートニク」の中身は、このようなゴミみたいな資料(もどき)に溢れています。 宇宙服や軍服を着たイワン・イストニチコフの写真は単なる作者フォンクベルタのコスプレ写真に過ぎないし、子供時代のイワンが描いたというロケットの絵は、やはりフォンクベルタの落書きに過ぎません。 これらの資料(もどき)をアハハと笑って見ているだけでは、この本はまだアートではなく、良く出来たドッキリ本、手の込んだ悪ふざけに過ぎません。 しかし、これらの資料(もどき)を見て僕たちが笑っている、その事実をふと考えたとき、そして、この資料(もどき)の実際の価値(単なるゴミ、という意味です)を考えたとき。 その行為を通して、つまり、写真の価値変容に気付いた瞬間、この作品はアートへと昇華します。 「スプートニク」は、写真というメディアに新しい意味を与えているのです。 つまり、これが「写真家」フォンクベルタのアートなのです。 |
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