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第二章 アグスティへの道
アグストリア諸侯連合の盟主シャガールが命じたハイライン王国軍によるノディオン征伐はエバンス城に駐留するグランベル軍の介入により失敗に終わった。
グランベル王国国王アズムールはアグストリア内部の不穏な空気を察し、エバンス城のシグルドに事が起きた際には穏健派のノディオン国王エルトシャンの身とノディオンの安全を守るように勅命を出していた。
その勅命を得ていたため、シグルドは親友とその妹の危急にいち早く出撃する事ができたのだった。
シグルドはラケシスと協議をし、エルトシャン救出するためにアグストリア内に兵を進める事で合意した。
王妹であるラケシスにとっても、ノディオンの王家の臣下、臣民にとっても、アグストリア盟主であるシャガールより、自分達の直接の王であるエルトシャンを選ぶのは当然の事だった。
これによりグランベル・ノディオンは共同してアグスティに幽閉されたエルトシャン奪回に動く事になる。
だが、これによりグランベルとアグストリア、ユグドラル大陸を代表する二大勢力は全面戦争に突入していく事になるのであった。
その日の夜。
シグルドとの会談を終えた後、ラケシスは城下の中央広場へと向かった。
そこに置かれた多くの天幕の中には今回の戦いで傷つき、倒れていった戦士たちの亡骸が安置されていた。
倒れていった者たちの友や家族、そして恋人たちの悲しみとやるせなさが溢れ返っていた。
長年連れ添った夫の変わり果てた姿に涙する妻、自分の息子の死に呆然とする父親、そして自らの薬指にはめられた指輪を数週間後に結婚するはずだった彼の前に見せて語りかける悲しい目をした少女。
ラケシスが初めて目にする戦争の悲しさがここにはあった。
思わず目を背けたくなる現実。
しかし、彼女は勤めを果たさなくてはならない。
ノディオンを統治する王族として、この国を救うために戦って散った者達を労い、送らなければならないのだ。
だが、それで死んだ人々が生き返るわけでもなければ、残された者の悲しみが晴れるわけでもなかった。
並んだ棺と遺族たちの前で慰問の言葉を続けるラケシスであったが、虚しさに包まれてしまっていた。
その後、ラケシスは教会へと向かう。
昨夜と同じように今も傷病兵を収容し、治療が行われていた。
今まで以上の負傷者が運び込まれていたが、今回はグランベル軍の高位回復魔法を使いこなすプリースト達の活躍で多くの兵士たちが命をとり止め、また痛みから解放されていった。
ラケシスも初歩的な回復魔法を使えるため、負傷者の回復に加わる。
魔法を唱え兵士達が回復する姿を見ながら、彼女は喜ぶ反面、これから続く戦いで再び多くの者が傷つく事に悲しみを感じていた。
「あ、久しぶりね!ラケシス!」
明るく、闊達な声を後ろから掛けられたのは、腕に矢を受けた青年騎士にライブを掛けて立ち上がろうとした時だった。
この声を聞くのはラケシスにとって実に数年ぶりだった。
「あ、あなたは・・・エスリン様!」
振り返るラケシスの顔は喜びに満ち溢れている。
長い桃色の髪を後ろで結わいでいる、この優しげな、そして愛らしい笑顔が印象的な女性はエスリンという名だった。
エスリンは遠くトラキア半島マンスター地方にあるレンスター王国の王子キュアンの妻であり、またグランベル王家シアルフィ公爵家公子であるシグルドの妹でもある女性だった。
キュアンとシグルドはバーハラにある士官学校時代、留学していたエルトシャンと親友である男達であって、その妻であり妹でもあるエスリンとはラケシスも数度会っていた。
聖戦士の血筋を引く由緒正しいシアルフィ公家の姫であり、同じく聖戦士の血筋を引く武勇の誉れ高いレンスター王家に嫁いだ彼女だが、気取ったところがなく、人当たりのいい明るい性格で人々の評判も良かった。
757年に起きたグランベル・ヴェルダン紛争において、戦いに巻き込まれた兄シグルドの危機を助けるため、夫キュアンと共に馳せ参じたのだった。
そして今も、シグルドと行動を共にしており、今回のノディオン救援にも活躍していたのだった。
「エスリン様、この度はなんと御礼を言えば良いのか・・・」
ラケシスは神妙な表情でエスリンに礼を述べる。
彼女もエスリンに対しては敬愛の念を抱いていた。
彼女は今、一児の母であり、その苦労もあるのに夫キュアンと共に戦い続けている。
また、自分を偽らず、多くの人たちと心から交流できる女性だった。
女性の魅力を全て持っているようにさえ、ラケシスには思えた。
「何を言っているのよ。私やキュアン、そして兄上にとってノディオンのエルトシャンとその妹ラケシスはとても大切な存在。あなた達の危機に黙って見ていることなんて私達には出来なかったわ。でも、本当にあなたが無事で良かった・・・」
エスリンの明るい笑顔は人を包み込む・・・
エルトシャンとの結婚式に初めて出会ったエスリンを見た際に頭の中に思い浮かべた印象が蘇る。
まるで年端もいかぬ無垢な少女のような、そして温もりを持つ母親のような笑顔は見つめられた人を温かな気持ちでいっぱいにさせる。
なぜ、この人はこんなに包容力があるのだろうか?
「あ、フィン!こっちにいらっしゃい!」
エスリンがラケシスの後ろに誰かの姿を見つけると、その人物に呼びかける。
ラケシスも振り返ると、青髪の青年がエスリンの呼びかけに応じてこちらに向かってくるのが見えた。
「エスリン様、何か御用ですか?あ、あなたは・・・」
彼はラケシスの姿を見て、恐縮していた。
「またお会いしましたわね。先ほどは私の危機を救ってくださり、ありがとうございました」
彼、フィンにラケシスはエリオットに追い詰められていた時に助けてもらっている。
あの絶体絶命という言葉が正しい状況で、フィンは類まれな槍術で敵を薙ぎ払ってくれたのだ。
(そして私は助かる事ができた・・・それで・・・)
途端ぬいラケシスは僅かに頬を赤らめる。
自分は窮地から脱した時、この人の前で情けない姿を晒してしまっていた。
今まで誰かの前で、エルトシャンにすら涙はあまり見せたことがなかったというのに。
一方、フィンは彼なりに頬を赤くしている。
彼の場合は絶世の美姫であるラケシスに抱きつかれて、涙を流すのに胸を貸したと言う事に対してである。
それがラケシスというプリンセスだったからもあるが、女性なら誰でも同じように赤面したであろう。
彼は女性という存在に慣れていない。
エスリンはエスリンで顔に赤みが出た二人を見比べながら「?」という顔をしている。
フィンに関しては・・・
(ノディオンの姫であるラケシスの気品と愛らしさの前に顔を真っ赤にしているのね。まったく、いつまで年端も行かぬ少年みたいな反応しているのよ!少しは女性の前に出ることに慣れなさいよね!)
