[2002.08.20] 処女神とメドゥーサの首
[2002.08.11] 新○文庫の3冊
[2002.08.04] とりあえず、東浩紀に萌えてみる。
[2002.08.01] 「好きにもランクがあるんですよ」
今、谷川渥の「鏡と皮膚」を少しづつ読み進めているところなのですが、そのなかに、かなり興味深い記述があったので、ここに取り上げようと思います。
それは、ギリシア神話のメドゥーサに関する物語なのですが、とりあえず本文から引用します。
オウィディウスによれば、メドゥーサは、もともとたぐいないほどの美貌の持ち主であり、なかでもその髪の美しさは際立っていた。あるとき彼女は、ミネルヴァ(アテナ)の神殿でネプトゥヌス(ポセイドン)に手ごめにされた。それを目撃したミネルヴァは、顔をそむけ、その清浄な眼を楯でおおった。そして女神は、神聖な場所を血で汚したメドゥーサのその美しい髪を蛇に変えた。
「神聖な場所を血で汚した」ということですから、メドゥーサは処女だったと解釈するのが妥当かと思われます。
手ごめにされて処女を失った、云うなれば「被害者」のメドゥーサが怪物に変えられてしまうのは不合理ですが、その当然の疑問については次のような説明がなされます。
アテナ(=ミネルヴァ)は、知性の神であると同時に戦いの神として、つねに男性のように武装した姿で登場する。この処女神は、みずからの女性性を拒否し、あるいは排除して、その恐るべき青い眼で真直ぐに対象を見る。(中略)その彼女が、最も見たくないものを見た。排除したはずの女性性、あのおぞましい「自然」を。はじめて彼女は眼差しをそらす。
要は、女性性を拒否した処女神の目の前で、「女性であること」のおぞましさを見せたために、メドゥーサは怪物にされたのです。
本文中には触れられておりませんが、女神アテナは、「ゼウスの娘で、すっかり成人して鎧かぶとをつけた姿で彼の頭からとび出してきた」(山室静「ギリシャ神話<付・北欧神話>」から引用)と云われておりますから、その誕生からしてすでに女性性を排除された存在であったと云えます。
さて。「メドゥーサの首」と云えば、ペルセウスとアンドロメダの物語でおなじみですが、その首が最終的にどうなったかはご存知でしょうか。
メドゥーサの首は、最終的に女神アテナが自分のものにしてしまって、楯の中央に嵌め込んだんです。
……これ、どう解釈したらいいんでしょうかね。
女性性を拒否した処女神が、「女性であること」のおぞましさの象徴のような怪物を、かなりまわりくどい方法で、最終的に自分のものにしてしまう。
自分の身は汚さないままで。
何故、こんなまわりくどい方法を取ってしまうのでしょう。
女性にとって、処女性とか、性交の有無とか、そういう問題はかなり大きな問題だと思います。
ゴスロリが気になり始め、某ゴスロリ系ファッション誌の精神的支柱と化していた嶽本野ばらの小説を立ち読みしてたら、「そういう部分」の扱いが絶妙で(女性性の拒絶が印象的な長野まゆみとは好対照)。その流れで、吉田秋生の「吉祥天女」や「BANANA FISH」も……と思っていた矢先に、「メドゥーサの首」で決定打。
人は(「乙女は」と言い換えたほうが正確でしょうか)、もしかしたらかなり昔から何も変わっていないんじゃないか、と思ってしまった今日でした。
この話(「やおい論」と云うよりは「乙女論」な気もしますが)、しばらく続きます。
毎年、この時期になると、各社揃い踏みで「夏の文庫本フェア」を行います。
おそらく、子どもの夏休みの読書感想文を当て込んだ商売と思われますが、子どもの読書離れが著しい昨今、その実態はなかなか苦しいものがあるようです。
例えば、ブック・フェアとともに書店で無料配布される小冊子。
角川文庫の場合、1996年版は表紙に江角マキコ。鈴木光司と中島らもとわかぎえふがエッセイを書いていて、「私が影響を受けた一冊」というコラムの執筆者が、河村隆一、大槻ケンヂ、林原めぐみ、永作博美、矢口史靖、ダンカンと、豪華なんだか微妙なんだか解らないメンツ。
もちろん、「角川文庫の名作100」のラインナップ自体はごくごく正統派なものですし、何人かの人気作家をピックアップした特集も読み応えがあります(今の感覚で見ると、そのなかに渡辺淳一氏が選ばれていることに若干の違和感を覚えますが)。
