橙の祝祭
だいだいのしゅくさい



 僕の現在の住居は、花屋「子猫の住む家」だ。
 ここは面白いことに店員が多国籍である。日本人が四人もいるという事実も、中々珍しいのではないだろうか。(うち一人は生粋かどうかは不明だが、日系の面立ちをしているのは確かである。日本語も操れることだし)
 四人のうち、一人は女性である。クルミ・シンジョウという。とても気性が穏やかで、優しく気配りのできる少女である。(えてして日本人女性とはそういう傾向にあるが)見てくれはいいが、男ばかりだったこの花屋に輝く一輪の薔薇といってもいいかもしれない。(彼女の容姿としては、もっと儚い菫のようなイメージもあるが)残る三人はもちろん同性―――僕の嗜好上面白くもない男性ばかりだ。
 男性三人のうちの一人、ユキ。欧米の基準じゃ彼は到底ティーンエィジャー……せいぜい十になったかならないか程度にしか見えない。彼のプロフィールは不明だが、彼の自己申告では十五になるという。全く見えない。女装したら女の子にしか見えないだろう、可愛らしい顔立ちだ。(こんなことを以前言ったら、顔を真っ赤にしてユキは拗ねた)大体、ユキ、なんて名前も可愛らしいではないか。ユキ、とは日本語の「雪」……つまりスノウ、という意味なのだ。誰がつけたのか知らないが、とてもぴったりだ。可愛らしさなら、同じチームメイトのミッシェルもいる。彼はさながら春の柔らかな花に例えられるが、ユキはまさにユキ、なのだ。白人とは、また違うしゃん、とした白い肌。黄色人種とは思えないほど白い。
 さて、二人目の日本人とはアヤ――――ラン・フジミヤ、である。彼はおそらくユキと比較するに、二十歳は超えているだろう。僕の感覚からすれば、せいぜい高校生ぐらいにしか見えないのだが。日本人の年齢をあてるのは本当に難しい。彼はまぁまぁ容姿が整っている。そして武器は刀だ。ジャパニーズ・サムライというヤツだろう。サムライとは自分に厳しく、チョンマゲにして、キモノを着て……また必要以上に喋らないとか……あたりさわりのない知識しか僕にはないが。どちらかというと寡黙な方だろう。結構な知識人で(というか物知りなのか?)花屋で仕入れた花は、殆どそらんじているようだ。
 では、最後の日本人メンバーであるケン――――ケン・ヒダカについての所見を述べよう。彼の武器はバグナク。虎の爪のように鋭い刃物をグローブに設置し、それを装着して攻撃する。僕たちの中でも一、二位を争う身体能力。その飛び抜けた敏捷性と、破壊力。ベィビィみたいな、優しげで闊達そうな彼の面立ちとは真逆の戦法に思える。母国から外国にきて、日本料理が食べたくなったのかよく日本食を作る。というか……正直に言おう。そして認めよう。彼ら四人の日本人メンバーがいるからこそ、僕たちの生活ははっきり言って人間並なのだ、と。
 食生活も何もかも、僕たちは自己管理でやってきた。お互いそれまで別々に暮らしており(ミッションの時のみ合流していたから)共同生活なんて、家族以外とは初めてな訳だ。僕とミッシェルなどは戸惑いの連続だった。
 でも、気づけばケンが何も言わずとも掃除をし始めた。彼曰く、見ていられないそうで。(僕もミッシェルも、ハウスキーパーを雇うのに慣れすぎていたようだ。彼に掃除などハウスキーパーを雇えばいいじゃないかと提案したら、自分の家に他人を入れるのはゴメンだとつっぱねられた。まあ、僕たちの仕事上、他人は家に入れない方が好ましいとミス・ナナ・ヒロナギも言ったことだし。この意見は却下された)
 後に加わったアヤは、ケンと元々の同じメイトで。共同生活にも慣れているようだった。まず最初にガイドラインを作る、と言い出したのだ。
『ああ、そうか』
 ケンはたった一言で納得した。つまり、お互い出身も、育ちも違うわけだから。習慣やして欲しくないことなどをメイト同士で話しあい決めようということらしい。その意見は驚くほどの効果を現した。話し合って初めて、例え言葉で会話が何とか成り立とうとも、感覚のギャップを埋めるのは難しいということを理解したのだ。きっとあのままだったら、お互いの行動や言動に戸惑ったり、時には理解しがたくて苛立ったり。チームメイトとして致命的な欠点を晒すことになっただろう。