・・・という程度の事だから問題ないだろうと思っている。
だが、ラケシスの赤面の原因は分からない。
フィンがラケシスを助けたのは知っているので、その時に
(何か、彼女の恥ずかしい姿をフィンに見られたのかしら?)
と憶測するしかなかった。
だが、それ以上に興味が湧く事がなかったので、そのまま話を進める。
「ラケシス、あなたは既に一度会っているわよね?この男はフィンと言って、今はレンスターの一介の騎士に過ぎないけど、将来はランスリッター(レンスター王国の誇る精鋭槍騎士団)の副団長ぐらいにはなる男よ」
とんでもない紹介のされ方をして生真面目なフィンは彼女をたしなめる。
「エスリン様!私はそんな器ではありません!先日、やっと騎士の叙任を受けたばかりだというのに・・・」
フィンはヴェルダン侵攻の際にキュアンと共にシグルド軍支援に向かった時は、まだ騎士見習いであったが、対ヴェルダン戦での戦功が認められ、晴れて半月ほど前に正騎士となったばかりであった。
「何を言っているのよ。正騎士になったのだって、あなたの実力から言えば遅いぐらいなんだから。それにラケシスがハイラインのエリオットと敵兵に囲まれている時に一人で踊りこんで全員倒したぐらいだから・・・あなたは既にノヴァの紋章に相応しいレンスターの騎士よ」
「エスリン様・・・私はまだ学ぶべき物が多い身です。そのお言葉はいずれ相応しき功と力を手に入れた際に改めて頂きたく思います」
そう答えたフィンをエスリンは「本当に真面目なんだから・・・」と苦笑していた。
ラケシスは二人の会話を聞きながら、フィンの戦い振りを思い出していた。
力強いながらも、繊細で流れるような滑らかな槍捌き。
槍の間合いを活かすための位置取りと動き。
何より多数の敵の動きを冷静に見つめ、読んだ目。
実戦の経験は皆無だが、ラケシスも剣を初め、武術を習得している。
多くの稽古試合を経験し黒騎士ヘズルの血も助けてか、剣の扱いにおいても素晴らしい才能を発揮しつつあるラケシスにとっては彼の見せた戦いは大いに色々な事を見るべきものがあった。
彼に泣き叫んだ姿を晒した事は忘れて、ラケシスは頭の中でフィンの戦い方を思い出し、回想しようとしていた。
「そうだ、さっきキュアンと兄上が話し合って決まった事だけど、私達の中でノディオンに残留するのは・・・フィン、あなたに決まったわ・・・」
その言葉にフィンは驚き、ラケシスは思い出しように「あ・・・」と声を出した。
実は先ほど行われたシグルド軍首脳とノディオン側との協議の中で様々な事が話し合われた
エリオットは撃破したものの、いまだハイライン軍フィリップ将軍率いる部隊が国境にあってノディオン城を窺っていた。
また、国王ボルドーを抑えなければ王都アグスティに向かってエルトシャンを助けられない以上、ハイラインを叩く必要があったのだ。
そのため、シグルド軍はこのままハイラインに向かって出撃し、ボルドー、フィリップ攻撃に向かう事になったが、問題があった。
ノディオンの北にはマッキリー王国のクレメントが、そしてその奥には自分達の目的地アグストリアの王都アグスティがある。
ノディオン軍がクロスナイツ不在の上、ハイライン軍との戦いで消耗している以上、シグルド軍がハイライン向かったら、これらから攻撃を受ける事が予想された。
そのためシグルド軍の一部をノディオンに残らせて、守備に当てる事が話し合いの末、決まっていた。
「そこでキュアンと兄上が話し合って、キュアンのレンスター部隊から半数がノディオンに残留する事になったの。そして、その部隊をあなたに委ねるってキュアンは言っていたわ」
激しくフィンは反応を見せる。
「わ、私はまだ、騎士になったばかりの若造です。その私などが一部隊の指揮を任されるなんて・・・」
「あなたの将来性を買っての事よ。私もキュアンもあなたには期待しているの。今までは私達の側にずっといたけど、これからは私たちから離れて、そして責任ある立場という今までとは違う状況で自分を磨いて欲しいの」
この会話を聞きながら、ラケシスはキュアンとエスリンがいかにフィンを大事にしているのかが分かった。
それにしても、このフィンと言う若き騎士がノディオンに残るとは・・・
「ラケシス、フィンはまだ若いけど、槍を取ればキュアン以外に負ける事はないし、兵法に関してもレンスター軍の各将軍からも一目置かれるほど学んでいるのだから、頼りになるわよ」
ラケシスを顧みて、エスリンはフィンを誇らしげに語る。
出来のいい弟を紹介したく仕方がない姉のようにさえ見える。
フィンはエスリンに反論し、ラケシスは再び二人の様子を見ながら物思いにふけった。
ラケシスは今回のシグルド軍が一部駐留という事は了承していたので、その事には異存はないが、フィンと言う事に戸惑いはあった。
この若さで一部隊を指揮して本当に大丈夫なのか?実戦経験が決して多いわけでもないだろう。それに一介の騎士・・・
だが、そこまで頭の中で言葉を続けた彼女は思わず苦笑してしまった。
(私、何考えているのかしら?戦いの経験もなく、王族というだけで城の者達全員の命を預かっていたの他の誰でもない・・・私じゃない。それが戦いを定めとする騎士に不平を覚えるなんて・・・私って愚かね)
そう自分が思った事を押さえ込み、ラケシスはフィンと向き合う。
「フィン様、ありがとうございます。このノディオンを守るために力をお貸しください」
さすがのフィンも一国の姫であるラケシスにまで頼まれたとなると、これ以上の反論は出来ないと納得せざるを得なかった。
こうして、ノディオンにラケシスとフィンは残され、シグルドを初めとする者達はハイラインとの国境に向かっていく事になった。
ハイライン軍とシグルド軍の戦いは終始、シグルド軍が圧倒する形となった。
国境沿いに展開していたフィリップ将軍率いる装甲歩兵軍団もシグルド軍の騎兵突撃の前に完膚なきまで叩かれ、突破を許す事になった。
そしてシグルド軍は一気にハイライン城まで殺到、ハイライン国王ボルドーを撃破することに成功した。
だが、ここで思わぬ事態に遭遇する事になった。
ハイラインの北、アンフォニー王国のマクベス王が軍勢を南下させてきたのだった。
ここまではシグルド軍も予想は出来ていて、ハイライン城北方、つまりノディオンからあまり離れていない地点でアンフォニー軍を迎撃しようと考えていた。
だが、マクベス王は強欲な男で、このアグストリアが混乱しているうちに、周辺の多くの集落、街を盗賊と偽って攻撃し、略奪を繰り返していたのだった。
当然、襲われる側の人間はアンフォニー王国に助けを求める事ができなかったため、逆にシグルド軍に助けを求めてきたのだった。
シグルド軍にしても、襲われている人々の願いは断る事ができず、北方に向かって進撃し村落の救援、及び、マクベス王を倒す必要に迫られたのだった。
こうしてシグルド軍はノディオンから徐々に引き離されていった。
フィンはノディオン城にいる間、いつもこの国の騎士達、兵士達に囲まれていた。
何故かと言うと、フィンは彼らから槍術を披露してくれる様、毎日のようにせがまれていたのが原因である。
騎士の国アグストリアの中でも特に高い実力を持つクロスナイツを持つノディオンでは武術が盛んであった。
だが、比較的剣に対する造詣が深いためか、槍などに関しては控えめな印象がある。