それが、2001年版の「角川文庫 夏のリラックス120」となると、名作路線はどこへやら、妙に時勢に媚びたラインナップとなります。「ロング バケーション」や「スワロウテイル」などのノベライズものも入ってますし、西原理恵子「サイバラ式」やナンシー関「何様のつもり」なども。海外ものが妙にオカルトづいているのも気になります。
また、エッセイの執筆者がカトリーヌあやこと瀬名秀明のふたりに減った代わりに、「チョックラ・ド・フローネ」とかいう妙なキャラクターを全面に押し出しています。
この「チョックラ・ド・フローネ」、今年の「角川書店:2002夏のリラックス」でもメインを張っています。まだ今年の小冊子は手に入れていませんが、サイト上のラインナップを見る限り、去年と選択基準はあまり変わっていないようです。
……新刊のなかに「ガラスのメロディ」が入ってる……(逃走)。
さて。長い前置きでしたが、やっと本題に入ります。
新潮文庫は、今年も「新潮文庫の100冊」フェアをやっています。
こちらも、以前はかなり豪華な執筆群で、エッセイなんぞを載せていた記憶があるのですが(岡崎京子が書いていたのを読んだ覚えがあります)、ある時期から、「2冊読んだら、必ずもらえる! Yonda?携帯ストラッププレゼント」などと物量作戦に走っています。
それはさておき。先日、この小冊子の2002年版を貰いまして、それを読むでもなくパラパラとめくっておりましたところ、こんな文章が飛び込んできました。
鎌倉の海岸で、学生だった私は一人の男性と出会った。不思議な魅力を持つその人は、"先生"と呼んで慕う私になかなか心を開いてくれず、謎のような言葉で惑わせる。
これは萌えです。謎のような言葉で 学生の"私"を 惑わせる、おそらくは"私"よりも年上の男性。慕う私になかなか心を開いてくれないその人には、どうしても心を開けない理由があるのかも知れません。例えば、"私"に対する秘めた思い。判じ物のような言葉をかろうじて"私"に投げかける、それだけが意思表示で、それ以上のことは怖くてできない、臆病な――。
思いっきり暴走してしまいましたが。この文章、続きはこんな感じです。
やがてある日、私のもとに分厚い手紙が届いたとき、先生はもはやこの世の人ではなかった。遺された手紙から明らかになる先生の人生の悲劇――それは親友とともに一人の女性に恋をしたときから始まったのだった。
ちなみに、この文章は夏目漱石「こころ」の紹介文だったりします。
「こころ」は、実は(読んだことはないんですが)槙原敬之の「彼女の恋人」並みのレトリックを駆使した小説らしいです。つまり、先生は、親友のことが好きだったんです。この辺のことは、橋本治「蓮と刀」(現在入手困難)に詳しいので、図書館で借りるか古本屋を漁るかして読んでみてください。
他にも萌える紹介文がないか、探してみました(妄想801ニュースの要領です)。
例えば、これ。
廃航せまる青函連絡船の客室係を辞め、函館で刑務所看守の職を得た私の前に、あいつは現れた。少年の日、優等生の仮面の下で、残酷に私を苦しめ続けたあいつが。
この"私"は"あいつ"に何をされたんでしょう? 毎日、放課後には裏の体育用具室に呼び出されて(略)。
(私を苦しめたあいつが)傷害罪で銀行員の将来を棒にふった受刑者となって。そして今、監視する私と監視されるあいつは、船舶訓練の実習に出るところだ。光を食べて黒々とうねる、生命体のような海へ……。
形勢逆転。今度は看守の"私"が権力を笠に"あいつ"を毎晩(略)。
この小説、シチュエーションが妙に古臭い気がするんですが……。辻仁成「海峡の光」の紹介文でした。
最後はこれです。
インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗合いバスで行く――。ある日そう思い立った26歳の<私>は、仕事をすべて投げ出して旅に出た。途中立ち寄った香港では、街の熱気に酔い痴れて、思わぬ長居をしてしまう。マカオでは「大小(タイスウ)」というサイコロ賭博に魅せられ、あわや……。
あわや……。身ぐるみ剥がされてもまだ払いきれないほどの借金をつくってしまい、「身体で払ってもらおうか」と、マカオの人身売買シンジケートに売り飛ばされ(以下略)。
これは、沢木耕太郎「深夜特急」の紹介文なんですが、よく考えるとヒッチハイカーって萌えですね。
というわけで、元手タダで遊んでみました。
腐女子って、ものすごく安上がりな人種なのかも知れません。
追記(2002年8月13日):
今日、某書店で「角川文庫 2002 夏のリラックス」の小冊子を手に入れました。
……単なるキャラクター・シールブックと化してました。