 そして新たに、クルミ、という女性が加わった。だが面白いことに僕たちのガイドラインに、特別変わった項目を作る必要はなかった。これはくるみの方が、上手く適応してくれたというのが大きな要因だろう。


 そう、僕たちの生活は上手くいっている――――ただ一つ、食生活をのぞけば。


「……またナットウか」
 かちゃかちゃと、皆硝子の器を手に持って箸をぐりぐりとまわしている。ナットウを、ねっているのだ。僕はこの食品が嫌いだ。そもそも腐っているものを、食べるという感覚が分からない。体にはいいらしいが、遠慮願いたいのだ。
「あ、そか。わりぃ忘れてた……これ。用意しておいたぜ」
 僕のテーブルの向かい側に座っている、ケンがわたわたと立ち上がって冷蔵庫からペリエと簡単な前菜をいくつか出してきた。僕が以前、このナットウが食べられないと分かってから、ケンはナットウの時は必ず別の食品を幾つかつくっておいてくれている。
「どうも。……しかしなぁ、どうしてみんな食べられるんだい。僕には到底理解出来ないね。ビーンズが腐って糸を引いてるんだよ?」
「……言わせて貰えば、チーズだってミルクが腐ってるんだろ」
「こら、ユキ。食事中だぞ」
 だって、と口をとがらせる。けれど、ケンに続きアヤにも静かに目で押さえられて(日本人て、目で意志疎通出来るって本当なんだな)声に出すかわりにナットウを押し込んだ。その左隣りのフリーも、ナットウを黙々と口に入れている。かなり好きらしい。その隣りのミッシェルは、糸をのばすのが楽しいらしくまだ練っている。ケンは言わずもがな、アヤも同様だ。
 僕は苦笑しつつ、ケンが作った前菜を口に運ぶ。……と、隣りから視線が来た。
「なんだい? フロイライン・クルミ」
「あ……いえ、何でもないんです」
「……そう。ならいいんだが」
 彼女の目は、どうみても”何でもいい”ではなかった。はぁ、と内心ため息をつく。困ったものだ。食事の後にでも、聞き出そう。心の中で決意する。
(全く日本人は奥ゆかしい)
 それがいいか否かは別だ。長い間鎖国して、そして同一民族で長い間暮らし続けた島国の人々は、言葉で表さずとも”空気”でその場を察すことが出来るという。つまり、雰囲気を読むというヤツだ。同一民族であり、団体行動にで農耕を中心とした民だから、スタンドプレイはおのずと排除される。例え違うことを思っていても、皆がそうするならばと合わせる。――――これが有名な”本音”と”建前”だ。
(……ここは日本じゃないし。口ごもるのは、正直苛立つものだな)
 皆が箸を使う中、僕だけが優雅にフォークとナイフで食事を終えた。



「クロエさんは、ケンさんが嫌いなんですか?」
 さっきはどうして僕を見てたんだい、ケンと一緒に食器の片付けを終えた彼女を捕まえて、尋ねた言葉の答えがこれだ。
「……どうしてそう思うんだい。フロイライン」
「だって、さっき……」
 一瞬、責めるような光を瞳に宿したけれど。それはすぐに消えて戸惑いに変わっている――――そうそう、日本人は他人を非難したりするのも苦手なようだ。
「さっき?」
「……いつも、こうなんですか?」
「いつも? 一体何のことだか、分からないんだが」
「……ナットウ、です」
「好き嫌いはいけないとは分かっているけどね、フロイライン。誰にだって、苦手なものがあると思うんだが?」
 少々脱力して、僕は階段の手すりに半分持たれながら呻いた。可愛らしいフロイラインに、ナットウ如きで嫌われたくはない。
「そうじゃなくって……。この間からお世話になって、一週間。ずっと思ってたんですけど……」
「一週間……」
 そんなに思っていたのか。僕はびっくりして彼女を見つめてしまう。クルミは少し戸惑って、ええと、ええと、と呟く。
「ナットウだけじゃなくって……例えば日本料理じゃなくても。クロエさんて必ず一品苦手なものがあるんですね。それに対して、ケンさんが別に料理を付くってくれるでしょう?」
「感謝してるよ」
「……でも、この間クロエさん……生ハム。夜中に、おつまみとして食べられてましたよね?」
「……見ていたのかい」