それに比べ、レンスター王国は十二聖戦士・槍騎士ノヴァを始祖として持つためか、大陸一槍術が発達している国だった。
この国の騎士が自分達の城にいるのだ、ノディオンの戦士たちは興味と向学のために見てみたいとの衝動に駆られた。
そのため、機会を見つけてはフィンに頼み込み、彼の槍術の実演をしてもらっているのだった。
ラケシスが中央広場に設置されたフィンの率いる部隊の簡易の兵舎で彼を囲む人の群れを見たのは、昼食を食べて、一休みしようとしている昼下がりの事だった。
ここ数日、ラケシスは戦いの事後処理とノディオンの守りを固めるための準備で寝る間も惜しんで働いていた。
夜遅くまでの書類や会議と格闘し、少し休んだら、朝早くから城の修繕やら軍の再編成の様子を見ていた。
そのためここ数日間でほんの僅かしか眠っていないという状況であった。
皆は急用を進めたが、ラケシスは固辞して自らに激務を課していた。
責任感が厚い為でもあるだろうが、一人になるとエルトシャンの事が心配で身が引き裂かれそうな思いに苛まれるのを避けたいという個人的な感情も関係していた。
しかし、彼女のそんな過酷な行動に対応できるほど強くはなく、次第に健康を害していった。
そんな状態のラケシスはつい先ほど南門の修理の様子を視察し終え、食事を取るために戻っていく途中の出来事であった。
フィンはここ数日、同じように槍を披露する事をせがまれていて、少々うんざりとしていたが、それも途中から新たなる楽しみを得るようになる。
見物していた騎士達から練習のためとして試合を申し込まれたからであった。
今まで一人で虚しく槍を振るっていたフィンも思わず笑みが漏れていた。
彼らにしても、フィンにしても、自分達の実力がどれ程のものか?試してみたくなったのであろう。
しかも、それぞれの騎士たちが所属する国家は広大なユグドラル大陸の東西両端に近い位置関係であり、互いの実力については殆ど知らなかった。
そのため、模擬戦闘方式の試合で相手を見、自分を測ろうとしただった。
ラケシスがそんな一団の姿を見て、何事か?と疑問に思って側近たちと一緒に向かった。
だが、彼女が到着した途端に見えた風景はノディオンの騎士がフィンの突きを胸当てに受けて飛ばされている姿だった。
「す、凄い・・・これで三人目だぞ・・・」
取り巻きである兵士の一人がそう呟く。
既にフィンに対して二人が勝負を挑み、そして負けていた。
三人の騎士を軽く倒した事に周囲の者達は驚いたが、そのどよめきを聞いたラケシスは特に意外に思わなかった。
彼女自身、目の前でフィンが十人以上の敵を打ち倒す姿をみているのだから。
恐らく、ノディオンにおいてこの青髪の槍騎士に対抗できるのはエルトシャンを抜かせばイーヴ、エヴァ、アルヴァの三兄弟ぐらいであろう。
ラケシスは一歩前に出て、フィンの前に現れる。
「さすがですわね。フィン様」
「あ、これはラケシス様・・・」
試合を行った後のため、僅かに息が上がった状態でフィンはラケシスと話す事になった。
ほんのり顔が赤いのは体を動かした後だから?それとも、再びラケシスを前にして臆しているのか?
「素晴らしい腕前ですわね。私はノディオンの騎士達を誇りに思い、力も信用していますが、さすが貴方がお相手では荷が重たかったようですわね」
別に皮肉を言ったつもりはない。
純粋にラケシスはフィンの実力を褒めたのだった。
だが、フィンはあくまで謙虚であった。
「いえ、どの試合も僅差で、しかも運良く勝てたものでした。どなたも素晴らしい技術と力を持っておられるのですね。さすが騎士の国アグストリアですね」
三連続で圧勝した男が何を言うか、という印象もあったが、フィンは内心からそう思っていた。
それはラケシスも分かっている。この青年の目を見れば心にもないことをお世辞で言う事はないと感じていたからだ。
「さて、私は定時偵察に行きますので、これにて・・・」
フィンの部隊やノディオン残存軍は交代でノディオン平野の偵察を行っていた。
それに出かけようと、彼は今まで試合に使っていた穂先のない練習用の槍を片付けると見るからに勇壮な槍を取り出す。
豪華な装飾はされてはいないが、素朴で力強い印象を与える戦のための槍である。
「その槍は・・・?」
「あ、この槍ですか・・・」
この槍は無名であったが、代々のレンスターの勇者たちが使い、受け継がれたものだったため、何時の間にか「勇者の槍」と呼ばれ、若き騎士達の憧れであった。
この槍をフィンはシグルド軍がノディオンを発つ前日にキュアンに呼び出され、渡されたのだった。
それは、いかにキュアンがフィンを大事にし、彼の将来への期待がどれだけ大きいかを物語っているだろう。
ラケシスにしてはノディオンでは決して見る事はできないだろう名槍に目を奪われていた。
「素晴らしい槍ですわね・・・少し手に取らせて頂いても宜しいでしょうか?」
可憐な姫だとしても、武勇を尊ぶ王室の人間であることには変わりない。
自らの体に流れる偉大なる戦士の血が槍への興味を誘っていた。
「あ、どうぞ・・・」
ラケシスに槍を差し出すフィン。
フィンの鼻には近づいてきたラケシスの優雅で清らかな香りが鼻につく。
その香りに釣られて彼は、自分の手が届く距離に接近したラケシスを見つめてみる。
小さく整った顔立ち、つぶらで大きな瞳、流れるようで煌びやか髪。
(・・・・・・美しい・・・)
女性とあまり接した事がないフィンが初めて感じる異性の魅力。
ラケシスの美しさはこの無骨な青年に新たな感覚を目覚めさせていた。
だが、フィンから槍を受け取った彼女に異変が起きた、
「あ・・・とても重いのですね・・・あ、あら・・・?」
まるで手に取った槍の重さに引き寄せられるようにラケシスの体が前へと倒れていく。
無論、最初にラケシスの異常を感じ取ったのは目の前のフィンだった。
「あ、危ない・・・」
言葉と行動はフィンの中で反射的に出たものになった。
自らの手を伸ばして倒れる彼女の体を支え上げようとする。
フィンの反射神経の良さか、彼女の体は地面に落ちる前に宙で助け出された。
「ら、ラケシス様!!大丈夫ですか!?」
側近や騎士達はラケシスが倒れていくのを見て叫んでいた。
周りの動揺は大きいものがあったが、フィンの動揺はさらに大きい。
この姫と体を触れ合ったのはこれで二回目。
あの時は戦いという緊張の中での出来事であったが、その記憶もフラッシュバックして、今回の接触はさらに彼にとっては顔が赤くなる。
だが、今回はラケシスの大事と言う事があり、恥ずかしさを覆いかぶして行動する勇気を出さねばならなかった。
「誰か!?医者とプリーストを!!あと、とりあえず天幕の中にお運びするから・・・・・・」
「おいラケシス・・・ラケシス」
「ぅうん・・・・・・あ・・・」
透き通る様で精悍な声が自分を呼ぶ。
自分はこの声を忘れた事がない。
この声で呼び掛けられたら、何を置いても振り返る。
今、この声を持つ人を見ている事が何よりの自分の幸せ。
ノディオンの姫たる者、馬に乗れない訳にはいかない。
自分はノディオン王室に入った時から、欠かさず乗馬の練習を重ねてきた。
彼女自身、覚えが悪い事はなく、むしろ上達は早い方であったが何度も馬から振り落とされる経験をしていた。
こう言う事に関しては、か弱い少女であろうが容赦がないのは騎士の国アグストリア・ノディオン王国の国柄というべきか?
