●斬はシグルイよりも面白い!? |
※この記事は『斬』第二話読了時のものです。 連載第二話にして、はやくも「歴史に残る大駄作」と呼ばれる杉田尚先生の「斬」。 当サイトにおいても、この二週の間、斬をクソ漫画として扱っていましたが、先日ネットラジオ(MP3)放送中に漫画読み4人による3時間超の斬論議を経た結果、僕たちは驚くべき事実へと到達しました。 「斬はシグルイをも超える超ハード剣術漫画である」 これを聞いて、みなさんはきっとこう思ったことでしょう。 「そんなバカな」「気でも狂ったか」「クソ漫画愛好家にあるまじきすくたれ者」と。 しかし、信じられないかと思いますが、これが僕たちが至った紛れもない結論なのです。 ここでは、先日の議論の末に辿り着いた、斬の奥深き世界を開示いたします。 これを読めば、来週から斬を見る目が変わってしまうことでしょう。 Point1 「斬世界は武士道の極北である」 斬世界の住人が、異常なまでに脊髄反射で抜刀することは皆さんご存知のことと思います。 やれ肩が触れ合った、やれイジメを邪魔された。 彼らはそのような些細なことですぐに刀を抜き、真剣勝負と申して斬り合いを行います。 現代社会に住む僕たちからすれば、これは真に異常極まりないことであり、とても理解できるものではありません。 刀とは非常に恐ろしいものです。 たとえ、相手が村山斬の如き少年であれ、真剣を振り回しているだけでも相当の脅威です。 考えてみてください。真剣を振り回している少年を、道でぶつかったというだけで、危険を冒して斬り殺そうと思いますか? そんな恐ろしいこと普通はできませんよね。 僕たちの常識で考えればありえないのです。 なのに、彼らは自らの命も顧みず平気で斬りかかります。 斬世界の住人はみな狂人ではないかと思っても仕方ありません。 ですが、僕たちは思い違いをしていたのです。 僕たちは、文明開化以降、150年弱の期間、刀を持たぬまま過ごした人間です。 方や、斬世界の住人は、その150年弱の時間を刀と共に過ごした人間です。 さらに彼らの世界では真剣勝負が認められています。 彼らは、僕たちとはまるで別種の異文化に生きているのです。 150年間も異文化に生きた人間が、果たして僕たちと同じような常識を持つでしょうか。 否、彼らは150年間の刀の歴史と共に、僕たちとは全く違う「常識」を身につけているはずなのです。 なぜ、彼らは些細なことですぐに命のやり取りを始めるのか。 それは僕たちとは全く別物の、彼らの「常識」にあったのです。 冒頭の不良と村山斬の戦いを思い返してください。 あの時、不良は、おそらく自らの死を覚悟して斬に斬りかかったのでしょう。 真剣を持って斬りかかるとは、同時に自分が真剣で斬られることも承知したということですから。 いわば、あの不良は「道でぶつかった」という「些細な出来事」の瞬間、「己の命を散らした」のです。 「武士道とは死ぬこととみつけたり」なのです。 斬世界の住人は、刀を腰に帯びた瞬間、「オレは死んだ」と覚悟するのです。 あの漫画に出てくる刀を帯びた人物は、みな心の中では自分を死んだものとみなしているのです。 全ての人物が「いつ死んでも構わない」という覚悟を持っているのです。 だからこそ彼らは、あのような些細な事柄で、ためらわず真剣勝負を行えるのです。 どうして、彼らがこのような覚悟を持つに至ったのか。 それはおそらく「武士道」と明確な関わりがあるのでしょう。 おそらく斬世界においても、「武士」という特権階級(職業)は存在しません。 また、仕えるべき「主君」もおらず、守るべき「家」もないはずです。 では、何をもって彼らは己を「武士」としたのか。 斬世界において、唯一受け継がれたのが「武士の心意気」だったのです。 彼らは、仕えるべき主君もなく、守るべき家もなく、職業としての武士のアイデンティティーも保つことができません。 他者により自己を武士と規定できない以上、彼らは己の内部における「武士」を肥大化せざるを得なかったのです。 それにより、「いつでも死ぬ覚悟が出来ている」という武士の精神ばかりが斬の世界では膨らんでゆき、今は破裂寸前の飽和状態となっているのです。 