 こっくり、と彼女は深く頷いた。うーん、と僕は唸る。彼女のいう生ハムとは、確か三日前にフレンチにケンが挑戦した際、僕が食べられないと駄々をこねた時のことだ。ケンは食事中にも関わらずいつものようにはいはい、とにこにこしながら立ち上がり、かわりに僕の好きなテリヤキを作ってくれた。
「あの時、ユキさんが『ケンは、クロエに甘すぎるよ』って仰ってて……どういう意味だか分からなかったんですけど……」
 そう、気まずいことに僕は生ハムは食べられる。(今日のナットウは本当に駄目だけど)でもついつい……食べられないと言ってしまう時があるのだ。最初は偶然だった。ケンがスシを準備してくれたときに、イクラを食べてみて『これ、苦手だな』とたまたま呟くと……そんな僕に気づいて『あ、そうなんだ? じゃ、何なら食べられる? 作ってやるよ』と。綺麗な笑顔で言ったケンが、急速に心の中に入り込んできたのだ。
 気になりだした、が正しい。
『……もしも、これが苦手だって言ったら違うのをまた作ってくれるんだろうか』
 ちょっとした好奇心でもあった。
 今日まで、ケンが『面倒臭い』といって僕のリクエストを蔑ろにした例は一度もない。
「……クルミ。君は、アヤとケンをどう思う?」
「え? アヤさんと、ケンさん……ですか?」
「そう、彼らについて」
 唐突としか思えない話題転換に、彼女は首をかしげながらも唇に指を添えながら視線を泳がせる。うーん、と少し困った顔も可愛らしかった。その表情を堪能しつつ、じっと待つ。
「仲が、よろしい、ですよね」
「……そう思う?」
「はい。何て言うか……ちょっとしたことなんですけれど。とっても、お互いのことを知っているっていうか……」
「ああ。元々彼らは一緒に暮らしていたことがあるらしいからね」
「……あ、そうなんですか」
「それで?」
「……?」
「他には?」
「……うーん……。息がぴったりって、いうか……」
「いうか?」
「ツーカー、ですよね?」
「ツーカー? なんだい、それ」
「あ、これは日本語なのかな。ええとですね、ツーといったら、カーっていうか」
「……謎が深まるばかりだよフロイライン」
「ああっ。ちょっと待って下さい……ええとですね、まるでコンビを組んでるみたい息がぴったりです。何も言わなくても、相手が何をしているのか、何をしたいのか。テレパシーで全部分かっちゃってるっていう!」
 一生懸命、伝えたいジェスチャアにほほえましさを感じつつ。僕は頷く。
「そうだね、クルミ。テレパシーはいい表現かもしれない」
「あ、よかったv」
「大したことない事だけれど、だからこそだとも言えるよね?」
「そうですねぇ……あれは、凄いなあって思います。だって、洗濯物のときなんか……」
 男性陣のみだが、洗面所にある洗濯籠に洗濯物を放りいれれば、当番が洗濯したり干したりしてくれることになっている。僕は下着類は自分で管理しているけれど、タオルや靴下などはそこに入れるのが習慣だ。効率がいいから。
 さて、その当番は一人ずつなのだが。何故かケンとアヤだけは、互いの当番の時に手伝い合っている。まあ、それはそれで構わないのだが。洗濯を干す際……彼らは、互いに一言も話さないのだ。ケンがぽんぽんと洗濯物を投げて、ケンには背中を向けたまま物干し竿に向かうアヤがそれを受け取る。そのタイミングがぴったり。落とした所を見たことがない。
 コンビネーションも抜群で、戦闘の時も一瞬の隙もなく二人で片づけることが多い。
「ケンさんが何かを落としそうな時は、大抵アヤさんがそっと側によって助けてしまいますものね」
「逆に、ケンはアヤの怪我に敏感だったりするな。一度彼が自分でも気づかなかった傷を、ケンが当ててしまったりね……――――まるで恋人同士だ」
 吐き捨てるように言った自分に、僕は呆然とした。驚愕したと言っても言い。
「……クロエさん?」
 心配そうに、僕を見つめるフロイライン。
 唐突に、どうして僕が食事の時にあんな態度をとってしまうのか。分かったような気がした。今自分が言った言葉に。衝撃は未だ去らず、動揺したままなのだが。
「……うーん……不味いよフロイライン」
「え?」
「どうやら僕は、彼らの仲に嫉妬しているようだよ」
