あなたの名は・・・ 最終章 前編

 

 

たくさんの兵士たちの雄叫びと悲鳴、馬の駆ける音、魔法が炸裂する爆音が辺りに鳴り響く。
解放軍は帝都バーハラに侵攻する途上、帝国軍ヴァイスリッターと遭遇した。
ここは狭い峡谷のような地形であったため、両軍ともに部隊を自由に起動させることができず、正面から衝突するしかなかった。
両軍ともに防御の姿勢がなかったため、ひたすら相手に向かって突撃していった。
相手の中に踊りこみ、自らの力を振り回す戦士たち。
後方から前線の味方を援護する弓兵や魔導士たち。
前面から激突した両軍にとって高度な戦術を行うことはできなかった。
ただ、目の前の敵を一人一人撃破していく・・・
もっとも単純な力押しという戦法しか選択肢として残っていなかった。
こうなると双方の兵士たちや中級・下級指揮官の実力や士気といった部分が何より重要になってくる。
歴戦を勝ち抜いてきた解放軍、帝都の守護神として精鋭によって編成されたヴァイスリッター。
両軍の実力はとても高いものがあった。
だが、士気の面では雲泥の差があった。
帝国の勢力の殆どを殲滅し自分たちの勝利を手に入れつつある解放軍と、すでに帝都を中心としたごく小さな地域に追い詰められた帝国軍。
前者の方が遥かに高い士気を誇っていたと言えよう。
もう勝利が手に届くところまで来ているのだから・・・

徐々にだが、解放軍がヴァイスリッターを圧倒し始めた。
混戦状態の前線が解放軍によって制圧され始めたのだ。
ヴァイスリッターの腰が逃げ腰になり始め、解放軍の兵士たちが前線を突破し、後方の弓兵や魔導士たちに襲い掛かった。
肉弾戦を挑まれ、彼らも逃げ惑い始める。
こうなると崩壊に拍車がかかり、全軍が浮き足立ち始めた。
セリスは敵の混乱を看破し、一気に勝敗を決めるべく全軍に総攻撃を命じた。
前線の兵はもちろんのこと、後方の兵士たちも前線に踊りこみ、敵を薙ぎ払っていく。
すでに浮き足立ち始めたヴァイスリッターにそれを阻止するだけの力は既になく、解放軍に蹂躙されていった。
戦いは解放軍の勝利という形で終結しようとしていた。



ティニーも仲間たちと共にいた。
彼女たちは先ほどまで味方の援護に徹していたが、敵の追撃する状態に戦局が移った時、共に前線を駆け抜けた。
そして多くの敵が敗れ、壊走をしてしまった時の事だった。

風が吹き荒れ、砂埃が舞う戦場に一つの人影が現れた。
その影が視界に入った時、ティニーは思わず息を呑んだ。
見覚えがある影だった。
決して大きくはない人影であったが、彼女にとってはとても大きく、そして自分を包んでくれた人の影。
今、自分が会いたかった人の影だった。
その人の名は・・・
「イシュタルお姉さまあぁっ!!」
ティニーの喜びにも満ちた絶叫を思わず上げた。

砂塵の中から現れたのはイシュタルだった。
彼女も自分の視界が開けた瞬間に目の中に飛び込んできたティニーの姿に驚いていた。
目を大きく開いて、自らの名を呼ぶ従姉妹の少女を見つめる。
彼女の顔が喜びに満ちた。だが、それも一瞬の事だった。
見る見るうちに彼女の表情が暗く、悲しいものに変化していく。
彼女がこのように目まぐるしく表情を変えることは珍しかった。

「ティニー・・・」
表情と同じく、悲しみの色に満ちた声をイシュタルはやっと出した。
(私は怖かった・・・今、この時・・・ティニーと出会うことを・・・)
イシュタルの心に冷たい感覚が駆け抜けていく。
彼女は片時もティニーの事を忘れたことはなかった。
だから、自分が決心をした時から恐れていた。
自分がティニーと再会することを・・・
例え、彼女のことをどれだけ大事に想い、どんなに話したい事がたくさんあったとしても、今は会いたくはなかった。

(・・・でも、良かった・・・もう一度ティニーに会うことができて・・・)



一方のティニーは喜びに満ち溢れていた。
ベルクローゼンとの戦いで生き別れになり、彼女の安否が心配であったティニーにとって、イシュタルが目の前に現れたことは本当に嬉しかった。
また一度、会うことが出来たことを神に感謝した。
「良かった・・・お姉様・・・また、会えて・・・」
感極まったティニーはイシュタルに駆け寄ろうとした。
イシュタルと再会の喜びを噛み締めるために・・・

だが、イシュタルは短く、鋭い声でそれを静止した。
「来ないで!ティニー!!」
その声は決して大きくはないが、はっきりとティニーの行動を静止するものだった。
「・・・!?」
イシュタルの鋭い声に、彼女に駆け寄ろうとしていたティニーは前に出掛かった足を静止させた。

イシュタルは僅かに顔を下に向けたまま、喋り始めた。
「来ないでティニー・・・今の私とあなたは・・・敵同士なのだから・・・」
イシュタルの言葉の意味をティニーは咄嗟に理解できなかった。
「・・・えっ?」
ティニーは驚いたというより、呆気にとられた。
「イシュタル・・・お姉様?」
彼女の心がイシュタルの発した言葉の意味を理解し始める。
自分とイシュタルが敵同士にという意味を・・・

「お姉様!敵同士って・・・一体・・・?」
「・・・言葉の通りよ・・・」
イシュタルはティニーと視線を合わせないように言葉を続けた。

「私は帝国軍の一員として・・・あなた達と戦う・・・」
「なっ!?」
ティニーの中を激しい衝撃が駆け抜ける。
ティニーの思考はこれ以上ないほど混乱していた。
だが、イシュタルはティニーの動揺を介すことなく、続けた。
「私は・・・あなた達の敵よ・・・」
彼女が言葉も終わらないうちに魔力を集中し始めた。
これから起こる戦いに備えて。

だが、突然の敵対宣言などティニーには受容できるものではなかった。
「嫌です!私・・・お姉様と戦いたくなんてない!せっかく、また会えたのに・・・」
ティニーは彼女と別れることを恐れていた。
もう、会えなくなる事を恐れていた。
だが、彼女と再び敵味方に分かれて、戦うことになるなど思いもしなかった。
自分を救い出してくれた、自分を守ってくれたイシュタルが、なぜ・・・

「・・・ごめんね。ティニー・・・」
高まる魔力の渦の中で、イシュタルは優しい・・・いつもティニーに話し掛けてくれる時の優しい声で語りかけた。
「私・・・やはり、ユリウス様の事が好きだったの・・・愛していたの・・・」
「!?・・・イシュタルお姉様・・・?」
ティニーはイシュタルの変化の理由を知った。
彼女はユリウスへの気持ちを断ち切ることは出来なかったのだ。
イシュタルは帝国を裏切った際もユリウスへの想いに苛まれていた。
自分を助けてくれたとはいえ、ずっとユリウスのことを気にしていたことがティニーにも分かった。
彼女とはぐれてしまってからなにが起きたかは分からなかったが、彼女が自分の愛した男に尽くすことを決心したのだろうということが推測できた。
そして、ティニーにとってはそれが一番恐れていたことだった。
自分の大好きなイシュタルが、自分たちと相容れない、暗黒神の化身であるユリウスへの想いを貫くことが・・・
自分たちの敵と想いを貫くことが・・・
(嫌だ・・・そんなの嫌です・・・イシュタルお姉様・・・)
ティニーはそれを声に出して言いたかった。
だが、言えなかった。
イシュタルが純粋にユリウスを愛していることを知っているから。
その愛情を、彼女の本当に人を愛する心を自分の言葉で否定することはできなかった。

「ごめんね・・・ティニー・・・」
もう一度、静かに言った後、彼女は解放軍の戦士たちの前に仁王立ちになり、高らかに宣言した。


「解放軍の戦士たちよ!私はフリージのイシュタル!貴方たちに雷神と言われる私の力を見せてやろう・・・掛かって来い!」
解放軍に対し、彼女は自分の存在と戦う意思を示すべく、宣告した。
解放軍の殆どの戦士たちは彼女の本当の姿を知らない。
彼らにとってイシュタルという名は、ユリウスの臣下で雷神と呼ばれる敵でしかなかった。
イシュタルの出現に解放軍の戦士たちはイシュタルに向かって突進していった。
「あ、皆さん・・・やめて!お願いいぃっ!」
ティニーは自分の脇を駆け抜けていく仲間たちを静止しようとした。
だが、目の前に強敵が現れたと判断した仲間たちの思考は既に緊張と戦慄に彩られたものになっていた。
今の彼らにはティニーの静止は聞こえない。
躊躇して勝てる相手ではないのだから。
「待って!みんな!」
一生懸命叫ぶティニーであったが、無駄な努力であった。


「・・・来なさい・・・」
自分に向かって突進してくる戦士たちの姿を見つめながら、彼女は静かに呟いた。
そして、彼女も右手を高く振りかざす・・・


ビリビリビリビリビリ――――ッ!!