そのガス抜きたるものが、彼らのいう「真剣勝負」であり、彼らはそうして時々「自分はいつでも死ねる覚悟が出来ている」ことを自覚することで、なんとかして己の武士としての存在を定義し直しているのです。 ですから、不良や牛尾さんが直ちに抜刀したのも、主人公を斬り殺したいからというばかりではありません。 己を死地に置くことにより、「いつでも死ぬ覚悟が出来ている」ことを実感し、自分が武士であることを確認していたのです。 男全員が死に急ぐ、この異常な社会は病理と言っても良いかも知れません。 おそらく成人まで生き伸びる可能性は5%を切るでしょう。 ですが、「仮に文明開化以降、帯刀が続いたらどうなるか」という世界を、帯刀していない2006年の僕たちの視点ではなく、150年前のその時点から刻々と追い続けた杉田先生の力量は感服すべきでしょう。 結論:斬世界がすぐに斬り合いを始める異常な世界に見えるのは、現代を生きる僕たちの視点に過ぎず、実際に文明開化以降も帯刀が続けられていた場合、このような世界になることは十分考えられる。斬世界では「武士」がより内面的なものとなり、「武士」としての精神が肥大化しているため、全員「いつ死んでも構わない」と覚悟しており、その確認作業として日々真剣勝負により殺し合いが行われている。 Point2 「狂人ヒロイン月島はジェンダー問題を描いている」 すぐに斬り合い殺し合いを始める登場人物たちの中で、ひときわ異彩を放つのがヒロイン月島です。 彼女は女性でありながら帯刀し、真剣勝負にも積極果敢に参加します。 命の恩人である主人公に対して真剣を向けるなど、彼女の行動は僕たちの目からは狂人にしか見えません。 しかし、Point1で述べた「帯刀しているキャラは全員『いつ死んでも構わない』という覚悟を持っている」という点を考慮するならば、月島さんの存在は単なる狂女ではなく、それ以上の意味合いを持ってくるのです。 斬世界において、帯刀するものは主に男です。 女が帯刀することは珍しいことであり、男からは「女のくせに」と嘲笑されます。 ですが、ヒロイン月島は「女でも武士を名乗れる」ことにこだわっています。 先に述べた通り、この漫画における「武士(おとこ)らしい」とは、すなわち「いつ死んでも構わない覚悟をもっている」という意味です。 おそらくヒロイン月島も、表層の意識においては「いつ死んでも構わない」という覚悟を決めているはずです。 ですが、彼女は実戦になれば、すぐに相手の刃に恐怖し、へたりこんでしまいます。 これは彼女が女であるからに他なりません。 斬世界における「男」とは、僕たちの世界の「男」とはまるで別物です。 僕たちの世界においては男女の性差などそれほど大きな問題ではありませんが、斬世界ではこれが非常に大きな問題なのです。 斬世界では、男は「いつ死んでも構わない」覚悟で日々を生きていますが、女はそうではないのです。 そんな女の月島が、武士、つまり「いつ死んでも構わない」覚悟を得ようとしたのです。 当然、うまくいきません。 男たちは、物心ついた時から「いつ死んでも構わない」覚悟を涵養し始めます。 周りから「お前は男なのだから武士らしく真剣勝負で命を散らせ」「命を惜しむな、名を惜しめ」などと幼少の頃から繰り返し囁かれているはずです。 そうして、男たちは死への覚悟を築き上げるのです。 ですが、女として育てられた月島には、その長大な準備期間がありません。 彼女には「死ね」と言ってくれる周りの大人がいなかったのです。 それゆえ、彼女は男たちのように「いつ死んでも構わない」覚悟を究めることができなかったのです。 彼女が、いかに表面上「いつ死んでも構わない」覚悟を決めたところで、心の奥底、深い部分では、まだ「女」でしかないのです。 街の不良や牛尾さんのように、本当に「いつ死んでも構わない」覚悟を持ってはいないのです。 それゆえ、決闘においては恐怖に勝てずへたりこんでしまうのです。 僕たちの社会においては、男女の性差は縮まる一方です。 ですが、杉田先生は敢えて、男女の性差に「覚悟」という乗り越えられない段差を設けることで、ジェンダーの問題を浮き彫りにしているのです。 月島が表面上どれほど覚悟を決めようと無理なのです。 彼女が女として育てられた限り、男のように華々しく命を捨てることはできないのです。 