「……しっと?」
「つまりね、僕らはチームなわけだ。そこでね、いくらよしみとはいえ二人だけで世界終わらせないで欲しいんだな。彼らにそのつもりはないにしてもね。もっとこちらになついて欲しいというか……」
 がしがし、と。思考が纏まらないことに苛ついて、髪をかき回す。しっかりと朝に決めた形が崩れてしまうが仕方ない。
 僕は無意識に、ケンに甘えていたようなのだ。それを認めるのは、とてつもなく勇気がいることなのだけれど。
「……それは……」
「そりゃあね、ケンだって一度『いい加減にしろ』と、いいかけた時があるんだよ」
 クルミは黙ってこくり、と頷いた。話を促しているのだ。ほっとして言葉を続ける。
「そこでね、アヤがこう言ったんだ。『……アレルギーなのか?』ってね」
「……アレルギーなんですか?」
「いいや。だけど、僕はイエス以外答えられなくてね。……ケンに『それじゃしょうがねえな』って言われてお終いだよ。それから今日のように、何度我が儘を言っても返ってくるのは笑顔だ」
「……笑顔じゃ、嫌なんですか?」
「……クルミには分からないかな。日本人の笑顔はね、元々話を円滑にしよう、あたりさわりのないようにしよう。そういう主旨から発するものらしいけど。僕たち欧米人にしてみれば、あんな笑顔は手ひどい仕打ちだよ。はっきりとした拒絶より、傷つく」
「……そう、なんですか?」
「嫌なら嫌だと。言ってくれればいいんだ……ケンは僕の召使いじゃない。あんなに献身的に献立を作る必要などないだろう? 彼は、一言僕に言えばいいんだ。『週に一回くらい、自分の食事は自分で作れ』ってね!」
「……それって……つまり、ケンさんに頼って欲しいってことですか?」
「………」
 押し黙った僕に、クルミはあっと声をあげた。
「違いますね。意見してほしいんですね? もしもアヤさんがクロエさんのように、我が儘をしたら。ケンさんはきっと『自分で作れ』って一度は言う。つまり、一人の人間として対応して欲しいって?」
「その通り。……クルミは頭がいいね」
「いいえ」
 ふわりと笑って、彼女はふるふると頭をふった。
「……ケンはね、無意識かもしれないが僕を『外国人』だと思っているんだな。ユキは日本人、クルミも日本人。ミッシェルも『外国人』だが、彼とは既に対等のコミュニケーションが築き上げられつつある。フリーなどとは、アヤをのぞいてユキと同じくらいに心を開いたかもね」
「そうかぁ……」
「そうなんだな。僕はそれが、面白くなかったんだ」
 いつのまに、ジャパニーズ・ニンジャのことなんて意識しだしたんだか。
 大体、男のことに関してこんなにいらだちにせよなんにせよ、意識したことは初めてだ。
「まずは、正直に今までのことを謝ってみたらどうですか?」
 フロイラインは、優しい笑顔を浮かべてそう言った。子供の悪戯を、笑って許すマリアの微笑みだ。
「……やっぱり、そう思うかい?」
「ええ。大丈夫、ケンさんは根に持ったりするような人じゃないです」
「…………」
 バツが悪い。と頭をかく以外に僕に何が出来たというんだろう?

「どうしたんだ? 二人してこんなところで。話すなら中に入れよ?」

 と、噂の主である、ケン・ヒダカの登場だ。
 今日は大きなアニマルプリントのTシャツを着ている。ぽかん、としながら、僕たち二人を交互に見つめていた。ミスマッチなゴーグルを額にひっさげて。
「……クロエさん」
 ほら、頑張って。そんな風に、彼女が僕の服の袖をつんつんと引っ張った。僕は、彼女に苦笑を向けるしかない。
(今すぐここで、罪の告白をしなさい……ってことかい)
 可愛いフロイラインの助力もあるこの場でいえなかったら、僕はたぶん一生言わないだろう。無用な、忌々しい───この血筋に蔓延ったプライドの所為で。
 こほん、と一つ咳をして、僕はケンの前に立つ。きょとん、とした目は輝く黒曜石のようで、一瞬時を忘れて覗き込んでしまう。
(いかんいかん。顔にだまされるな)
 性格はいたって乱暴なのだ、このニンジャは。
 考えるのは面倒だといって、まっさきに突っ込むし。情緒なんてものは全然気にかけないし。
(なんたって男だし!)