12の聖武器の一つ、トールハンマーが炸裂した。
戦士たちの中央に出現した強大な雷は、イシュタルに接近しようとしていた者達を数人弾き飛ばした。
雷球の衝撃でデルムッドが馬から叩き落され、ラクチェが地面に体を密着しながら砂埃を立て、吹き飛ばされた。
「!?・・・ぐはっ!」
「きゃああああぁぁぁっ!!」
二人の悲鳴が木霊する。
普通なら、この瞬間に魔導士は無防備になるはずである。
巨大な魔法になればなるほど魔力の放出は膨大であり、次に放つまでにかなりの時間を要するからだ。
素早さに秀でる解放軍の戦士たちがこの間に一気に肉薄することが可能なはずであった。
だが、イシュタルは雷神と称えられるほどの大魔導士である。
トールハンマーほどの超魔法の連続攻撃を瞬時に放つことが出来た。
まさに神業である。
第二撃は自分に接近してくる彼らの前で炸裂した。
全力で前進してきた彼らには急停止は出来ず、またしてもトールハンマーに吹き飛ばされるものが続出した。
ヨハルヴァの強靭な体が宙を舞い、パティも直撃を何とか回避するのが精一杯で同じく吹き飛ばされた。
皆、大ダメージを受けていたが、死者は出ていないようだった。

もちろん、解放軍も無抵抗ではない
トールハンマーの足跡の両脇からシャナンとスカサハが飛び出してきた。
二手から一気にイシュタルに接近しようというのである。
また、彼らの後方にいたファバルとレスターは矢をイシュタルに向け放った。
弓の名手である二人の矢を同時に放たれては、普通の人間では避けることはできないはずであった。
だが、イシュタルの行動は大胆であった。
ファバルのイチイバルの矢の軌道を魔導士らしからぬ体のこなしで避けた。
しかし、これではもう一方のレスターの矢まで避け切ることはできなかった。
彼女の胸を射抜くはずであった矢が射抜いたのは、彼女の左手であった。
「!?・・・くうぅっ!」
彼女は左手を盾代わりにし、自らの致命傷になることを防いだ。
その代償として彼女の左腕は貫通され、激痛と出血が彼女を襲った。
血飛沫が起きて、彼女の立つ地面と彼女自身の体を赤く染めた。
気を遠のかせるほどの苦痛であったが、彼女は僅かな呻き声を上げただけで、表情も緊張を解かなかった。
彼女の魔導士らしからぬ迫力と豪胆さに、弓を放ったファバルとレスターは恐怖した。
イシュタルは痛みに駆られながらも、二人に向かってトールハンマーを放ち、弓戦士二人を沈黙させた。

だが、イシュタルが一瞬だがファバルとレスターに注意を取られているうちに、シャナンとスカサハはイシュタルに接近した。
このままでは、一方の敵にはトールハンマーを浴びせたとしても、片方の敵が自分に剣を突き出すだろう。
絶体絶命のこの状況だったが、戦い続ける以外の選択肢などはなかった。

イシュタルは右手から近づいてきたスカサハにトールハンマーを浴びせ掛けた。
ラクチェやシャナンに及ばないとはいえ、彼も解放軍屈指の素早さをもつ男であったが、それでも自分向かって放たれたトールハンマーを避け切ることはできなかった。
体のいたる所に火傷と裂け傷を負いスカサハも脱落した。
だが、その一方のシャナンはすぐそこまで接近していた。
12聖武器の一つバルムンクの継承者で、おそらく大陸随一の剣士であるシャナンに接近戦を仕掛けられては回避し切れない。
シャナンはイシュタルに残された手段は再び距離を稼いで、遠距離攻撃に徹するであろうと判断した。
彼は全力でイシュタルに向かい、彼女を捉えようとした。
それに対してのイシュタルはシャナンから離れようとはせず、再び魔法を放つ動作に移った。
だが、既にシャナンは目前に迫っていた。
(無駄だ・・・トールハンマーを放つ前に私のバルムンクが捉える・・・)
シャナンはイシュタルの読み違いを確信し、また、自分の勝利を確信した。
彼が剣を振り上げ、彼女に飛び掛った。

しかし、イシュタルの方が冷静であった。
彼女は跳躍し、一気にシャナンへと飛び掛った。
「!?」
シャナンは突然のイシュタルの行動に対応できなかった。
イシュタルが自分を回避する行動はとるとは予想は出来ても、自分に向かって突っ込んでくるなど予想外であった。
そのため、一気に間合いを詰められたにもかかわらず、彼のバルムンクは対応し切れなかった。
ドガッ!という鈍い音と共に、イシュタルはシャナンに左肩で体当たりをした。
彼女の左手は矢が刺さったままだったので、衝突の衝撃は彼女の全身を裂いてしまうかのような痛みを発生させる。
だが、効果は十分であった。
イシュタルの予想を越えた動きに、シャナンは体格差で勝っていたにもかかわらず、体が飛んでしまった。
そして背中から地面へと倒れてしまった。
シャナンは自分の甘さを悔いながら、急いで立ち上がろうとした。
だが、彼の目前には既にイシュタルが印を組み、構えていた。
「・・・くっ・・・」
「・・・あなたの負けです・・・」
イシュタルは腰をついているシャナンを見下ろしながら宣告した。
もし、このままシャナンが動けば、容赦なくトールハンマーを浴びせ掛けるだろう。
シャナンは自分の敗北を悟った。
今の彼には、自分のよりも背が低いイシュタルの体が、まるで巨人のように大きく見えた。
全身を血まみれにさせながら、佇むイシュタルの姿に畏怖と不気味さを感じながら・・・

解放軍の戦士たちはことごとく敗れた。
聖武器の継承者二人も含めた8人を、たった一人の少女が打ち破ったのだ。
美しい銀髪と儚げな視線が印象的なこの少女に・・・

「あ・・・あぁ・・・」
ティニーは目の前で繰り広げられた光景に唖然としていた。
自分の仲間たちが倒された事とイシュタルの強さを見せ付けられ・・・
何より、イシュタルが本当に自分達、解放軍の敵となってしまったことを思い知らされた。
目の前で倒れている仲間たちの姿がそれを物語っていた。
「イシュタル・・・お姉様・・・」
ティニーの悲しき視線がイシュタルには辛かった。


その後、完全にイシュタル以外の帝国軍は駆逐され、残るはイシュタルだけになってしまった。
彼女の周囲に解放軍の全軍が集結していく。
セリスやアレス、リーフといった解放軍の中核も集まり、彼女を遠巻きに包囲していった。
そして、イシュタルに敗れた者達を収容していった。
シャナン以外は大怪我であったが、他の皆も重傷ではあったが、命に別状はないとの事だった。
その間、ティニーとイシュタルは互いに向き合ったまま、動こうとはしなかった。
周りの状況の変化を肌で感じながらも、互いの運命が激しく蠢いている事を自覚していた。
着実に自分たちの絆が破局に向かっていることに・・・