ラケシスが落ちても、倒れても、決してやめさせる事はなかった。
しかし、それは一刻も早くノディオン王室の一員に名実共なれる事に志しているこの少女には侮辱以外の何物でもないのかもしれない。
彼女は『エルトシャンの妹』に相応しい存在になれる道を逃げた事はないのだから。
この時もラケシスは騎乗して馬を何とか走らせていたが、一本の丸太を越えようとした際に誤って、馬から落とされてしまった。
しかも、頭からだったので意識が飛んでしまう状況になった。
真っ白になってしまった光景の中で自分を呼ぶ愛しき人の声。
この声に彼女は色彩豊かな世界への回帰を果たす。
「大丈夫か?ラケシス・・・」
目を開けるとそこには自分と同じ美しくも豪奢な髪を持つ青年が自分を覗き込んでいてくれていた。
目の前ではなく、今度は頭の中が真っ白になる。
朝、数え切れないほど顔を会わす事を繰り返しても慣れない。
自分の頬が、瞳が熱くなり、心臓が高鳴るのを感じる。
今、自分はどんな顔をしているのだろうか?
「おい、大丈夫なのか?」
「・・・はい、大丈夫です。お兄様・・・」
頭に鈍い痛みの波が残っているが、立ち上がるのには支障はない。
そう思った彼女は立ち上がろうとしたが、エルトシャンはそれを制する。
「無理をするな。確かに馬に乗れない訳にはいかないが、それで体を壊しては本末転倒だぞ」
「でも・・・」
「鍛錬はいくらでもしろ。馬から何度落ちようが挑戦しろ。だが、怪我をしてまで鍛錬をする必要もなければ、そこまで急ぐ必要もないさ」
「・・・はい・・・すいません・・・」
自分は彼に急いているように見えたのであろうか?
自分でも分かっていた。いや、乗馬に関してだけではないが、自分を磨こうとするあまりゆとりがなかったのかもしれない。
確かにエルトシャンの近くにいたい。早く側にいる事が相応しい女になりたい。
だけど、それで自分を潰すのは愚かな事だろう。
ラケシスを戒めたエルトシャンは優しい顔になる。
「さあ・・・傷の治療をした方がいい。ああ、可愛い顔が台無しだぞ。それに頭にはコブまで作って・・・」
彼はラケシスが転落した際に打ち、膨らんだ頭の右頂部に水で濡らして来た手拭いを当て、そして顔に出来た小さな擦り傷には自らの手で薬を塗ってあげた。
恥ずかしくて、自分が情けなくて、しかし嬉しい。
そんな何気ない、ラケシスにとっては幸せな兄との日々。
ラケシスは近くにあるフィンの部隊の天幕内に運び込まれた。
何か原因か分からない以上、みだりに体を動かすのは危険と思われたからだ。
そのため、すぐ近くにあったテントに急ぎ運びこまれて横になった。
その後、あまり魔を置かずして医師とプリーストが駆けつけ、ラケシスを診た。
日頃の疲れと軽い貧血が重なっただけで、それほどの大事ではないと医師は話していたが、念のため軽い回復魔法を掛けて様子を見ることにした。
本当は王宮に移したかったが、ここから王宮までの間には市街地が続いている。
ラケシスが意識がないまま王宮に運ばれたとしたら、市民たちに動揺が広がる事は避けられないだろう。
この非常時にそれだけは避けたかったため、意識が回復するまでここで治療を続けるというのはどうか?と側近たちは提案する
幸い、彼女の意識が戻るまでそれほどの時間が掛かるとも思われなかったので、しばらくここで休ませる事になった。
フィンにしてもラケシスが倒れた事に驚愕したが、それほどの大事にもならない様子だったので一安心した。
自分達が寝泊りしている所を提供した後、彼は一度、部隊を率いてノディオン城を出て、マッキリー国境への偵察に出かけた。
特に以上は見られなかったので、夕刻にはノディオン城に帰還して、自分達の宿舎に戻っていった。
しかし、そこにはまだ意識が回復していないラケシスがまだ残されていた。
既に彼女の意識が回復して王宮へと戻っていると思っていたフィンは驚き、そして彼女の容態が想像以上に重いのではないか?という懸念に晒された。
フィンも心配であったため、ラケシスが横になっている天幕の中へと入る。
そこでは冷汗をかきながらラケシスに治療を続ける医師の姿があった。
自分の診察内容に自信はあるだろうが、ここまで目覚めないのは予想外であったのだろう。
医師は一度、薬を取りに戻るためフィンにこの場の事を頼んで外へと出て行く。
他の側近たちは外で武官・文官たちと何やら相談していた。
ラケシスの代わりに代理として応急に必要な指示を出しているのであろう。
そのため天幕の中にはラケシスとフィンの二人が残される事になった。
それぞれが忙しいとはいえ、王女と他国の騎士を残したまま他の用事に向かう事は非難の対象であるだろうが、これもレンスター王国とその旗を仰ぐ騎士への信頼、そしてこの数日間で積み上げたフィンの誠実さの証明がこのような状況を生む事になったのかもしれない。
フィンは何かできると言うわけではないが、とりあえずラケシスの額に添えられている手拭いを再び水に湿らす。
今のラケシスはドレスではなく、騎士達と同じように動きやすい服装になっていた。
ラケシスを少し楽にするためか、襟から胸元の近くまで開けられていた。
出来るだけ、出来るだけ見ない様に意識はしているが、目のやり場に困っている事には変わりはない。
このユグドラル大陸には『際どい』と感じる服装をした女子はたくさんいるというのに、未だに青年になったフィンにはさして刺激的とも思えないこの光景に赤面している。
ふと、気づく。
自分はラケシスの前でいつも赤面している事を。
確かに自分は世間慣れしていない。
女性の前だとよく赤面してしまう。
エスリンに茶化されて、恥ずかしくて堪らないこともある。
それでもいつもと言う事はない。
だけど、この御方、ノディオン王国ラケシス王女の前ではいつも赤くなった自分を晒してしまう。
何故なのか?この方が美しいからか?それで圧倒されているからなのか?