 悶々と考えているうちに、どうして自分がこんな感情を抱いていなければならないのだ、という反発心が生まれ始めつつあった。
「おい、クロエ? 何かあんなら早く言えよ?」
「───ニンジャ」
「あ?」
「正直に言おう、君にいくつか食べられないと自己申告した品目のうち、何品かは嘘だ」
「ああ、うん。知ってたぞ」
「すまないと思ってるよ、君に意地悪をするつもりじゃなかったんだ」
「ん。ま、性格の所為だろ」
「ただ君を少し困らせたいというか、いじけてほしいというか───ん?」
「く、クロエさん……」
「───ちょっと待ちたまえ。今なんと?」
 自分が必死に言葉を紡いでいる間、彼はなんと言った?
 おろおろしたような、フロイラインの表情も気になる。
「ん? 何が?」
「君は今なんといった? 僕が言った後だ」
「……私の気のせいじゃなければ、ケンさん……クロエさんの嘘に気づいてたって……」
「ああ。言ったけど」
 それがなんだよ?と。彼は指を組んで後頭部を支える仕草をする。ぱたぱたとスリッパの音。僕はぼうっとしていた。かなり長い間。
「なんだって!?」
「……ちょ、大きい声だすなよ」
「君は! 僕が嘘をついていると知っていて! わざと何も言わなかったっていうのか!?」
「ああ。……そんな驚くことかあ?」
「何故怒らない!? いつもの瞬間湯沸かし器みたいな君なら、我慢できずに怒鳴るだろう!」
「───だってよう」
 言い訳などしない(できない)ケンが、珍しく口ごもった。言いづらそうに、視線を逸らして床を見つめている。
「……ージみたいなことすっからさ」
「え?」
「何でもねぇよ。気にすんな。……ただ、そういう我侭言われんのも、結構楽しいから。気にすんなよ」
「───」
 その瞬間の。ケンの笑顔は、初めてみるものだった。痛い何かを、無理矢理飲み込んだような。
「うちのガキどもさー全然可愛くねぇんだもん。や、可愛いけどさ、こう……聞き分けいいし。クロエみたいに、ちょっとくらいあーしてこーして言ってもいいのになー」
 呟きつつ、彼はエプロンを放り投げ(それはもちろん、廊下際のバスケットに入る)て、外へと出て行った。ばたん、と。彼の背中の余韻につられるように、扉が閉まる。僕もフロイラインも、ケンの背中を見つめるだけしかできなかった。何を言っていいのか、分からなくなったのだ───互いに。
「……つまり」
 なんだ?
 僕は心の中で、呟いた───なんだ? 今のケンの表情は?
 僕たちは闇に生きる者だ。それは知ってる。ケンも、かつては日本でミッションをこなしていただろうから、そうだ。もう、きちんとしたプロだ。プロは、あんな顔をしない。
 不意に柔らかい肉を、鋭い爪で抉りとられたような。
 そんな、唐突に襲った痛み。自分でも自覚できずに、自分でも自分を守れずに負った傷に顔をしかめたように見えた。
「つまりこれは、僕はこのままでもいいってことなのかな。フロイライン?」
 唇を動かしたつもりだった。だが、たぶん僕の目は笑っていないだろう。
 なんとなく分かった。そしてそれはたぶん的を得ている。
 ケン・ヒダカは、誰かを僕に重ねたのだ。ほんの一瞬。いや、時折───僕が我侭を言うたび毎日。
(───……っ!)
 殺意にも似た。恍惚感にも似た。何もかもが混ざり合った複雑な感情が、僕の背中を走りぬける。神の祝福を受けたものや、誰かが一生に一度味わうといった天啓。こういう言葉で表してもいい。まさに、それくらいのインパクトはあった。自分の内から沸き起こる感情なのに、まったく知らなかった高揚感。
 セーブが利かない。
「……く、クロエさん……」
 気遣わしげなクルミの声に、僕はやんわりと微笑んだ。そして口を開きかけたとき、ぱたぱたと上から足音がする。ちっ、忌々しいと僕は気づかれないよう舌うちした。アヤだ───普段なら足音など立てまいに───殊更主張するような演出などするな、と言いたい。
「なんだ、ケンに叱られたか?」
 ふ、と。何でもお見通しだといわんばかりに。まったく、と僕は睨む。
「何故僕がニンジャに叱られる? そんなことをした覚えはない」
「クロエさん……っ」
 咎めるようなフロイラインの声が、ほんの少し胸に痛かったけれど。目の前の男に醜態を晒すのは僕の矜持が許さない。取り繕っていようが、そう言うほかなかった。
 くすり、とアヤは最後の階段をおり、僕のほうを肩越しに振り返りながら笑んだ。
「いまどき、好きだからって苛める遣り方ははやらんぞ」
「何のことかな」
「───自覚していても、無自覚でも始末が悪い」
「……」
 僕が嫣然と微笑む以外、何を選択できた?