「ティニー・・・」
離れた位置でイシュタルと向き合うティニーの肩に手を置く者がいた。
「・・・セティ様・・・」
力なく振り向いたティニーは大切な男の名を呼んだ。
セティはようやくティニーと合流した。
ティニーについていたセティだったが、混戦の中で一瞬はぐれてしまったのだ。
もう、彼女の傍から離れないと誓っていたセティは、一瞬でも彼女からはぐれてしまった自分を恥じた。
そして、ようやくティニーを見つけた時、その従姉妹の少女の姿をはじめて見たのだった。
「ティニー・・・あれが、フリージ家のイシュタル王女か・・・?」
「・・・・はい・・・私の大切なイシュタルお姉様です・・・」
セティはすぐに周りの状況を理解した。
イシュタルが、自分の愛しているティニーの従姉妹で、誰よりもティニーに優しくしてくれたイシュタルが解放軍の前に立ち塞がったのだ。
そして、仲間たちに雷神として畏怖される力を行使した。
それは今のイシュタルが敵であることを証明していた。
つまり、ティニーとイシュタルは敵同士ということに・・・

「セティ様・・・私・・・どうすれば・・・」
「・・・・・・」
セティは無言であった。
彼はイシュタルという女性について多くのことを知らない。
ただ、雷神との異名を持つ恐るべき魔導士として顔とティニーの家族としての優しい顔・・・
そして、ユリウスを愛しているということをティニーから聞かされて、知っているだけだった。
セティは彼女のことを知らなさ過ぎた。

(話してみたい・・・このティニーの従姉妹の女性と・・・強大な力を持つものと恐れられ、誰よりも優しくティニーを包んだこの女性と・・・)
セティはティニーを助けた時に、彼女の口からイシュタルの事を聞かされた。
その時から、めぐり合うことが出来たら、話がしたいと思っていた
彼女が敵となってしまったと思われる今でも、その欲求は消えなかった。

一歩二歩とティニーの隣から前に踏み出すセティ。
「セティ様?」
イシュタルに向かっていくセティをティニーは呼び止めようとしたが、彼はそれを手で制した。
「セティ様・・・」
ティニーを始め、解放軍の仲間たちが見つめる中、セティはイシュタルに近づいていった。


イシュタルは自分に向かってくる緑の髪を持った青年の事を見たことがあった。
彼はシレジアの王子で聖武器の継承者・・・そして、ティニーの愛する人。
自分とティニーの逃避行の時、彼がティニーを助けるために必死になっている時の姿を見かけていた。
その時の必死な彼の姿に心打たれていた。そして、この男性こそがティニーの恋する人なのだと・・・
イシュタルの方でも、セティと言葉を交わしてみたいと思っていた。
ティニーの愛した、ティニーを愛した青年と、一度でも話してみたいと思っていた。
この極限の状態でも、その機会が得られたことは嬉しかった。

イシュタルも数歩前に踏み出した。
二人は互いに真剣な表情しながら、接近していった。
ゆっくりと、戦場とは思えない落ち着いた足取りで近づいていく・・・


そして二人は30歩ぐらいの距離まで近づき、そこで立ち止まった。
二人の間に言い知れぬ不思議な感覚が支配している。
先ほどまで戦場の狂想曲が奏でられていた場所であったが、今は静寂が場を支配していた。
二人は視線を重ね、見つめ合う二人。
瞬きも出来ないような重い空気の中で、緊張という名のプレッシャーを誰もが感じていた。

どれだけ、二人は見つめ合っていたことだろう・・・
先に口を開いたのはセティだった。
「イシュタル殿ですね。私はシレジアのセティです・・・」
「・・・セティ王子・・・私はイシュタル・・・フリージのイシュタルです」
二人はごく一般的な挨拶を交わした。
二人とも、相手に威圧感や圧迫感を感じてはいなかった。
柔らかく、暖かい感じさえを受ける。

「イシュタル殿・・・私はまず貴方に礼が言いたい。ティニーの窮地を助けて頂き、感謝の言葉もありません・・・」
「・・・セティ王子、私にとってティニーは大切な家族であり、幼き頃より共に育った仲なのです。礼を言われるまでもありません。」
イシュタル自身の言葉は淡々としたものであったが、言葉の中にはティニーへの優しさが感じられた。
(やはり・・・この方は優しい女性だ・・・)
セティは少しだけのやり取りであったが、彼女がティニーの言う通りだった事を確信した。
だからこそ、彼女と敵として出会ってしまった今の状況が憎らしかった。

「イシュタル殿・・・貴方が本当にティニーに優しくしてくれた事は彼女から聞きました。私も貴方と色々話したい。解放軍に合流してくださいませんか・・・?」
「・・・・・・」
イシュタルはセティの申し出を聞いても、さして柔和な表情を変える事はなかった。
恐らく、彼が自分に投降の説得すると予想していたからだ。
だから、さして愕きもせずに、彼の言葉を聞く事が出来た。
セティはイシュタルの表情が硬化しないことを、プラスと受けた。
「イシュタル殿・・・是非、私たちと共に来てください。決して悪いようには致しませんから・・・」
セティは一気に彼女を説得させようとした。
そんな彼にイシュタルは優しく喋り始めた。

「セティ王子・・・貴方はティニーの事を愛してらっしゃるようですね・・・」
「えっ・・・」
いきなりのイシュタルの言葉に、セティの心臓が急沸騰した。
後ろにいるティニーにとっても、それは一緒だった。
「違うのですか・・・? 貴方がティニーの事を愛してらっしゃるとばかり、私は思っていましたが・・・」
ズバリと指摘されると、誰でも恥ずかしいものである。
だが、セティの場合、恥ずかしいと感じても隠す必要などなかった。
彼は頬を赤らめながらも、自らの気持ちを伝える。

「はい、私はティニーの事を愛しています・・・」
おおぅ・・・!
戦場にもかかわらず、小さな歓声が鳴り響いた。
皆の前で、告白したようなものなのだから、歓声の一つや二つが起きて不思議ではなかった。
セティも恥ずかしかったし、もう一度、皆の面前で告白されたティニーも恥ずかしかった。
幸せな恥ずかしさではあったが・・・

「・・・ティニーを愛してくださるなら・・・もう一つ、聞きたいことがあります・・・」
セティの気持ちを考えつつ、イシュタルはもう一つ確認しておきたい事があった。

「貴方は・・・ティニーを必ず守ると・・・誓えますか?」

「・・・もちろんです。私は彼女の危機にはティニーを守りたい。いや、守ってみせます。この命に代えても・・・本当に大切な人だから・・・」

セティの即答に、イシュタルは儚げな微笑を浮かべた。
「それを聞いて安心しました。いつまでも貴方にはティニーを見守っていって欲しい・・・そして・・・」
その微笑が悲しみに色に染まり始め・・・

「私も一緒なのです。私もユリウス様を守りたいのです。たとえ、この身が焼き尽くされようと・・・」
「イシュタル殿・・・」「イシュタルお姉様・・・」
彼女の、自分の想い人への気持ちを、セティとティニーは痛いほど感じていた。

「だから、私も命を賭して、ユリウス様を守るために戦います・・・正義とか、理想とか・・・そんなもののためじゃない。自分の想いのために、ユリウス様が好きという気持ちのために・・・私は戦っているんです」
「イシュタル殿・・・貴方は・・・」
それは投降を勧めるセティに対しての明確な拒絶であった。
セティは次の言葉が出なかった。
イシュタルはティニーの言っていた通り、優しい女性だと分かった。
誰よりもティニーの事を心配している女性なのだと・・・
だが、彼女自身にも一途に愛する男がいるのだ。
彼女はその優しさで、その純粋さゆえに、自分の命を掛けて男を守ろうとしているのだ。
それは非難できることではない。間違っている事でもない。
むしろ、それこそが人間が戦う時の理由とさえ言えるだろう。
誰かを、何かを守るために、人は戦う事が出来るのだから。
自分もティニーを守るためなら、相手が誰であろうとも戦う事が出来る、戦う事を心に誓っている。
イシュタルも気持ちは一緒なのだ。