分からない。
考えてみても、自分の経験から似たような事例を探しても見つからない。
自分に何が起こっているというのか?
「ううっ・・・ん・・・」
一人悩むフィンの耳にラケシスの呼吸以外の吐息が耳に入る。
気づいたフィンがラケシスに顔を向けると、彼女が薄目を開けていた。
「あ、ラケシス様?大丈夫ですか?」
フィンが声を掛けるとラケシスの目ははっきりと開いて、右に左に泳いで周囲を見渡す。
「あ・・・あら?ここは一体・・・」
「ここは我々の宿舎です」
フィンは簡単に彼女に事情を説明した。
納得したラケシスであったが、同時に自らが倒れた事で皆に恥を掛けた事を恥じた。
「皆に迷惑を掛けてしまったのね・・・フィン、あなたにも・・・申し訳ありません」
「いえ、私の事は御気になさらずに。それよりもお疲れなのではないですか?御体を大事になさってください」
フィンにしては純粋にラケシスを心配した発言であり、倒れた者に対する常識的な声掛けであろう。
それを受けたラケシスは一度目を瞑って何かを思うと、再び目を開けた。
「いえ、私は大丈夫です。今はノディオンが重大な困難に直面している時期です。私が一人で休んでいるわけには・・・」
「この重要な時期だからこそ、御体を大事にしなければならないでしょう。貴方に倒れられたらノディオンは要を失います。忙しい事は重々承知していますが、少しでも御休みになりませんと・・・」
「・・・・・・休んだら・・・私・・・」
いつもラケシスらしくない、いや、フィンの中にある彼女のイメージに合わないほどの小さな呟きで何かを口走っている。
きょとんとした表情をしたフィンを見たのか、ラケシスは他人の前で自分の世界に入りかけていた自分に気づいた。
「あ、いえ・・・何でもありません」
少し、バツの悪そうな表情を彼女は見せる。
「でも・・・確かに少し休んだ方が良いかもしれませんわね」
あまり自分が切なくなる事が嫌だからといって、無理をして、そして皆を困らせるのはあまりに愚かしいことであろう。
多くの者に責任ある者の立場とは意外に不自由なものだ。
それを重荷に感じても自分が逃げることが出来ない以上、自分はいくらか自分を大事にしなければならない。
「分かりました。私はこのまま城に戻って休みます。フィン、改めてご迷惑をお掛けしました」
フィンはラケシスが休みという言葉を出したことに胸を撫で下ろす。
いくらか顔色が悪いものの、彼女らしい気品と気丈さが微妙なバランスで共有した表情に戻っていた。
(あ・・・まただ・・・)
自分の頬に熱が帯びてくる、あの感覚。
いい加減慣れてもいいものをと、歯痒く思う。
(・・・何に慣れると言うのだ?)
ラケシスは身を整えると、立ち上がり、外に出て行こうとしていた。
その時、フィンは一言声を掛けたが、その一言が彼女に変化を与えた。
「今が大事な時です。我々もできる限りの事は致しますので、必ずやエルトシャン陛下をお助けしましょう」
彼の一言にラケシスの背中がビクッと震える。
それを見たフィンは何事かと思ったが、彼女の体の震えは止まらない。
フィンが、そしてラケシス自身が、それが泣いているのだと気づくのには数秒が必要だった。
「あ・・・あの・・・」
「いえ、気にされないでください・・・」
後ろからなので、彼女の涙と表情は分からないが、想像するだけで胸が苦しい。
この人の涙を見る事は2回目だが、彼はもう二度と見たくないと思っていた。
しかし、エルトシャンの名を聞いただけで、この反応。
いかにラケシスが兄エルトシャンを大切に思っているかがよく分かる。
一方、ラケシスにとっては非常に脆くなっている状態の時に槌を打たれた印象であった。
只でさえ、エルトシャンの安否が心配である今この時。
彼との思い出を夢で蘇らせてしまい、さらにせつなくなる。
目が覚めて、どうにか押さえ込もうと、誰かの前では見せたくなかった自分の素顔は愛しい人の名を聞いただけでろしゅつを余儀なくされてしまった。
そんな自分が情けなくて、悲しくて。
でも、何か、このままじゃいけないと何故か考えていた。
「ごめんなさい。もう大丈夫です」
だが、彼女はいつまでも泣き続ける少女ではない。
すぐにいつもの気高い姫の表情に戻る事ができていた。
「いえ、私こそ・・・」
また、自分の恥ずかしい姿を他人に見せてしまった。
これほどエルトシャンにいない環境に弱い事をラケシスはこの数週間で何度も思い知らされていた。
部屋で何度もなく事もあった。
だが、エルトシャンの事で泣いた姿を他人に見せたのは初めてであったために、さらに恥ずかしさが増大していた。
(それにしても・・・この方に二回も涙を見せてしまうなんて・・・)
前回は緊張の糸が切れたときに出てしまった涙を、そして今回はエルトシャンへの思いの涙をこのフィンに見せてしまった。
幼き頃より辛い事が多かった彼女だが、本人は潜在的に強がりなためか、人の前で泣く事は殆ど無かったのである。
それを二回もこの青年に見られてしまった。
いや、見せてしまったのだった。
「・・・貴方にはいつも私の恥ずかしい所を見せてしまいますわね。ふふっ・・・情けないですね」
「いえ・・そんな・・・」
自分の声掛けにおろおろするフィン。
世間知らずで男女関係を経験した事がないラケシスでも、このフィンが異性に対して人見知りしてしまう人間だと言うのが分かった。
戦いにおいての猛々しい姿から想像できない彼の今の姿にラケシスは思わず微笑んでしまった。
ラケシスには戦死したハイラインのエリオットを始め言い寄ってくる男がたくさんいたため、ノディオン以外の男性を毛嫌いする傾向があったが、こういうフィンの性質は嫌いではなかった。
無論、彼女はシグルド軍の男性に対して好意的な感情を抱いていたので、彼だけが特別と言うわけではないが。
「何を慌ててらっしゃるんですか?本当に恥ずかしいのは私の方なのに・・・くすっ・・・」
体が本調子でもなく、また涙した後にも関わらず、ラケシスはフィンの様子に微笑を浮かべていた。
いつもの気品を讃えた淑やかな笑みではなく、むしろ年頃の少女らしく活気と微少な悪戯っぽい成分を含んだ明るい笑みだった。
(あ、この方はこういう表情もできるんだ・・・)
彼の頭の中に浮かぶラケシスの笑顔と言うのは、柔らかくもどこか近寄り難い雰囲気があったが、今はそういう感じは微塵も受けない。
本当はこちらの笑顔の方がラケシスの笑顔なのでは?とフィンは思っていた。
今の二人は妙な親近感に包まれていた。
自らの涙を他人に見せてしまったラケシス。
女性の前でうろたえる醜態を見せてしまったフィン。
互いの普段の姿からは見えない一面。
それを確認し合った二人の間に互いの一部を共有し合う感覚が生じていたのだった。
「変な姿を見せ合ってしまいましたわね。私たち・・・」
「そ、そうですね・・・」
そう言い合った後、どちらかともなく笑い声が口から漏れた。
「ふふっ・・・あはははっ・・・!」
「あは・・・ははは・・・」
奇妙な一体感をフィンは感じていた。
(ラケシス様も・・・同じように感じてられるのだろうか・・・?)