 僕の行動か、コメントか───そのどちらもだろうが、気に食わなかったのだろうアヤはため息をつき背中を向ける。出かけてくる、と言って玄関の扉を開けた。ちょうど太陽の光が、僕たちまで差し込んできて眩しい。
「ケンはひまわりが好きだ」
「え?」
「だが、花屋にひまわりなどあまり取り寄せられんし。やるとすれば似た橙の花を集めるしかなかろうな」
「……?」
「理由は聞くな。ただ、そうしてやれ」
 何故僕が、と言い掛けて。開かれた唇は再び閉じた。君に命令される筋合いはないよ、と。心の中で言葉を変えては繰り返し。
「俺たちがこの家で暮らしはじめてから、ちょうど今日で一ヶ月だ。───たぶん、ケンはパーティの用意をする気だろう」
 静かな語り口調で。独り言のようにそう呟くと。彼はぱたんと扉を閉じて向こう側に消えた。残された僕たちは、無言で向かい合う。
「……アヤさん、きっとケンさんの買い出しにお手伝いに行ったんですね」
「……そうだろうね」
「一ヶ月かあ。……そうか……もうそんなに経つんですね」
「……何とかなるものだね。最初は戸惑ったけど」
「ええ。……クロエさん」
「なんだい?」
「橙のお花、集めてきましょうか」
「え?」
 にこり、と。彼女が笑う。
「ケンさん、きっと自分だけ一ヶ月記念に気づいてると思ってますよ? 私たちもちゃんと気づいてるんだって。楽しかったんだって。表さなくちゃ。それにきっと、驚いてくれますよ」
 くすくすと笑い、彼女は準備をすべく店へと向かう。今は、ちょうどユキとミッシェルが店番をしている。
「驚いて、そしてきっと喜んでくれますよ。ケンさん」
「───男を喜ばせても、面白くないよフロイライン? 美しい君ならともかく」
 ぱちん、と軽く握った手のひらから薔薇を出すと、そっと彼女に差し出した。彼女はきょとんとしていたけれど、すぐに微笑んで受け取ってくれる。
「ケンさんにも、あげればいいのに」
「……それは社会的に見ても、景観的にも目の毒なんだよクルミ」
「気にしない気にしない。私、見てみたいです」
「……何をだい」
「うれしそうなケンさんに、素直なクロエさん」
「───これはまいったな」
 彼女にそういわれては、やるしかないではないか。
 否、彼女もそれを自覚していて、告げてくれたのかもしれないが。
(情けない……僕はまったくね)
 自分は大人だと思っていたが、最近はいきがっているただの子供だったんじゃないかと疑い始めている。
 難しいものだ。
「手始めに何から集めようかね……?」
「そうですねぇ……今日入荷するのはガザニアで……カラーもありますし」
「ふむ……」
 ああ!っと突然叫んで僕を振り返った。ほとんど店への扉の前だったので、びっくりしたらしいフリーがこちらを向いている。
「橙の薔薇! 橙の薔薇だけは手渡してください!」
 可愛らしく、頬を染めて僕ににじり寄る。……これが愛の告白じゃないってのが、虚しい限りだ。いい子だな、と思う。クルミは。僕とケン・ヒダカの関係を良好にしたいんだろう。だが、それって少し間違った構図じゃあなかろうか。
「最近、私やっと花言葉が覚えられてきたんです」
「……お勧めに従おう」
「はいっ!」
 フリーになんでもないよ、と目でいいつつ。肩をすくめて店へ行く。───部屋じゅうを橙に染める祝祭を始めよう?


オレンジの薔薇の花言葉は、「信頼」と「つながり」だしね?





2004/06/04 かなり改訂した……真皓拝

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