不景気が憎いです。
これは、8月1日のテキスト「好きにもランクがあるんですよ」の続きです。
「動物化するポストモダン」を読み返しましたが、この本、「キャラ萌え」や「萌え要素」に関する記述があまりにあまりです。
ちょっと本文から引用してみます。
『デ・ジ・キャラット』でもうひとつ興味深いのは、前述した物語やメッセージの不在を補うかのように、そこでキャラ萌えを触発する技法が過剰に発達している点である。(中略)でじこのデザインは、デザイナーの作家性を排するかのように、近年のオタク系文化で有力な要素をサンプリングし、組み合わせることで作られている。(中略)
これらの要素が、それぞれ特定の起源と背景をもち、消費者の関心を触発するため独特の発展を遂げたジャンル的な存在であることには注意してほしい。(中略)消費者の萌えを効率よく刺激するために発達したこれらの記号を、本書では、以下「萌え要素」と呼ぶことにしよう。(中略)
かつては作品の背後に物語があった。しかしその重要性が低下するとともに、オタク系文化ではキャラクターの重要性が増し、さらに今度はそのキャラクターを生み出す「萌え要素」のデータベースが整備されるようになった。この10年間のオタク系文化はそのような大きな流れのなかにあったが、90年代末に現れた『デ・ジ・キャラット』は、まさにその流れが行き着くところまで行った地点に現れている。(以下略)
「動物化するポストモダン」p.65〜p.70のなかから抜粋
引用からは洩れましたが、この文脈でオタク系検索エンジン「TINAMI」について触れています。ですが、普通に作品名や人名で検索できる検索エンジンに向かって、あたかも萌え要素に特化しているかのように語るのは、JAROあたりに訴えられかねない行為だと思うのですが。
(極端な話、同盟ものの検索サイトや、WebRing Japanで「猫耳」を検索しても、それなりの検索結果は得られると思います。)
話がずれました。東浩紀がヘタレだから(汗)。この引用部分の書き方だと、オタクという人種は、まるで特定の部位に電流を流せば射精するとか、そういった感じでしか「萌え」を消費していないみたいじゃないですか(すいません下品で)。
オタクに限らず、一般的に男性の「萌え」は属性萌えになりやすいです。AVや官能小説の分野でも、「巨乳」とか、「人妻」とか、「女教師」とか、「義理の母親」とか、やたら属性萌えに突っ走ってますよね。
それがオタクの場合になると、「猫耳」とか、「メイド」とか、「めがねッ娘」あたりが幅を利かせる。それだけの違いじゃないかと。
ですから、「萌え要素のデータベース消費」を軸に、「オタクの消費活動が動物化している」と論じるのはちょっと無理があるのではないか、と思います。
「動物化するポストモダン」に関してはこれくらいにしておいて。今回の本題はそれとは別のところにあります。
先日、角川から大塚英志・東浩紀共同編集の「新現実 vol.1」とかいうシロモノが発売されました。私はこの雑誌、まだ本屋で見かけてすらいないんですが、「見下げ果てた日々の企て」の8月3日の日記を読む限り、褒められたシロモノではないということだけは確かですね。
ちなみに、この雑誌のことを初めて知ったのは大塚英志の「人身御供論」の巻末の広告でですが、あれを見て、私、「なんだ。大塚英志と東浩紀、つるんでるんだ」とまず真っ先に思いまして。
「許月珍や三木・モトユキ・エリクソンは大塚英志と同一人物ではないか」(←「郵便的不安たち#」にこんな感じの記述がある)とか、もし違ってたら名誉毀損紙一重な発言をしているのも、大塚氏に対する「かまってかまって♥」宣言だったのかも、とか、だんだんと腐女子的な思考になって参りまして。今や、私のなかでは東浩紀は総天然色無自覚受と化しております(苦笑)。
というわけで、一旦「萌え」てしまうと、この東浩紀の凄まじいまでのヘタレっぷりは、TBSの「地雷ZEROキャンペーン」でこともあろうに「ARMY」のロゴ入りTシャツを着て歌入れしたGLAYのヴォーカル並みの「天然」の証明となり、見事な「萌え要素」のひとつとなってしまうのでした。
……この論法で行くと、「オタクから遠く離れてリターンズ」のこのコンビは百合ですね。転叫院さん(或いはY氏)も受け受けしいし。三姉妹ですか。
とにかく、しばらくは東浩紀とその周辺から目が離せない管理人でした。
おまけ:「一目で解る狭い人間関係(微笑)」(ネタ元:見下げ果てた日々の企て)