「・・・分かりました・・・イシュタル殿・・・」
セティは彼女に対する説得を諦めた。
本当はそんなことはしたくはない。
それは彼女との最悪の結論を、戦う事を意味しているのだから。
このティニーの従姉妹と戦う事になるのだ。
ティニーにとっては耐えられない事だろうし、セティにとっても辛い事だった。
ティニーの家族を奪われる事もそうだが、自分もイシュタルと言葉を交わしてみて、彼女に心惹かれるものがあったから。
この恐ろしいほど純粋な人ともっと言葉を交わしたかった、もっと他の事についても話してみたかった。
我々と一緒に来て欲しいと、再び言いたかった。
だが、彼女がユリウスへの愛を貫く事を決心した以上、これ以上の事は言えなかった。

「・・・イシュタル殿・・・貴方の心、しかと分かりました。不肖ながら私が貴方のお相手をさせていただきましょう・・・」
それはセティも彼女の気持ちを汲み、選択を済ませた意思表示であった。
恐らく、これ以上もない最悪な選択に、だが、これしかないと思われる選択を選ぶしかなかった。
セティの言葉に、イシュタルは小さく頷いた。
彼は一旦、仲間たちの方に向くと、ティニーの元まで戻っていった。

「セティ様!やめて!」
自分の元に戻ってきたセティに対して、ティニーは開口一番でその言葉を言った。
彼女はセティとイシュタルの会話を聞いていた。
そして、両者が決裂した事を、セティがイシュタルと戦う言葉を発した事を聞いていた。
「イシュタルお姉様と戦うと言いましたよね?お願いです!そんな事は止めてください!!」
耐えられることではない。
彼女には耐えられない事だ。
自分が大切に思っている、最愛のセティとイシュタルが戦う事など耐えられることではなかった。
イシュタルと戦わなくてはならない事さえこれ以上ないほど悲しい事なのに、どうしてセティとイシュタルが戦わなくてはならないのか?
どうして、自分の目の前で傷つき合うような事をしなくてはならないのか?
「分からない・・・私、分からないです!どうして・・・セティ様とイシュタルお姉様が・・・」
最悪な結末の自分にとって最悪な戦いの組み合わせ。
彼女にとって理不尽とさえ感じるであろう。

「ティニー、許してくれ・・・いや、許してもらえるはずもないね・・・」
セティは自分のマントに手を掛け、外した。
相手は恐らく、自分が戦ってきた中で最強の敵になる事であろう。
少しでも自分の行動に邪魔になりそうな物を外し、敏捷さを手に入れておきたかった。
「私は自分の意志でイシュタル殿と戦う事を選び、彼女を倒そうとしている・・・君にとって大切な彼女を・・・」
「・・・・・・」

「でも、私はイシュタル殿の気持ちに応えてあげたい。彼女に自分の愛を貫いて欲しい。だから、戦う・・・そして・・・」
ブーツの紐を締め直し、彼は立ち上がりながら・・・
「・・・私がイシュタル殿の大切なティニーを、これからずっと命を掛けて守る決意を知って貰いたい・・・そして、彼女との戦いの中で、自分自身にティニーを守るだけの力があるのか・・・私は試したい。そして自分の力をイシュタル殿にも知っていて欲しいんだ。」
自分の胸の内を告白する。

「セティ様・・・でも・・・」
セティの気持ちも、イシュタルの事情も、ティニーには分かっていた。
それでも戦って欲しくはなかった。
いつも夢に見ていたのだ。
セティと一緒にイシュタルと生きて行けたら・・・どんなに幸せなのだろうかという夢を・・・
それが叶わなくなろうとしている。
いや、もっと酷い悪夢となろうとしている。

「ティニー・・・」
涙目で戦いを止めることを訴えるティニーを優しく抱きしめる。
「あ・・・」
彼の優しい抱擁がティニーの心を暖かくさせる。
目の前で、悲劇が起ころうとしているのに、その心地よさはティニーを厳しい現実から守ってくれるような感覚であった。
このままセティに抱かれていたい・・・
戦いの事など忘れて欲しい・・・忘れたい・・・
そう思っていた。

だが、セティはいつまでもティニーを抱いてはいなかった。
彼女の背中に回した手を解いて、彼女の体から離れていく。
「ティニー・・・私は行く・・・」
そして彼はティニーに背を見せ、イシュタルへと向かっていった。
「セティ様・・・セティさまあぁっ・・・!」
最愛の人間が自分の家族と言える人と戦いに行く。
ティニーにとっての悪魔のような時間が始まろうとしていた。



セティはイシュタルの元に向かう途中、解放軍の仲間たちに大声で自分がイシュタルを倒す意思を伝えた。
自分がイシュタルを倒すので、決して手出しはしないで欲しいと・・・
仲間たちは心配であったがセティの実力を信じ、それを受諾した。
そして、再びイシュタルの元に向かっていった

「イシュタル殿・・・貴方とは敵としてではなく、ティニーの家族として出会いたかった。そうすれば、もっと他の形で交流が出来たかもしれないのに・・・」
「・・・本当に優しい人なのですね、セティ王子は・・・貴方のように優しい方に愛されてティニーは幸せでしょう・・・」
両者は先ほどより離れた位置で対峙した。
既に二人の間の空気は緊張に満ちていたが、それでも憎悪や悪意といった物は含んではいなかった。
ただ、悪意も軽蔑も抱いていなく、むしろ好意的な印象を受ける相手と戦わなくてはならない残念な気持ちだけが二人を覆っていた。
傷つけたくもない相手と戦うという皮肉さがあった。

「・・・イシュタル殿・・・私は本気でいきます。貴方に対して私は、一人の戦士として立ち向かいます。そして、貴方を倒します・・・」
「容赦は無用ですよ。貴方はティニーの大切な人であり、私自身も良い感情を抱いています。ただ、私は貴方を憎み、そして戦う事が出来ます。それは貴方がユリウス様の敵だから・・・ユリウス様の敵として私は貴方を倒します」
イシュタルの左腕は先ほどの戦いで大きな傷を負い、彼女の左半身は血塗れであった。
応急の治療もせず、ただ、布できつく締めているだけであった。
普通の人間なら、傷による発熱と大量の出血で卒倒していただろう。
だが、彼女は強靭な精神力でなんとか押さえつけていた。
それに引き換え、セティは傷一つ負ってはいない。
圧倒的にイシュタルの方が不利であった。
だが、セティ自身、彼女の強さは分かっていた。
解放軍の名うての戦士8人に打ち勝ったのだ。
よほどの自信家でない限り、警戒するであろう。
この相手に勝つには、自分の力を最大限に引き出し、手加減なしの全力で向かうしかなかった。

一方、窮地に追い込まれたのはイシュタルと言えるであろう。
無傷の強敵と手負いの状態で戦わなくてはならないのだ。
まともに正面から戦ったら勝ち目はないだろう。
だが、相手がセティである以上、小細工も通用しないように思われた。
しかし、勝ち目が少ないからと言って、逃げるわけにはいかなかった。
彼女は魔力を集中し始めた。
それをセティも感じ取り、戦闘に備えをした。
二人の表情からは優しげなものは消え、戦士としての表情がそこにはあった。
互いの鋭い眼光が相手を姿を捉え、どちらからともなく魔法を唱えようとした。

「セティ様・・・イシュタルお姉様・・・」
ティニーは悔しかった。
自分にこの戦いを止める力がないことを・・・
そして、世界の理不尽さを、自分の大切な人たちを戦わせようとする非情な神に対抗できないことが悔しかった。



ドグワアアアァァァ――――――ッ!!