「・・・フィン様、私達はお互いに精進が必要ですね。私はもう、人前で涙を流さないように。そして貴方はもう少し、社交的になられた方が良いのかも・・・」
「はい・・・仰るとおりです。エスリン様にもよく言われます。」
「うふふ・・・そうなのですか?人は見かけによらないですね」
(・・・エスリン様と私・・・どちらの事を言っておられるのだ?)
先ほどよりもラケシスの口調はくだけたものになっていた。
フィンも何とかラケシスの目を見て話せるようになっていた。
二人の間の距離が縮まっている証明なのだろう。
それが如何なる種類のものであれ、親交が芽生え始めていたのは喜ばしい限りだった。
これから先、二人は短い時間、様々な会話を楽しんでいたが、それは長くは続かなかった。
何故なら、息を切らした側近がシャガール王がノディオン攻撃のため、アグスティから兵を出したとの報告が入ったからだった。
アグスティ動くの報はノディオン陣営を震撼させた。
今、シグルド軍主力は遠くアンフォニーにあってマクベス王率いるアンフォニー軍と対峙している。
この状況ではシグルド軍の来援は期待できなかったので、事実上、ノディオン城は単独でアグスティ軍と対決を余儀なくされた。
しかし、ノディオン軍は戦力が消耗しているため、戦う前から勝敗は明らかのように思われた。
だが、攻める方も決して充足した条件の元で戦う事は出来なかった。
シャガール王は用心深いというよりも優柔不断な男で、ノディオン攻撃、しかる後にシグルド軍殲滅を図るこの攻撃においても全軍を出撃させる訳ではなく、敗北した時に備えて軍団を二分させて、一方のみで攻撃を仕掛けたのであった。
無論、これはノディオンへの入り口を抑えているマッキリー王国の戦力が加わる事を予想しての判断だろうが、戦力分散の誹りを受けても仕方ないだろう。
しかも、当てにしていたマッキリー王国はこの状況になっても日和見な態度を取ろうとしていた。
最終的にはアグスティの圧力とシグルド軍の脅威に止む無く兵を出すことになったが、それでも積極的行動を取ろうとはせず、ノディオン攻撃にも参戦しようとはしなかった。
そのためノディオン城を実際に攻撃したのは、前回のハイライン軍エリオット部隊よりも少ない兵力であったが、ノディオン城の戦力を鑑みれば十分と言えたかもしれない。
それでも足並み揃わず、またシャガールの指導力の無さに、兵の士気は地につくほど低く、実戦指揮官達の間では苦戦避け難しとの意見が主流になっていた。
一方、ノディオン城の主力はフィンの部隊といっても過言ではなかっただろう。
いまだイーヴは負傷から復帰をしておらず、またアルヴァ、エヴァの部隊も疲弊しきっていたため、まともに戦えない状態であった。
それに比べ、フィンの部隊は少数とは言えレンスター皇太子キュアン直属の部隊から転出された精鋭であり、実戦力は半身不随のノディオン城残存軍を超えるものであった。
今回の戦いは前回以上に厳しいものになると思われたが、ノディオン軍とフィンは思い切って野戦で敵を迎え撃とうとした。
篭城し、防御に徹しようとはしなかったのは、いまだノディオン城は前回の戦いの痛手から回復しておらず、また、シグルド軍がアンフォニーで戦っている以上、こちらに早急に駆けつけてくることは不可能だったからだ。
むしろ、野外での合戦において、フィンが率いる精鋭レンスターの槍騎士部隊を活かして騎兵突撃で一挙に敵の中枢を突く戦い方が勝算高いと判断したのだろう。
方針が決まった後、ノディオン側の行動は早かった。
直ちに、戦闘可能な戦力を再編成すると、フィンの部隊を先頭に順次、ノディオン城から出撃していった。
それに続くのはクロスナイツ三兄弟の三男アルヴァの部隊で、その後をラケシスの直衛部隊、最後尾をエヴァの部隊が続き、進軍していく。
今回は前回以上に厳しい戦いが予想されていたので、ラケシスの出陣を誰もが反対したが、彼女は頑として聞かなかった。
元々、戦いを好むと言う性格ではないが、前回のノディオン城攻防戦の時と同じく、自分だけが安全な場所にいるのが耐えられないのである。
そしてもう一つ、命令系統の問題であった。
今回は三つ子の長兄イーヴは参戦しないため、二人の弟エヴァとアルヴァがノディオン部隊を指揮する。
ノディオン軍とレンスター皇太子キュアン配下の部隊との共同作戦である以上、どちらに主導権が拠るかは少なからず問題であった。
戦場と経緯から主導権がノディオン側にあるのだろうが、実際の主力はレンスター軍であると言っていいだろう。
しかも、現在、ノディオンに残っている実戦指揮官の長であるイーヴは負傷療養中であり、次席である二人の弟と、歳は若いとは言え、キュアンの代理として残ったフィンとではどちらが席次が高いとは判断がつかない事態になる。
そのため、とりあえず自分が戦場に出れば、指揮系統は自分を基幹にして形成されるため、混乱は起きないとラケシスは考えた。
いらぬ心配かもしれないが、戦場で直接戦う戦士たちのためにも、不安の種は一つでも摘んでおきたかった。
(フィンにとっても慣れない土地での初めての任務。彼のためにも・・・また、我が国の戦士たちのためにも・・・私はできる事をしなければ)
少し休んだとは言え、今だ体が完全には復調していないラケシスは自らを奮起させていた。
ノディオンを出撃した明朝。
行動が早かったノディオン側が渓谷の出口を抑える事に成功した。
