アリーナ君と魔法使い・第1章
 

◆◇ 6 ◇◆
 
 アリーナ君の日常は本当に忙しい。
 カリの身の回りの世話に食事のしたく、館の管理に薬草採集など、そして、それら全てが終わっても、最後に一つ、もっともアリーナ君を苛めるものが残っている。
 毎日夕食後の”特訓”とアリーナ君が呼んでいるものがそれである。
 もともと魔法の才能なんか1ミリグラムも持ち合わせていないアリーナ君をカリが徹底的にいたぶるのがその内容である。………カリに言わせれば、それが魔法の習得だ、と言うことらしいが。
 だが、しかしである。火を指先に点せと言われて、出来ないからって指先に本当に火をつけることはないじゃないか!!! その上、「この感覚です」とのお言葉である。この感覚って、熱いだけじゃんかと言うのがアリーナ君の率直な意見だ。
 そんな辛いことだらけの特訓の中で、アリーナ君が唯一才能を示した分野がある。
「………口の中も少し切れてますよ」
 カリはアリーナ君が一生懸命癒した口の端の内側を示して言った。
 そう、アリーナ君が唯一”得意”な魔法とは、癒し系の技であった。先ほどまでも、リファインの剣の余波で傷ついた―――って、薄皮一枚分切れただけのくせして、我慢もしないでアリーナ君に「痛いから直せ」と命じたカリの口の端の傷口を癒したばかりであった。それも、リファインの目の前で。
「………うぅ」
 アリーナ君は心底うんざりしてカリを見つめた。なんとなく憔悴しているのは、たかが一つ傷口を塞いだだけで魔力のほとんどない身ゆえ疲労困憊していたからであった。
「嫌なんですか? ……別にいいですけど、本当に嫌なんですか?」
 口の中を指したまま、邪悪に笑うのはカリである。
 本当は全然「別にいい」とは思っていないのは見え透いている笑顔だ。アリーナ君は観念したように嘆息をついた。
「………ええと、ご主人様………その、口、もうちょっと開いて―――」
「ハイ」
 楽しそうにカリは口を少し開いた。一瞬見え隠れした舌先の赤さがなんとも艶かしい。アリーナ君は頬を染めてそれを見つめた。躊躇を捨てて、おずおずと自身の舌を出した。そのままの体勢で、待ちうけるカリの口の中に、自分の舌を差し入れた。
(どこだ?)
 いっぱいになる頭のなかで、どうにか傷を見つけようと舌をうごめかせる。すると、意地が悪いことにカリが舌を絡ませてくるきた。
「うん………っ」
 吸われるようにされてアリーナ君の理性が揺らぐ。が、その舌先にわずかに血の味を感じた。
(あった………)
 アリーナ君は見つけた傷口を無心に舐め始めた。カリの口腔の壁にアリーナ君のつたない舌使いが這う。
 そう。アリーナ君の唯一の技”癒し”とは、アリーナ君がその傷口を直接舐めることで効力を発揮するというものであった。当然、それを彼に指南した相手とは――――かの極悪魔法使いに他ならないのである。