超破壊魔法同士が激しくぶつかり合い、尋常ではない音と衝撃を周りに撒き散らした。
二人は己が最高の魔法の最大出力で相手に放った。
それは両者の中間地点で衝突し、大爆発を起こした。

「・・・くっ!?」
イシュタルの体にも大爆発の衝撃が届く。
彼女の体に石や突風が当たる度に、彼女の体は悲鳴をあげた。
普段ではどうともないこの痛みも、今の彼女には重い激痛となって押し寄せた。
自分の体力が思った以上に消耗している事に気づく。
だが、今更後戻りなど出来ない。
相手を倒すか、倒されるか・・・
その二つしか結果はないはずなのだから。

第一撃目を放った後、セティは早速動きを見せた。
彼は爆発が収まらぬうちから、フォルセティの魔力に乗って、目にも止まらぬ素早さで動き始めた。
かつて。ティニーを助けるために戦った暗黒司祭たちは、この動きを見せている時のセティの姿すら目に捕らえる事は出来なかった。
イシュタルほどの使い手さえ、彼の姿を捉えるのは至難の業だった。
彼の姿は何とか見る事はできるとはいえ、彼に対して攻撃できるような機動ではなかった。
セティは神速とも言えるスピードで、イシュタルの周りを円を描くように周回しはじめた。
そして、フォルセティで円の中心であるイシュタルに攻撃を仕掛けた。
空気を極限まで圧縮した超エネルギーの玉がイシュタルに向かって飛んでいく。
彼女はそれを身を翻して、なんとか避けた。
だが、彼女の周囲を残像を残しながら移動し続けるセティはフォルセティを乱発してきた。
前後左右上下、すべてと言える方角からフォルセティが飛んでくる。
ただ、分身して放っているわけではないので、自分に飛んでくるまでには僅かなタイムラグがあった。
そのラグによって生まれた隙間に身を躍らせ、避け続けていく。
ただ、フォルセティの強大な力は命中はしなくとも、イシュタルの肉を引き裂くに十分であった。
裂けるたびに、彼女の体に赤い線が生まれていく。
さして深くはない傷口であったが、それでも血が流れ出し、彼女の至るところが傷と血で覆われていく。
致命傷にはなっていないというだけで、着実に彼女の体は傷ついていった。
だが、イシュタルはチャンスを待っていた。
自分の体にフォルセティが直撃する前に、セティにトールハンマーを浴びせ掛けるチャンスを・・・
いくらトールハンマーでも、高速で移動し続けるセティに命中させる事は出来なかった。
だから、敵の何かしらの油断をつき、相手を倒す方法を・・・
セティもそれは分かっているのか、決して近づこうとはせず、遠距離からの攻撃に徹していた。


(嫌だ・・・もう嫌だよ・・・)
ティニーは二人の戦いを見ながら、打ち震えていた。
(なんで、この二人が戦わなくてはいけないの?・・・二人とも・・・二人とも私の大切な人たちなのに・・・!)
イシュタルは幼き頃から自分を優しく包んでくれた。
悲しい時には一緒にいてくれた・・・楽しい時には笑ってくれた。
母に早世された自分がフリージ家で生きていけたのは、彼女の存在があってこそだった。



(悩みがあったら、いつでも相談してね)

(そんな・・・私がイシュタルお姉様と話しているのを見ると、ヒルダ伯母様が嫌な顔をされるし・・・)

(気にしないで・・私も母上の事が少し怖いけど、あなたの悩みを放って置けないもの・・・)

(・・・どうして?・・・どうしてお姉様は・・・そこまで私の事を・・・)

(何を言っているの?・・・私はあなたの事を家族と思っているの・・・かげがえのない・・・)

(・・・お姉様・・・)

(あなたは大切な存在だから・・・守りたいの、助けたいの・・・それだけ・・・)

(お姉様・・・それだけと言いますけど、私にはそれが一番嬉しいのです・・・)




いつも自分はイシュタルに守られていた。
いつもイシュタルは自分に優しくしてくれた。
ヒルダに囚われた自分を助けてくれた。
心の壊れた自分を身を以って救ってくれた。

今の自分があるのはイシュタルのおかげだった。
だから、自分にとってもイシュタルは大切な存在なのだ。

その大事な存在であるイシュタルが・・・セティと・・・




「くうぅぅ・・・っ! かぁっ!」
突風の力が自分を裂く度に、イシュタルは苦痛の声をあげる
嬲り殺しと思われる戦闘だった。
高速で移動しているセティには、さすがのイシュタルもトールハンマーの照準を合わせることは出来ない。
イシュタルは反撃も出来ないまま、セティのフォルセティの波状攻撃を受け続ける。
イシュタルは既に全身が傷だらけになっていた。
夥しい血が彼女の体と立つ大地を赤く染めていく。
既に彼女の意識は激痛に耐えられなくなっていった。
だが、引く事のない痛みは彼女をある意味で大胆にさせた。
彼女はフォルセティを避けるのに、大きな動きをしなくなった。
直撃を避けるための最低限の動きしかしなくなったのだ。
そのため、フォルセティが通り過ぎる度に、先ほどよりも深い傷が彼女の体に刻み込まれていく。
今まで以上のダメージと激痛がイシュタルに襲い掛かる。
だが、即座に死に至る致命傷にはならない。
今すぐに自分の死に直結しなければ、彼女には十分だった。
この神速を誇るセティを捉える瞬間まで、自分の体が持てばいいのである。

一方のセティは、焦りを感じ始めていた。
イシュタルは自分の動きを捉えられないため、攻撃を仕掛けてはこない。
それは分かっていた。
だが、自分の攻撃もイシュタルにダメージを与えてはいるが、直撃はしないため、決定打になっていない。
自分の方が圧倒的に有利なはずなのに、今一歩追い詰められないでいた。
あと一歩で勝利が、手の届く位置に勝利が来ているのに掴めないでいる事に焦りを感じていた。
セティはイシュタルの実力を高く評価していた。
だからこそ、自分が勝利を得るなら、イシュタルが傷ついていた今しかないと思っていた。
今がまさにその状況なのに、イシュタルを倒せずにいるのだ。
高速で移動しているため、相手が攻撃できないという有利な点が自分にあるものの、不安は徐々に広がりを見せる。
このままの戦いを続ければ、セティの勝利は確実であった。
しかし、相手は雷神イシュタル・・・
時間を与えれば、何らかの手段で反撃する事が十分に予想できる。
それは防がなくてはならなかった。
だから、この有利な状態を維持したまま、一気に勝負を掛けた方が良いのではないかという考えが浮かんでくる。
このままの遠距離から安全な攻撃を続けて、イシュタルに逆転のための手段を考える時間を与えるか・・・
それとも、このまま一気に勝負をつけるべく、相手に飛び込んでいくか・・・
セティはその選択に迫られた。

そしてセティは、慎重な正確に似合わず、後者の選択をした。
彼にとっては、自分の素早さを活かした速攻の方が勝算は高いと判断したのだ。

セティの動きに変化が訪れた。
イシュタルから一定の距離をとって周回していたのだが、その距離を徐々に縮めていった。
イシュタルを中心として描かれていた円の半径が徐々に短くなり、円も小さくなっていく。
セティは距離を詰めつつ、イシュタルがフォルセティを回避しきれない状況を生み出そうとしていた。
近距離になればなるほど、避けるのは困難になるだろう。
セティは徐々にイシュタルへと近づいていき、フォルセティを放ち続けた。
先ほどよりも回避のための時間が短くなったため、イシュタルも回避し続けるのが困難になっていった。
更に傷つくイシュタルの体。
だが、イシュタルは間断なく襲ってくる痛みの中で、徐々に自分に好機が訪れつつある事を理解していた。
セティとイシュタルは互いの思惑を元に、戦い続ける。




(ティニーは戦いが辛くないの?怖くはないの?)