フィンが中央を、エヴァが左翼、アルヴァが右翼を固め、渓谷の出口に蓋を形成する。
ラケシスは彼らの後方にあって戦いを見守る。
各部隊が配置についたのは昼過ぎだったが、そのすぐ後に敵部隊が渓谷の奥に姿を表した。
アグスティ軍を率いるのはシャガール配下の将軍コンドルセ。元はアグスティ北部方面の指揮官であったが、シャガールが王位についた際にいち早く忠誠を誓い、アグスティ軍第二騎士団「鷲騎士団(イーグルナイツ)」の指揮官となった男だった。
今回はイーグルナイツと他の機動兵力を伴ってノディオン攻撃の指揮をとる。
双方共に、敵の接近は偵察によって分かっていたので、今更遭遇してもさして驚きは無かった。
ただ、緊張と戦慄、異様な昂揚感が辺りに漂い始める。
戦いを経験した者は悟る。
ここは戦場になったのだと。
両軍が準備を整えたと同時に、太陽に雲が掛かり始めた。
戦場となる土地が暗き影を帯びる。
それを合図にするように、馬が地を蹴る音が鳴り響く。
山間に展開し、騎兵を前面においていたアグスティ軍は一挙に突撃を仕掛けてきた。
この攻撃を正面から受け止める事になったのはフィンの部隊だった。
基本的に乱戦には不利な槍騎兵の集団であるが、ここはそう簡単に崩されるわけにはいかなかったので、彼も敵に向かって突入していく。
ここに史上初めて、大陸の東西に位置するレンスター・アグストリア両国の騎士達による大規模な騎兵突撃戦が繰り広げられる。
敵の猛攻に力負けしないように正面から当たるフィン。
だが、兵力の劣勢は如何ともし難かった。
兵力差を活かして猛攻を浴びせてくる敵であったが、フィンは冷静であった。
自分が少数の部隊を連れて、的確に敵の薄い場所から敵中に踊りこみ、内部を蹂躙する。
混乱する敵部隊の後を押すように後続部隊が渓谷から出てきたため、しばらくの間、アグスティ軍の前線が混乱した。
その隙に部隊を再編したフィンは再び小規模な突撃を繰り返して、敵に損害を与えていった、
敵の逆襲に苛立つアグスティ軍だったが、一旦、各部隊を渓谷内に引き戻して、再編が終わった部隊から再び戦場に戻す手順を繰り返した。
これによって、再び徐々にフィンを押し戻し始めた。
一進一退の攻防が続く。
しかし、このままでは兵力に劣るノディオン側の敗北は確実である。
何とかしなくてはならなかった。
「我が方が不利なのですか?」
遠い前線を眺めながら、報告に戻ってきた部下に戦況を尋ねるラケシス。
ノディオン城攻防戦で見せた麗しき戦乙女の姿でここに来ていた。
「いえ、決して有利とは言えませんが、五分五分の戦いです。フィン殿の部隊が正面から敵の攻撃を防ぎ止めています」
その報告は味方の善戦を示していた。
特にフィンの活躍にラケシスは驚嘆をする。
地の利を得ているとは言え、圧倒的大軍を前にして持ちこたえているのだ。
あの若さで、既に一部隊の指揮官としての才を発揮し始めている。
末恐ろしい青年だと思う。
しかし、今は彼の才能と未来を想像するのには、今はあまりに状況が苦しかった。
フィンも内心、焦っていた。
今は地形を利して、敵の鋭鋒を防ぎ止めているが、いつまで持つか?
だが、敵の主力と狭い渓谷出口で対峙している以上、守る以外に他の作戦を考える事はできない。
あまりに地形が狭いため、双方共に満足な機動ができないからである。
だから、敵は単純に突撃を繰り返し、こちらは向かってきた敵を正面から受け止めるしかないのだった。
(こちらには増援は無い。だがら、このまま守りに徹していても、勝ち目はない。何とか敵の主力を撃破しない事には・・・)
だが、敵は渓谷の合間に重厚に布陣しており、それを突き崩す事はさすがのフィンにもできなかった。
それでも、この地形では奇計を計るのも難しかった。
この状況に変化を与えるとしたら?
(だが、それでは・・・)
一つの考えがフィンの頭に閃いたが、それは一歩間違えばノディオン軍の敗北、以後、ノディオン城の失陥、そしてシグルド軍が前後から挟撃され苦境に立たされる、という状況に繋がっていく。
だが、このままでは遅かれ早かれ同じ事になる。
決断が必要だった。
敵が突撃のため再編成を行うため、一旦、後退したのを見ると、即座にフィンはラケシスの元に行った。
自分の元に来たフィンに対して彼女は彼の健闘を称える。
「フィン様、貴方以下レンスターの戦い、しかと見せていただきました。さすが十二聖戦士・槍騎士ノヴァの旗を掲げるランスリッターに属する騎士達ですね」
「ありがとうございます。ですが、我が方は現時点では互角に戦っていますが、兵力の差は圧倒的です。このままでは長くは戦線を維持できないでしょう」
フィンの報告に側近たちは青ざめていたが、姫の方はさして驚きを見せない。
「なるほど。それでフィン様には何か良策がおありですか?」
「戦端を開いてしまった今となっては立派な作戦を構築する余裕はありません。ですが、この状況に変化を与える事はできます」
「それは如何なる方法ですが?」
「ただし、これは一歩間違えば全軍の崩壊、さらにはラケシス様の御身を危険に晒すことになるでしょう」
ラケシスは今のノディオン王国の要。
彼女が危険晒される事が如何に重大な事なのかはフィンも承知していたし、側近たちが反論する事は目に見えている。
だが、それを踏まえた上で、あえて僅かな敵軍打倒の可能性に掛けてみるか?