……ひたすら内弁慶な東たん萌え。
始めに。
この先の文章を読む前に、こちらの「小川びいと東浩紀との往復メール」を読んでいただけると幸いです。
読みましたね? では、始めます。
この往復メールで何が問題になっているかというと、「美少女戦士セーラームーン」という作品の立ち位置についてです。東氏は「SPA!」誌上にて
日本アニメは(略)宮崎、押井、大友らのメジャー路線プラス、『ドラゴンボール』『美少女戦士セーラームーン』などの子供向けメガヒット路線と、(略)オタク路線に分化していった。
と発言、また、同時に掲載された年表でも【子供向け】に分類されていたようです。
これに対して、ライターの小川びい氏が「セーラームーンを【子供向け】に分類するのは、この作品の文脈を考えると片手落ちではないか」(←要約)と反論。
東氏は「どうしてこの文章がそれほど非難に価するのか分からない」とどうやら最後まで何が問題になっていたのかわからなかったようで、この往復メールは「同人誌生活文化総合研究所」にてめでたく公開と相成りました。
……いえ、読み返してたら、どうやら本当に東氏は何もわかっていないようで、それでよくヲタク論なんぞ書いてるよなー、と素直に感心してしまったのですが。
まあいいや。気を取り直して、「何が問題なのか」を整理していきましょう。
まずは、「美少女戦士セーラームーン」の分類についてですが、あてはまる固有名詞を「赤ずきんチャチャ」や「おジャ魔女どれみ」に変えてみるとよくわかると思います。
掲載誌は「りぼん」や「なかよし」といったメジャー少女まんが誌で、当然、子どもの鑑賞に堪えうるようになってはいるけれど、その実萌え要素てんこもり。そんな作品群を「子供向けメガヒット路線」のひとことで括られるのは、ヲタク的に不本意でしょう。
しかも、そういう文脈をわかっていない人がアカデミックな立場でヲタクを論じている。なかなかすさまじいものがあると云えます。
(これが「ヲタク研究」でなくて、例えば「渋谷系音楽」とか「クラブミュージックの現在」とかだったら、おそらく一笑に付されて省みられなくなるだけだと思います。)
これを書くにあたって、「動物化するポストモダン」をちょっと読み返してみたのですが、……これ、文脈ムチャクチャですね。
「メガゾーン23」や「セイバーマリオネットJ」といった、「これは本当にヲタクを語るうえで重要な作品か?」と疑問符がつく作品をダシに語られる前半部と、「でじこ」やギャルゲーがメインの後半部とでは、ヲタク文脈への寄り添い度合いが全然違います。
ヘンな話、前半部は「リアルタイムで見てたのかなー」と思わせる、妙な現役感が漂います。漂ってりゃいいってもんじゃないですが。
全体的には、クイックジャパンでかつて連載されていた「マリスミゼル全肯定」並みのシロモノなんですけどね。あれには参った。
東氏自身は、おそらく、アニメとか漫画とか、ヲタク文化に属するものが好きなんだろうなと思います。
ただ、「アニメや漫画が好き」=「ヲタク」ではないのです。それが問題なのです。
ヲタクがヲタクたる所以は、本人の気質にも関わりますし(「濃い」人は、どういった分野にのめり込んでも「濃く」なります。そういうもんです)、極端な話、文脈さえ押さえていれば作品じたいは見ていなくてもなんとかなるという(苦笑)、そういう世界でもあります。
ヘンな話、「文脈が命」なのです。文脈を押さえられないヲタクは単なる「薄いヲタク」でしかありません。
私が思うに、東氏は「薄いヲタク」なのではないかと。
と、東氏をダシにここまで書いてきましたが、そもそも、他のサブカル研究本に比べて、ことヲタク論ややおい論に関しては、かなり無茶苦茶なものが堂々と出版される現状そのものに問題があると云えます。
何故そんなものが出版されてしまうのかというと、「わからないから」でしょうね。書き手も出版社側も、おそらく本人たちが思っている以上に「薄い」ため、「濃い」人の目から見ると目もあてられない事態になっている。
かの「アニパロとヤオイ」を某誌で斎藤環が誉めてましたけど、これも斎藤環がやおいに明るくないために起こった喜劇でしょうね。
しかし、「大塚英志の『人身御供論』のほうが(そういう本ではないにも関わらず)『やおい論』として充分成立してるんじゃ……」といった事態はさすがにどうかと思います。
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