(セティ様・・・確かに戦いは辛いですし、とても怖いです。でも、戦わなくてはならないと思います。今もこの世界の多くの人が苦しんでいるのです。戦いが辛いだなんて、言ってられません・・・)

(君だって・・・苦しんでいる一人じゃないか・・・)

(・・・・・・)

(父も知らず、母を殺され、身内と戦わねばならない・・・まだ、君は一人の優しい少女に過ぎないのに、そんな過酷な事を背負わされているんだよ・・・)

(・・・みんな同じですよ。ラクチェさんも、リーンさんも、パティも・・・みんな両親がいなくて・・・他のみんなも片親しか知らない人が殆どなのです。それなのにみんな戦い続けているのです。だから、私だけが無理をしているわけじゃない。私も戦わなくちゃ・・・)

(本当に君は強い人だよ・・・ティニー・・・)

(そんなことはないです・・・私は弱いです。いつも誰かに頼りたい・・・誰かの傍にいたいと思ってしまうのです。本当に頼りないと自分でも思ってしまいます・・・)

(ティニー、それは誰だって同じだよ。だから、人は誰かと一緒にいたい、誰かの温もりを感じていたいと思う存在なんだ。助け合い、支えあう・・・それが人同士の繋がりなんだと思う・・・)

(・・・そうですね・・・それが人同士の関係なんですね・・・)

(だから、ティニーも自分の中にすべてを押さえ込もうとしてはいけないよ。いつか限界が来ちゃうからね。その・・・私にも頼ってくれて・・構わないから・・・)

(えっ・・・?セ、セティ様・・・)

(あ、いや・・・その・・・)



セティと出会ってからの自分は、本当に変われたと思う。
外面的ではない、内面的な部分が・・・
戦う事にも勇気が出てきた。
様々な事にも挑戦できるようになった。
彼の笑顔をもっと見ていたい。
自分の笑顔を、彼に見せたい。
彼と一緒にいると心が暖かくなれた。
いつも一緒にいたいと思える男性・・・それがセティだった。

そのセティがイシュタルと殺し合いをやっている。
自分が本当に大切といえる二人が殺し合っている。
自分にとってこれ以上の不幸はない。
これ以上の不幸は・・・




セティとイシュタルの戦いも終局へと近づいてきた。
セティは殆ど反撃してこないイシュタルとの距離を縮めた。
ここまで来ると、セティも攻撃を控えてきた。
この距離ではたとえ高速機動を行っていても、イシュタルのトールハンマーに捉えられやすくなっているからだ。
うかつな攻撃を仕掛けて、形成を逆転される反撃を受ける可能性が増大していた。
そのため、今は彼女の周りを周回しつつ、彼女を確実に仕留められる位置まで近づき、攻撃する。
セティは今まで以上のスピードを見せつつ、イシュタルの隙を窺っていた。
しかし、イシュタルは冷静にセティの動きを見つめていた。
イシュタルはセティの思惑を完全に把握していた。
セティは今までとはうって変わって、一撃で勝負を決めようとしている事に・・・
恐らく自分が隙を見せるまで攻撃は仕掛けてこないはずであった。
イシュタルは自分に逆転のチャンスが訪れてきた事を知った。

セティの動きを目で追い、彼の動きからパターンを読み取ろうとする。
セティは高速で移動しながらも時々折り返すような機動を見せて、単調な動きになる事を防いでいる。
さすがにセティも計画しているのだろうから、中々動きを読み取るのは困難だった。
相手の動きが読めない以上、イシュタルの好機は自分の隙をついてセティが攻撃を仕掛けて来る時であった。
セティが乾坤一擲の一撃を放つ時、彼にも隙が出来るはずである。
そこに活路を見出すしかない。

イシュタルはセティに向かってトールハンマーの放つような仕草を見せた。
彼の動きはとても素早く、捉え切れてはいないのにも関わらずである。
この状態でトールハンマーを放っても直撃するはずはない。
当のセティにはイシュタルの動きが丸見えだった。
彼にはイシュタルが我慢しきれずに、分のない勝負に出てきたと見えただろう。
その判断に、セティも勝負に出た。


イシュタルはセティの手前に向けて手をかざした。
セティの現在の位置と進行方向、スピードと自分のトールハンマーの相手までの命中までの時間を考え、トールハンマーがセティを捉えられるであろう位置に向かって手をかざしたのである。
セティにはその全てが見えていた。
(もらった!!)
彼は全ての能力を開放し、今までの戦闘でも見せた事がない速さで一気に移動した。
そして、自分の想定していたピンポイントに向けて手をあげているイシュタルの背後に一気に回りこんだ。
真に神速といえる速さであった。
自分もとっても挑戦した事がないスピードであった。
それを、この雷神に対して使用した。

彼の構想としては、自分の今まで通りのスピードでピンポイントを計算したイシュタルはその部分にトールハンマーを放つ。
しかし、自分はその位置に達する間に更にスピードを増してピンポイントを想定より早く通過して彼女の背後に回りこむ。
そして何も存在しない地点にトールハンマーを放つであろうイシュタルの背後からフォルセティを浴びせ掛ける。
これが彼の立てた計算であった。

一気にイシュタルの背後に回りこんだセティは自分の勝利を確信していた。
足を止め、イシュタルの命を奪う事になるであろうフォルセティを放つ動作に入った。
しかし、彼はその動作に移りながらも違和感を感じていた。
イシュタルは先ほどの振り上げた手を降ろそうとはしなかった。
彼女は自分の予想に従ってトールハンマーを放つはずであった。
しかし、彼女はトールハンマーを放ちはしなかった。
(・・・しまった・・・)
セティはフォルセティを放つ瞬間、自分の過ちに気づいた。

過ちに気づいたとしても、動作は急には止まらず、彼の右腕からフォルセティは放たれた。
その瞬間、イシュタルも今までに見せたことがない速さで体を反転させ、セティと向かってくる風の魔力の結晶体に向かい合う。
振り向きざまにイシュタルは振り上げていた手を振りかざした。

グワアアアアア――――――・・・スガ―――――――ン!!!
ビリリリリリリリリイイイイイッ!!!!

先に放たれたセティのフォルセティと数瞬遅れて放たれたイシュタルのトールハンマー・・・
先に相手の体をつくのは、先に放たれたフォルセティのはずだった。
セティのフォルセティがイシュタルの体を粉々にするはずであった。
しかし、フォルセティが命中したものは彼女の体ではなかった。


ドグワアアァ――――――ン!!!

セティから見れば、イシュタルが強大な爆発に巻き込まれたように見えた。
大きな爆風と種撃破がセティまで届いた。
はじけ飛んできた石の破片にセティの頬に傷が走る。
セティは痛みを感じていたが、今の彼が感じていたのは恐怖であった。
自分に振り注ぐであろう恐怖に対する・・・

自分の身の回りの空気がビリビリし始める。
髪の毛が逆立ち始め、空気中に放電現象が起きる。
自分を中心とした空間に巨大な何かが現れようとしていた。
セティはそれが何かを知っている。
イシュタルのトールハンマーだと・・・

セティは横に向かって飛んだ。
体は先ほどの無理な機動でかなりの疲労感があったが、今はそんな事は言ってられない。
横に跳躍し、出現しつつある雷球から逃れようとした。


ビリリリリリリイイイイイッ!!!