   ◇   ◆   ◇   ◆

 一部始終を見せ付けられたリファインは、ようやくことが終わったとき深い嘆息をついていた。それがはあはあ息をついているアリーナ君のためなのか、自身に思わしげな視線を送るカリへ向けたものなのか判断はつけづらかった。アリーナ君の肩を引き寄せて羽交い締めにしたカリが、「君には貸してやんないよ」と言うのには完全無視を決め込む。顔を伝う血はすでに拭っていたし、このぐらいの傷ならば耐えるというほどでもない。
「………それで、どうするつもりだ?」
 ごく冷静にカリに尋ねる。
「貴様が………抜き打ちテストだかなんだか知らぬが、やられたものを放っておく筈があるまい」
「イアンには関係ないでしょ〜」
 アリーナ君に頬ずりしながら言う。
「これはこのアリーナ君の失態だからね〜。ひいてはその保護者の私が尻拭いするだけですよ。義務ってやつです」
 勝手にしろとはアリーナ君の心の叫びだ。
 勝手に盗ませたくせにアリーナ君の失態にして、勝手に保護者になった上、勝手にその尻拭いは義務だなんて………もう、ほんとにほんとに勝手にしろ、だ! ………って、それは心の中で叫ぶだけで、実際のアリーナ君は為すがままにカリに頬ずりされているのだが。
「………と、いうわけで」
 カリは頬ずりをぴたりと止めてアリーナ君の耳元に唇を寄せた。それですぐ話せばよいのに、ふぅーと息を吹きかけるあたりがカリらしい。その刺激で体をいっぱいに固くするアリーナ君の反応が面白いのだろう。
「アリーナ君は出掛ける準備をしてくださいね」
 くすくすと語尾に笑いを滲ませながらアリーナ君に告げる。
 当然、盗まれた聖座の眼をそのままにしておく気などないカリである。こんなに余興を提供してくれるアイテムを手放すなんてもったいない。理由はそれだけに過ぎないのだが。
 カリはようやくにしてアリーナ君を解放してやった。しかし、きっちりと釘をさしておくことも忘れない。
「私だけではないよ、君も一緒に出掛けるのだからね。そのように準備するように」
 少しの間だけでも楽ができると―――鬼のいぬ間の休息を夢想していたアリーナ君は、夢破れ情けない顔になった。がぁああああんと頭の中で鐘でもなっていることだろう。肩を下げて館に向かってとぼとぼ歩き出した。準備しろといわれたからには、徹底的に準備しないとやっぱり雷が落ちてくるのだ。しかもいちいち好みにうるさいカリのための旅の準備は、相当面倒くさい。その上、当然のようにそれら全てはアリーナ君が背負わないといけないわけで、コンパクトにまとめつつ必要なものはすべて用意するというたいへんな命題を消化しないといけない。そしてたぶん、この様子では、猶予は今日いっぱい。明日には出発だろう。考えただけでぐったりなってしまう。はぁぁぁあ〜とアリーナ君はため息を漏らした。本当にいつか誰か、コイツをぶちのめしてほしい。
 その背を目で追いながら、口を開いたのはリファインだった。
「私も同行しよう」
 視線をカリに戻してしっかりとした口調で告げる。
「えええええ〜」
 カリはあからさまに嫌な顔をした。
「君なんか邪魔だよ。必要ない。私とアリーナ君で十分―――」
「目星は? 賊に心当たりはあるのか?」
「ないこともない」
「では、事は早い。そやつの根城を押さえるだけだ。だが、貴様がすると、事が大きくなりすぎるきらいがある。私が同行するに如くはないと思うが?」
 リファインが言いたいのは、自分がストッパーになってやろうとそう言うことであろう。確かに、強すぎるカリでは、少し力を振るっただけで周囲に甚大な被害が出てくるのだ。このユーティエならば結界が効いているためそれほどの被害は出ない。だが、外の世界では………
「貴様も、事を大きくしたくはないだろう?」
 世紀の魔法使いが、一番の宝を奪われたなんて、それが弟子の失態にしろなんにしろ、名に泥を塗る噂となるであろう。そんなものが広がっても良いのか、と。それよりも速やかに表立たないよう秘密裏に済ませたほうがいいとリファインは暗に告げたのだ。
 カリはその繊細な口元を覆った。
 そんな事は実はどうだって構わないのだ。口さがない連中には言わせておけば良い。目の前で言われたら、そいつを殺すまでだ。―――なにより彼がリファインの同行を嫌がるのは、ただ単純にアリーナ君との楽しいひとときを邪魔されたくないだけである。だが………。
 ふと、カリは笑顔をもらした。
「面白そうかも………」
 二人きりでも、十分アリーナ君はカワイクてカワイクていじくりまわしたくなるのだが、ギャラリーがいるのも趣向が変わって面白いかもしれない。今まで以上に恥らうアリーナ君も見物だ。もし邪魔になったのなら、消せばいいだけの話。イアンというのがもったいない気もするが………それはそれ、だ。
「いいですよ、イアンが同行しても。ただし、私の気に障ったら何をするかは保証しませんけど」
 それでもいいのなら………カリは長身のリファインを見やった。リファインは目で頷いて了承の意を明らかにした。
「それは承知した。………が、貴様にも一つ言いたい」
「何、イアン?」
「………その名は捨てたと言ったであろう。今後一切、その名で私を呼ぶな」
「へぇ………へえええぇ!」
 カリは思いきり意地悪く両方の口の端を吊り上げた。
