「暑さ」
夏の日の午後。蒸し暑さを含んだ空気は、少しの風さえも起そうとせず、じっと立ちどま
ったままだった。物かげの犬は、だらしなく寝ころんだまま動こうともせず、街角にある大
きなキリの木も、一枚の葉さえゆらさなかった。
そして、その木の下にある交番のなかでも、巡査が小さな机にむかったまま、なにか書類
に目をやっていたが、この暑さはその内容を彼の頭には入れさせはしない。
どこからともなく、おとなしそうな若い男が現れ、交番の前に立った。暑い空気がうみ
出したようにも見えた。その男は交番のなかにむかって、声をかけた。
「あのう、わたしをつかまえていただくわけには、いかないものでしょうか」
巡査は、ゆっくりとふりむいた。
「え、なんですって。まあ、その椅子にかけて話したまえ」
と、そばの古ぼけた椅子を指さした。
「はあ、わたしの話を聞いていただけましょうか。そして、わたしをつかまえていただけ
ませんか」
「ははあ、自首ですか。お話によっては、本署に来ていただくことにもなるでしょう。とこ
ろで、なにをなさったのです」
と、巡査は少し身構えるような姿勢になった。
「いえ、まだ、なにもしておりません」
「では、だれかをおどすようにたのまれたとか、傷つけるようひとにたのんだとでも」
「いえ、わたしの言いたいのは、そんなことではありません。いまにも、自分がなにかをし
そうなのです」
巡査は汗をふき、首をかしげ、それから目と口もとに独特な笑いを浮かべた。
「ああ、そうですか。こう暑くては無理もありません。自分が、なにかとんでもないことを
はじめそうに感じるのでしょう。時どき、そんな訴えがありますが、その心配はありません
よ。帰って昼寝でもなさればなおりましょう。それに、われわれとしては事件が起こらないう
ちは、どうしようもないのです。いかに、殺してやる、と叫んでいる者があっても、その動
きがないうちは逮捕しようがありません」
若い男は、汗をふこうともせず、こうぽつりと言った。
「ちょうど一年前の、こんな暑い日。わたしは殺したんです・・・・・」
巡査はこれを聞いて緊張した。
「え。なぜ、それを早く言わない。だれを殺したんだ」
「サルです。わたしの飼っていたサルを」
と、男が答え、巡査は緊張をといた。
「きみ、自分の飼っていたサルを殺したって、別に自首するには及ばないんだよ。しかも、
一年前の話を、なんで今ごろ持ちこむんだね。そういう訴えなら、この先の右側に神経科の
病院があるから、そっちへいってもらいたいね」
「わたしの頭がおかしい、とお考えなのでしょうね。だが、いままでに何回か診察してもら
いました。そして、少しもおかしいところはないと言われているのです」
「なにも事件を起さず、頭もおかしくない。そんな人を逮捕することは、できないのですよ。
なにも憲法や法律を持ち出さなくても、常識でわかることでしょう」
「それは知っています。だけど、わたしの話をひと通り聞いていただけましょうか」
「いまは忙しいわけでもないから、話して気が晴れるなら、そこで話してもいい。しかし、
話は簡単にして、二度と来ないでほしいものだね」
「ありがとうございます。わたしは子供のころから暑いのはいやなんです。暑いと頭がぼん
やりして、それでいて、とてもいらいらしてくるのです」
「だれでもそうだろう。暑さで頭がさえてくる者など聞いたことがない」
「わたしの場合は、特にそれがひどいようです。なにかをしなければならない、という衝動
が強くなり、それを無理に押さえようとすると、頭が狂いそうになるのです」
「だれでもそうだろう。そこで、スポーツや読書など、自分に適当なものに、はけ口を見つ
けるわけだよ」
「わたしも、そのはけ口を持っています。そのはけ口があるから頭を狂わないですんでい
るのです」
「それなら、いいじゃないか。なにも、交番にまで来て大さわぎしなくても。さあ・・・・・」
と巡査は手を振ったが、男は。
「もう少しですから。まあ聞くだけ・・・・」
と、すがるように言って、話をつづけた。
「・・・・・子供のころ、そのはけ口を見つけだした時のことです。高まる暑さにどうしようもな
かった時、ふと畳の上をはっているアリをみつけ、つぶしてみたのです。すると、それまで
のいらいらがうそのように消えて、その夏はそれからすがすがしい気分ですごせました」
「いい趣味じゃないか。ひとに迷惑がかかるわけでも・・・・・」
巡査の語尾は、あくびとまざった。
「つぎの年、やはり夏の暑さが高まってきて、いらいらが強くなりました。そこで、前の年
のことを思い出し、アリをつぶしてみたのです」
「ふうん」
「だが、だめでした。困った、どうしたらいいか。じりじりした絶頂で、その解決が偶然に
見つかりました。なんだったと思います」
「ふうん」
巡査は目を閉じて、返事にならないあいづちをつづけたが、男はおかまいなしに話をつづ
けた。
「カナブンをつぶしたのです。その夏は、それからずっとすがすがしい気分でした。そし
て、その次の夜。少しこつがわかってきたので、近所の子からカブトムシをもらい、それを
つぶすことによって、いらいらを押えることができました」
「ふうん」
「こうして、わたしの頭は狂うことがなく、いまにいたっているです。おととしの夏は犬
を殺しました。そのころになると、すっかりなれてきて、つぎの年の準備をすぐにはじめる
ようになっていました。秋になると、さっそくサルを飼ったのです。サルも飼ってみると、
案外かわいいものですよ」
「ふうん」
と、目をつぶった巡査は椅子にかけたまま、上半身ぜんたいで、うなずいた。
「とても殺す気にはなるまいと思いました。だが、昨年も暑さが高まるにつれ、いらいらを
押えることはできませんでした。わたしは、サルをしめ殺してしまったんです」
男の声は大きくなり、巡査は目を開いて、あわてて汗をなぐった。
「え、サルを殺した話は、さっき聞いたことじゃないか」
「わたしを逮捕して下さい」
「そう無理を言っては困る。さっき言ったように、きみは、なにも事件をおこしていない。
それに昆虫採集のようなことにはけ口を見つけて、頭も狂わず、正常だ。そんな人を。逮
捕したり、収容したりすることはできないよ」
「そうですか。では、仕方ない帰りましょう。おじゃましました」
「ああ、そうしなさい。ゆっくり昼寝でもするんだね。夜になるとむし暑くなって、寝られ
ないから」
「そうですね」
と、立ちあがった男に、巡査はなにげなく聞いた。
「家族はあるんだろう」
「ええ、昨年の秋に結婚して・・・・・・」
戻る TOPへ