「うわあああぁぁぁぁ――――っ!!」
出現したトールハンマーの魔力と衝撃が回避したセティに襲い掛かる。
体は膨大な放電と衝撃波が間一髪で雷球に包まれるのを回避したセティの体に襲い掛かり、彼を傷つけた。
服が裂け、血が噴出し、セティは激しい苦痛に声をあげる。
彼の体は宙を長い事舞う事になった。
「セティさまあああぁぁぁ―――っ!!」
吹き飛ばされたセティに向かってティニーは絶叫した。

「グハッ!!」
地面に頭から落下し、セティは短くうめいた。
全身が血と埃でボロボロになり、大量の血が流れ出している。

「・・・私の・・・勝ちですね・・・セティ殿・・・」
フォルセティが爆発した際に発生した煙の中からイシュタルが現れた。
先ほど以上に全身が傷だらけになり、額からも血を流していた。
しかし、意識も視線もはっきりとし、倒れるセティを見下ろしていた。


イシュタルはセティのフォルセティを自らのトールハンマーを盾代わりにして防いだのだった。
フォルセティが先に放たれたため、彼女は自分のすぐ傍でトールハンマーを発生させ、それとフォルセティを衝突させて相殺した。
攻撃を防いだと同時にイシュタルはトールハンマーをセティに向かって再び発射したのだった。
彼女はセティのように攻撃を仕掛けていなかったため、イシュタルはその瞬間まで魔力を集中させる事が出来た。
だからこそ、一瞬でも足を止めたセティに恐るべき速さでトールハンマーを再び放てたのである。
しかし、彼女もフォルセティを防ぐための相殺で大いに傷ついていた。
フォルセティを防ぐためにトールハンマーを出現させるのは、自分のすぐ目の前でなければ間に合わなかったからである。
それは自分の目の前で大爆発が起きる事と同意義であり、彼女の体は激しい高エネルギーの渦に巻き込まれたのであった。
それは普通なら死に至っても仕方がない状況であっただろうが、イシュタルは魔導士としてある程度の魔法に対する抵抗力をもったバリアを常時展開させている。
それがイシュタルの身を僅かばかりに守ったのであろう。
だが、全てを防いだわけではない。
彼女の服は裂かれ、半裸の状態となっていた。
それは男たちの目線で見ればふしだらな感情を抱かせただろうが、今のイシュタルの姿はそれを抱かせなかった。
血で彼女の白く美しい肌は血で染まり、片方が露出した乳房には大きな傷が走っていた。
女神のように美しかった彼女の体は、今は血と狂気に染まった鬼女のように周囲の目には映ったであろう。
しかし、一人だけ・・・ティニーには自分の想いのために傷ついていく一人の少女の姿として見えていた。

「セティ殿・・・覚悟はいいですか・・・?」
セティは完全に戦闘力を失っていた。
全身が自分の物ではないように言う事を利かない。
燃える様に傷口が熱い。
立ち上がれない。
イシュタルの言葉に対抗する手段を得られない・・・


「だめえぇぇ―――っ!!やめて!イシュタルお姉様!!」
振りかざされたイシュタルの右手を見て、ティニーは二人に向かって駆け出した。
自分の最愛の人たちの戦いを、これ以上は見ていられなかった。
そして、イシュタルがセティを殺す事を止めなくてはならなかった。

「ティニー・・・」
イシュタルは振り上げた右手をかざしたまま、走り寄って来るティニーを悲しみの表情で見つめる。
「セティ様!大丈夫ですか!?」
「・・・ティニー・・・うっ!」
「セティ様!しっかりして!」
「来るんじゃない!ティニー!」
自分の元に駆け寄ろうとしたティニーをセティは強く静止した。

「セティ様・・・」
「来るな・・・ティニー・・・戦いはまだ、終わってはいない・・・」
セティは傷ついた体を捩り、力の入らない手で上半身を起こそうとした。
ズキズキとした痛みがセティの全身から発せられる。
とても戦える状況にない事は、他人はおろか、自分さえ感じていた。
「無茶です!そんな体でなにができるというのですか!?」
ティニーの声は悲痛さを含んでいたが、正確にセティの無謀さを指摘していた。
それでもセティはあまりにも重く感じる体を起き上がらせ、何とか両足で地面に立った。
「私は・・・負けるわけにはいかない・・・いかないんだ・・・」
「どうして・・・どうして、セティ様!?・・・なぜ、負ける事が許されないのですか・・・?」
ティニーには分からなかった。
自分に勝ち目がなくなった事はセティも理解しているはずだった。
それにも関わらず、イシュタルに戦いを挑もうとしていることが、彼女には理解できなかった。

「ティニー!ユリウス皇子に心を捧げたイシュタル殿は敵なんだ!我々、解放軍の敵なんだ!敵は倒すしかないんだ!」
「!?」
「でも・・・イシュタル殿はティニーの大切な人だ・・・ティニーを慈しんでくれた優しい女性だ。私も彼女を助けたい!助けたいんだ!でも・・・それが叶わないのなら・・・せめて、私の手で・・・ティニーの大切な人の命を奪う。戦うしかないのなら・・・」
ティニーの大切な人の命など奪いたくはない。
だが、この状況でイシュタルと解放軍が戦えば、遅かれ早かれ、イシュタルは命を落とす事になる。
ティニーを愛する者として、他の誰かにイシュタルを殺させはしない。
他の誰かの手にかかるなら、自分の手で・・・
(自分の手で・・・イシュタル殿を倒すんだ!)


セティが瀕死の状態ながらも、戦おうとする姿にイシュタルは振り上げた右手に魔力を集中し始めた。
それを感じたティニーは、今度はイシュタルに呼びかける。
「イシュタルお姉様もやめて!お姉様もこんな戦いは望まれないはずです!もう、やめて下さい!」
自分はイシュタルの優しさを知っているから、彼女の本当の素顔を知っているから、こういう言葉を出す事は出来た。
だが、イシュタルのもう一つの顔は、あくまでその言葉を否定し続けた。
「だめなの・・・私は戦うしかないの・・・ユリウス様を倒そうとする存在がある限り、私はあの方を守るために戦う!私はユリウス様の妻だから・・・」
「え・・・お姉様・・・妻って・・・」
彼女の手の平に魔力が徐々に収束していく・・・

「ユリウス様は私の気持ちに応えてくださった。私の夢を叶えてくださった・・・ユリウス様と結ばれたい、夫婦になりたいという夢を・・・その夢を叶えてくださったユリウス様のためなら、私は戦える!貴方達を倒す事が出来る!」




(・・・分かったわ。 これから朝になったらティニーの髪を整えに来てあげる。手入れに慣れるまで、私が直に色々と教えてあげるから・・・)
(本当!?・・・うれしい!)



(・・・もう一度、歌ってもらえるかな? さっきのティニーの素晴らしい歌を聴きたいから・・・)
(セティ様・・・はい!)



なぜ、こうなってしまったのか・・・
なぜ、自分たちの大切な人達なのだ・・・
自分はこの人達にかげがえのない物をもらった。
思い出、ささやかな幸せ、ときめき・・・
自分だけでは手に入らない物を、この人達は共にくれた。
そんな二人の事が、自分は大好きで・・・
そして、大好きな二人と未来を歩いて行けると信じていた。



イシュタルの魔力が最高潮に達しようとしている。
それはセティもティニーも肌で感じていた。
その肌から感じる物が揺さぶるのは恐怖・・・
大切な人が、今まさに消え去ろうという恐怖・・・



(負けられ・・・ない・・・こんな毒に・・・せめて・・・せめてティニーを・・・安全なところまで・・・連れて行くまでは・・・)


(私は・・・君が好きだ・・・ティニー)




「イシュタル殿・・・私は負けられないんだ!」
セティも苦し紛れに魔力を集め始める。
だが、既にイシュタルは攻撃態勢を完了していた。

「セティ殿・・・覚悟!」
イシュタルの腕が回避する力が残されていないセティに向かって振り落とされる・・・




(私は・・・この人達と一緒にいたかった・・・)

「・・・もう・・・やめて・・・」

(ただ・・・それだけだったのに・・・)


「もう、やめてえええぇ―――――――――っ!!」

その時、残酷な神が世界を支配した。


シュゥゥゥゥ・・・ビリビリビリビリビリリイィィ―――!!!

何かの終わりを告げる、大きい雷撃の炸裂する音が辺りに響いた・・・



「・・・ぁ・・・私は・・・」
ティニーは夢の中にいるような感じだった。
自分の視界が急速に狭くなっていくのを知覚していた。

ふと自分が両腕を前に持っていっているのに気づいた。
まるで、何かの魔法を放った後かのように・・・
そして、その手の向いている先には、イシュタルの姿があった。
その姿がふらふらと揺れ始める。

「・・・強くなったね・・・ティニー・・・」
揺れが大きくなっていく彼女の体。
まるで力が抜けたかのようになっている。
だが、その表情は今までにない穏やかな物になっていた。
まるで、白くなっていくかのような儚げで、安らぎに満ちた笑顔。
そして、そのまま、溶け込んでいくかのような感覚さえ・・・

・・・グハッ・・・!