斬世界においては、性差は個人の意識で乗り越えうるものではなく、文化的・歴史的なものなのです。 なお、これを下敷きに考えれば、第二話は涙なしには読めません。 月島は圧倒的な剣の実力を持つ主人公に真剣勝負を挑みますが、これは「私を殺して下さい」と同義です。 彼女は先の戦いで不甲斐ない覚悟を見せた自分を恥じ、改めて村山斬との戦いで己が命を捨てることにより、「いつ死んでも構わない」自分の覚悟を確認しようとしたのです。 いわば、彼女は「武士になるために死のうとしていた」わけです。 なんという悲しい物語でしょうか。 結論:ヒロイン月島は他の男たちのように「いつ死んでも構わない」と覚悟しているが、女として育てられたために、男たちほどその覚悟を涵養してはいない。それゆえに真剣勝負においては、覚悟が足らずへたれこんでしまう。杉田先生はヒロイン月島を通して、精神だけでは乗り越えられない文化的な男女差異を描こうとしている。 Point.3 『研無刀は奇想兵器である』 研無刀の説明を始めて見た時は「なぜ主人公は鈍器を振り回しているのだろう」と不思議に思ったものです。 ですが、よく考えればこれは不思議でもなんでもないことでした。 この世界では誰もが真剣を振るい、些細なことですぐに命のやり取りが行われます。 このような状況が150年弱続いていたのです。 となれば、真剣同士での戦闘ノウハウの蓄積は僕たちの想像を絶するものがあるでしょう。 そこで有効になるのが新戦術です。 どれほどの達人であれ、まったく見たことも無い武器や、聞いたこともない剣術には対抗し辛いものです。 となれば「斬れない刀」という、全く新しい武器、新しい剣術が登場したのも想像に難くありません。 幸い、僕たちはこれによく似た状況を知っています。 シグルイにおいて、虎眼先生はレイピアを「斬れませぬ、飾りかと」と断言しました。 しかし、虎眼先生は(負けはしなかったものの)見たこともない夕雲のレイピアに(たぶん)苦戦したのです。 同じく研無刀もそのような武器なのではないでしょう。 「普通の刀そっくりで」、かつ「武器破壊を主眼としている」というのは、(現実可能性はさておき)非常に理に適った武器です。 虎眼流ならともかく、普通の流派であれば、相手が刀で斬りかかってきたら刀で受け止めるでしょう。 それが研無刀の狙いなのです。 研無刀を受けた瞬間、その刀は砕かれてしまうのですから。 格闘ゲームで例えるなら、一見普通の攻撃なのでガードしたら、実はガード不能攻撃で殺された、というようなものです。 これは間違いなく強いはずです。 剣術小説においては、往々にして「奇怪な新剣術」と「それをどう打ち破るか」の戦いが描かれますが、研無刀はその前者と言ってよいでしょう。 そう考えれば、この奇妙な武器、奇妙な剣術も何ら不思議なものではなく、むしろ杉田先生は剣術小説の基礎を描いていると言えるのです。 結論:研無刀は一種の奇手であり、剣術小説における「奇妙な新剣術」の扱いである。 ●まとめ 杉田先生の描く「斬」は、極めて緊張感あふれる物語です。 登場人物のほとんどは「いつ死んでもよい」と覚悟を決めた者たちであり、彼らが些細なことで直ちに殺し合いを始めます。 シグルイでさえ虎眼流に近寄らぬことで難を逃れうるのに、斬ではそれすらままならないのです。 斬の世界観は、あらゆる漫画の中でも最もハードな世界観と言えるでしょう。北斗の拳よりハードです。 しかし、杉田先生はただハードな世界を描くだけでなく、ヒロイン月島を通して現代のジェンダー問題を浮き彫りにし、意識や努力だけではどうにもならない、文化的・歴史的な男女の性差も描こうとしています。 かつて少年漫画において、これほど重厚なテーマに取り組んだ作家がいたでしょうか。 また、これだけでは内容が硬すぎるのですが、研無刀という新戦術を設定することにより、剣術小説のニュアンスを取り入れてエンターテイメントとしての側面も強調しているのが杉田先生のすごいところです。 まだ第二話ですので断言はできませんが、ここまでの展開を見た限りでは、この漫画は少年漫画界の至宝と謳うべき作品ではないでしょうか。 これからの斬の展開に目が離せません。 |
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