「うん、うん。わかったよ、そう呼ばないように心がけるよ、イアン。………あー、早速言ってしまった、ごめんねイアン」
 実に楽しそうに何度もイアンと言うカリに、リファインは再び口を開く事はなかった。瞳を閉じて気持ちを宥める。そんなリファインの様を鑑賞しながら、カリは「ああ、そうだ」と何か思い出したようだった。くるりと振りかえった。遥か後方に、館の方向へしょんぼりと歩んでいるアリーナ君の背中を見とめた。
 くすりと笑って、軽く地を蹴った。一瞬ぶれる視界。それが元に戻ったときには、カリはアリーナ君のすぐ後方の地点に移動していた。瞬間移動である。かなりの高等魔法であるが、カリにとっては造作ないことであった。気配を感じたアリーナ君が振りかえるよりも早く、その手を掴んで引き寄せた。16歳でも華奢なほうのアリーナ君の体は、ほとんど抵抗なくカリの腕の中に収まった。
「何か忘れてませんか、アリーナ君?」
 むぎゅ〜とアリーナ君の体を抱きしめた上で、上方から声をかける。必然的に、アリーナ君は首をギリギリまで反らして上を向かないとカリの胸と腕に挟まれて息すら出来なくて………そうしたら、すぐ上にはカリの秀麗過ぎる顔が間近に迫っていた。少しでも動いたら、その顔と自分の顔が接触してしまう………そんな距離感。それは、誰であってどきどきする。こんなに美しい顔なら、なおさらだ、けど………
「なななな何ですか、マスター………あ…」
 何気なく放った一言に、変化を感じる。
(マスターって言えた………)
 かの「ご主人様」自動変換が解けたのだ。嬉しいといえば嬉しいけど、こんな状況ではそう喜んでばかりもいられない。抱きしめられた背も、わずかに苦しい。
「よかったね」
 そう言うカリの言葉の裏まで、感じ取れてしまうし………
(なんか、ものすごーく、まずいことが起きる)
 予感と言うより確信だ。体得させられた感覚である。
 と、近すぎると思っていたカリの顔がどんどん寄って来て―――アリーナ君は額に熱をうつされた。ぽぅっと仄かに宿る熱。カリの唇の体温。
「悪い子には罰をあげないといけないからね。君は聖座の眼の管理を怠ったし、イアンは連れてくるし、私を倒そうと情報の漏洩を諮るし………本当に困った子だ」
 内容はともかく、カリの口調は滑らかで綺麗な発音で音楽のような響きで、アリーナ君は聞きほれそうになる。それがすぐ目の前で、囁かれているのだからなおのこと。
 ただやはり内容はアリーナ君の理性を引き寄せる。じわじわと確信が現実になっていくのを感じる。体も、なんだかぞわぞわする。むくむく〜って、何かがもたげてくる感じ………むくむく? えっ? ええっ!?
 アリーナ君はむくむくと何かがもたげてくるのが自分の頭の中ではなくて、頭そのものであるのを悟った。首の付け根ぐらいから、髪を掻き分けて、むくむく成長していくもの。
「え、え、………」
 しかし、カリに羽交い締めされて確かめることすら出来ない。出来ない内にそれは確かな質量を持ってアリーナ君の頭の上に二つにょきっと立ち上がっていた。そのうえ、アリーナ君がそちらに気を向けると………気のせいか………気のせいであってほしいんだけど、どうやら気のせいではないことに動いたりするだ。ぴくぴく、あちらこちらに元気良く動く。向く方向が変わる度に、違った音が今まで以上に良く聞こえてきたりして………
「う〜ん。思っていた以上に良く似合いますね」
 頭上からは機嫌のよいカリの声。片方の手でアリーナ君の頭の上にあるものを撫でられる。ふさふさと揺らされて、くすぐったい。
(………誰か)
 アリーナ君はこのときほどそう叫んだ事はなかった。
(誰かうそだと言ってくれ〜〜〜〜〜!!!!!!!)
 しかし、誰も嘘だなんて言ってくれる親切な人はいなかった。居るのは世紀の大魔法使い、何より性悪で邪悪な性格のほうが有名なカリである。ひとしきり撫でおわると、気力の抜け落ちたアリーナ君の両手を持ち上げて、頭のそれをわざわざ確認させてあげるお節介ぶりである。
 ふさふさと柔らかな毛に覆われた二つのそれ―――――
「ね、気持ちいいでしょう?でも、機能もばっちり備えてるんで安心してください」
 にこにこ上機嫌のカリの胸に半ば持たれかかりながら、アリーナ君はそれ―――いわゆる、ネコ耳を両方とも押さえて呆然と立ち尽くした。
「お仕置き、ですよ」
 カリの愉悦たっぷりの声がネコ耳をくすぐる。

 アリーナ君の旅は、今まさに始まりを告げていた。


                         −第1章完−


これにて、「アリーナ君と魔法使い」の第1章終了です。
いかがでしたでしょう??
アリーナ君は人間ですので、もともとネコ耳というわけではなかったのですね。
やっぱりなんでも、アリーナ君に災厄をもたらすのはカリだということです。
ちなみに、アリーナ君のネコ耳姿を存じていないという方は人物紹介のページを見てみましょう。アリーナ君のネコ耳姿に出会えます。(←でも、期待はずれの可能盛大ですよ〜)



                                (02.09.19)


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