「えっ・・・?」

そのイシュタルの笑顔が血に染まる。
彼女の口から赤い鮮血が吐き出されていく・・・
その光景をティニーには夢の中のように見えた。
血の色に染まる視界には、現実感を感じる事が出来なかった。
しかし、これは現実である。
吐き出される血は紛れもなくイシュタルの中に流れる血であって、それを流させたのは自分なのだ・・・

「・・・私は・・・わたし・・・」
自分がなぜ、手をイシュタルに向けていたのかが分かった。
自分は大切な従姉妹に向かって、攻撃魔法のトロンを放ったのだ。
無意識にティニーから放たれた雷の光線は彼女の胸を貫き、えぐった。


「・・・イシュタルお姉様・・・イシュタルおねえさまあぁぁ―――っ!」
初めてティニーは自分がイシュタルを撃った事を自覚した。
彼女がイシュタルに向かって駆け出すと同時に、イシュタルの体が後ろ向きに崩れていく。
ティニーには、今の彼女までの距離が長く感じ、イシュタルが崩れていく様子がスローモーションのように映った。

彼女はセティを守るために、イシュタルを撃ったのであった。



「お姉様!イシュタルお姉様!」
ティニーはイシュタルの名前を連呼し、彼女の倒れた所まで辿り着いた。
既に、地面はイシュタルの大量の血が池を形成していた。
しかし、ティニーはそんなことにはお構いなく、イシュタルの体を抱きかかえた。
彼女の手も体も従姉妹の血で赤く染まっていく・・・

「ごめんなさい!・・・私・・・わたしぃっ!」
ティニーは思考の末にイシュタルにトロンを放ったのではない。
ただセティの命が危険に晒されているのを感じた時、体が勝手に反応しただけだった。
だが、そんな事はティニーには関係がない。
自分がイシュタルに手を下した理由になどにはならない。
大切なイシュタルを、自分を常に守り、愛してくれたイシュタルを自分は・・・

なにを言っていいのか分からない。
頭の中が真っ白になって、言葉が分からなくなっている。
自分の事も、周りに状況も理解できなくなっている。
今の彼女に感じる事が出来るのは、自分の犯した過ちと、イシュタルの命の灯が急速に消えようとしている事だった。


だけど、イシュタルの表情は、決して痛みを訴えているわけでも、ティニーを非難している訳でもなかった。
今の彼女の表情は安らかな、そして全てを受け入れるかのような笑顔が浮かんでいた。
「ティニー・・・いいの・・・これでいいの・・・」
口の端から流れ出す血に似合わない彼女の美声がティニーの耳に届く。
「イシュタルお姉様?」
「・・・貴方は自分の大切な人を・・・セティ殿の命を守るために、当然の事をしただけなのだから・・・だから・・・謝る事は・・・ないの・・・」
優しい声でティニーに語り掛けるイシュタルは雷神の顔ではなかった。
あくまで、ティニーを大切にしてきた本当のイシュタルの顔になっていた。
「そんなこと!・・・セティ様を守るためとは言え・・・私はお姉様を・・・!」
「気にしないで・・・ティニー・・・これも運命なのだから・・・」
「・・・運命って・・・?」
徐々に弱まってくるイシュタルの息・・・
彼女達の周りには傷ついたセティも寄ってきていた。

「・・・私はユリウス様を守りたかった・・・まだ、人としての心が残っているユリウス様に尽くしたかった・・・それが私の愛の形だから・・・そして、彼を救えなかった私の罪の償い方だと思ったから・・・」
ティニーにはイシュタルの想いの全てを知り事はできなかった。
あのバーハラの脱出の際に分かれてから、イシュタルに何が起きたのかを知らなかった。
それから後、イシュタルにユリウスに殉じさせる事を決断させる何かがユリウスとイシュタルの間で起きた事は確かであろう。
ユリウスへの想いの強さと、愛する者を守ろうとした彼女の健気さと強さをティニーは惹かれる物を感じ、その想いが、イシュタルを苦しめ、この様な悲しき戦いに発展したのだと考えると歯がゆくもあった。

イシュタルの右手がゆるゆると上がっていき、ティニーの頬に添えられる。
血塗られた手は、ティニーの頬まで赤く染める。
「ごめんね・・・ティニー・・・あなたには辛い思いばかりさせてしまって・・・でも、これからは幸せになってね・・・」
徐々にイシュタルの視線が虚ろになってくる・・・
「そんな・・・お姉様・・・私はお姉様と一緒に・・・」
「ごめんなさい・・・もう、私も限界みたい・・・」
「ダメ!・・・お願い・・・お姉様!」
「イシュタル殿!」
傷ついた体を引きずりながら、セティもイシュタルに呼びかける。
たとえ、彼女を倒すために戦いを挑んだとは言え、今こうして彼女が死に絶えようとしているのは耐えられない。
先ほどまで戦ってきた彼に対しても、イシュタルの表情はあくまで穏やかであった。
「セティ殿・・・貴方にお願いしたい事があります・・・ティニーを・・・ずっと守ってあげて欲しい・・・この子を幸せにしてください・・・」
イシュタルは最後までティニーの事を想っているのが、セティには痛いほど分かった。
彼女はユリウスのために尽くしながらも、最後の最後までティニーの将来を心配してくれている。
今のセティにはイシュタルに応える必要があった。
「・・・はい、イシュタル殿・・・先ほどと同じように誓えます。ティニーを必ず守り、そして幸せにする事を・・・」
「・・・その言葉を聞いて・・・安心しました・・・」

イシュタルの視線がティニーに戻り、そして、ゆっくりと閉じられていく。
「お姉様!お願い!死なないで・・・」
「ごめんね・・もう、ティニーの顔もよく分からなくなっているの・・・でも、あなたの暖かさはこうして手の平で感じる事ができる・・・私は・・・最後に・・・あなたと一緒に・・・」
言葉が途切れる共に、イシュタルの目は完全に閉じられた。
だが、イシュタルの右手は最後までティニーの頬に添えられていた。
彼女の存在を最後まで感じていたいかのように・・・


「お姉様・・・死なないでえぇっ!」

ティニーの声もイシュタルに届いておらず、彼女の旅立ちを止める事はできなかった。

もう一度、イシュタルの目が開かれた。
その視線は誰か探しているかのように宙を彷徨う。


「・・・ユリウス様・・・私は・・・」


それがイシュタルの最後の言葉となった・・・
ティニーの頬に添えられた手が、糸が切れたかのように地面に落ちた。



「・・・お姉様・・・?イシュタルお姉様・・・?」
彼女の表情は安らかであり、ただ寝ているだけの様に見える。
だが、ティニーの問いかけに彼女が応える事はもう出来ないのだ。

「!?・・・うそ・・・嘘ですよね・・・お姉様・・・イシュタルお姉様!?」
体の全ての熱が消え去ったかのような身も凍る恐怖と世界が暗闇に包まれたかのような絶望がティニーに襲い掛かってくる。

「・・・いや・・・いやっ!・・・お姉様!」
頭の中が真っ白になる。
いや、真っ白になってもらって構わない。
イシュタルが死んだ事など認めたくなかった。
自分がイシュタルを殺したことなど耐えられなかった。

「いやああああああぁぁぁ―――――――・・・」

全ての事実に目を背けたかった・・・
泣き叫び、頭を振り、苦しみに悶えた。
だが、苦しみは消える事はない。
時間が経つにつれ、自分の腕の中のイシュタルの体が冷たくなっていくを感じていたからだ。

ティニーはイシュタルの死に絶えられず、いつまでも泣き続けた。
そしてセティも、解放軍の仲間達も・・・ティニーに声を掛ける事は出来なかった。

 

 

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