その覚悟をラケシスに尋ねに来たのだった。
案の定、側近たちは「ラケシス様の御身を危険に晒すことになる」という言葉だけで反論していたが、当のラケシスは危険と聞いて気後れはしていなかった。
また、自分にノディオン攻防戦の時のような生命の危機が訪れるかもしれない。
今だって戦場の迫力と狂気に足が僅かに震えているのだ。
だが、ここで立ち止まっていても、引いたとしても、彼女の目的は果たされない。
彼女の視線が一瞬、フィンから離れて渓谷を、いや、その奥に広がる空間に注がれる。
(・・・あの向こうにエルト兄様がいるのね)
自分の目的、そして生きる糧はノディオン国王、兄エルトシャンの存在。
それを阻む物を超えていかなくてはならない事が、彼女に決断を促す。
「全軍、騎兵を先頭に突撃体勢を整えました。いつでも攻撃に移れます」
「よし!先頭のレオパールの部隊から順に突撃!一挙に敵を突破するぞ!」
コンドルセの号令の下、アグスティ軍が突進していく。
コンドルセにしては敵がこの地点で迎撃してくる事は予想の範囲だったので準備は十分にしていたのだが、それでもここまで頑強な抵抗を受けたのは予想外であった。
敵の前衛に翻るのはノディオン王国旗ではなく、遠くトラキア半島レンスター王国の象徴である槍が描かれていた。
シグルド軍の一部にレンスター軍が参加しているのだろうから、それがノディオンに残っていたのだろう。
だが、それでも自分達の戦力の方が敵を圧倒しているため、それほどの危機感を抱いているわけではなかった。
それでも、味方の足並みが揃わぬ現状で、しかも、マッキリー軍とシグルド軍の戦いがどう転ぶか分からないため、早めにノディオンを陥落させねばならなかった。
彼はそんな重圧の中で猛攻・猛進を行おうとしていた。
アグスティ軍が猛進を行ってきた。
「いけー!突撃だ!一気に敵を突破しろ!」
コンドルセの怒号によって、さらに敵の圧力が増していく。
大軍のアグスティ軍は我先にと突き進んでいくが、狭い渓谷の上、出入り口を抑えられているために、まるで川を塞き止めたかのように兵士が詰まっていた。
しかし、それが強大な圧力となって、正面フィンの部隊に圧力を掛けている。
これまでとは比べ物にならない圧力を受けながらも、フィンは冷静に対処する。
何とかフィンの部隊が敵を防いでいたが、それも限界に近づいているように見えた。
それを読み取ったコンドルセはさらに圧迫していた。
力と力の激突。
無限に続くかと力の押し合いは、フィンの部隊が後退し始めたことによって終りを告げる。
さらに、フィンの部隊が退き始めるのと同時に両翼のエヴァ、アルヴァの部隊も後退を開始した。
潮が引いていくように退き始める敵の動向にコンドルセは勝利を確信した。
渓谷出口から敵を押し出したアグスティ軍は堤防が崩れた川の水のように一気に広い平野に向けて無造作に流れていく。
後ろから自分たちを友軍の兵士達が押すように突き進んでいくのだから、無秩序になるのも仕方がない状況だった。
この怒涛の波の前ではノディオン軍は紙切れのごとく引き裂かれるかと思われたが、そうではなかった。
フィンもエヴァもアルヴァも、彼らは後方にあったラケシスの部隊を中心として密集体勢で固まっていたのだった。
隣の者の方が触れ合うほど密集した壁の前では、統制されていない無秩序な状態になったアグスティ軍は咄嗟に突破できなかった。
そのため後ろから友軍に押されるという動きと、そして密集体勢を取った敵をまずは包囲しようとする動きが合わさり、平野部に出た兵士達の動きは外へ、そしてノディオン軍の外周を沿うような動きとなっていく。
それは川の流れの中にぽつんと残されている中州を想像させるものだった。
そして、そのアグスティ軍の殆どが渓谷から平野部に出て行くことが出来た時、完全にノディオン軍はアグスティ軍の只中に残される形となっていた。
だが、今のアグスティ軍は先ほどの渓谷出口から出る際の混乱、敵に対する突撃から包囲する動きへの急速な転換の影響から未だ完全に秩序が戻り切っていなかった。
そして、この状況こそがフィンが望んだ一瞬だった。
「よし、今だ!!全軍渓谷に向かって突撃!一挙に敵の本陣を突くぞ!」
そう、フィンが望んできたのはこのタイミングだったのだ。
アグスティ軍の全部隊を挙げての突撃を防ぐ後に道を明ければ、敵は後から押される動きのために前進と拡散をつづけなくてはならない。
この一瞬、敵が広い空間に無秩序に広がった瞬間を見計らって、全軍が密集して渓谷内に突入、敵の本陣を一挙に突こうとしたのだった。
フィンの部隊を先頭に前進するノディオン軍。
その姿は大海原を二つに分かつ鯨の突き進む様にも見えた。
アグスティ側は最初、何かが起こったのか分からなかったが、それがノディオン側の反抗の開始だと悟るのにさして時間が掛からなかった。
直ちに、自分達の只中を進んでいく敵に猛然と襲い掛かる。
が、一旦拡散してしまった戦力では攻撃を仕掛けても、密集した敵に割り込むことはできない。
小石をバラバラに岩に投げつけているようなものだ。
拡散してしまった状態では、例え少数の敵ですら防ぎとめるのは困難だったのだ。
直ちに、各部隊長が混乱した兵力と指揮系統を取り戻そうと躍起になったが、その間にノディオン側は渓谷出口に取り付く事に成功した。
そこでノディオン軍は主力であるフィンの部隊を渓谷の奥に向かって進撃し、ラケシスは渓谷内にて待機、エヴァとアルヴァは渓谷出口を抑えて戻ってくる敵兵に備えた。
ここでアグスティ軍は主力と本隊が分断された形となった。
逆にいえばノディオン軍を渓谷に封じ込めた形になったのだから、このまま敵を封じ込めつつ一部をノディオン城に向かわせて一網打尽とする事も出来た。
だが、彼らの士気の低さは、この状況をして退路を断たれたという見方となり、攻撃意欲を失わせる結果となった。
彼らはまず本隊との連絡を取り戻そうとして、ノディオン城を無視することになった。
フィンの部隊が渓谷内を突き進んでいく。
彼の目の前にはコンドルセ将軍が指揮を取る本陣が存在していた。
「なんと言う事だ・・・直ちに迎撃せよ!」
戦局の激しい変化を完全に把握する前に敵が目の前に現れたコンドルセは驚きながらも迎撃の命を下す。
直ちに直衛の騎士達が飛び出して、迫り来るフィンたちの前に立ち塞がった。
しかし、正面きっての騎兵突撃戦において、レンスターの誇る槍騎兵軍団に敵う者は、この大陸にはいない。
先頭のフィンをはじめレンスターの騎士の繰り出す槍の前に次々と落馬させられていった。
「騎兵を下げろ!!歩兵を押し出せ!」
騎兵戦では対抗できないと悟ったコンドルセは、すぐさま歩兵による集団戦を仕掛けたが、フィンの動きの方が一歩早く、歩兵が隊列を整える前に陣営に踊りこむ事に成功した。
「でいやああぁ!!」
普段の物静かなフィンからは想像できないほどの猛々しい雄叫びが彼の口から発せられる。
雄叫びをあげ、槍を振るい、馬を走らせる。
勇敢なるアグスティの戦士たちが、本陣内に突入してきたフィンに挑みかかったが、大半の者が返り討ちに遭う。
そして、徐々に彼に戦いを挑む者の数が少なくなっていった。
兵士達の数が打ち減らされたと言うよりも、彼の見せる槍捌きと迫力に戦意を削がれていたのである。
「たった一人に何たる様だ!?どけ!」
味方の不甲斐なさに憤ったコンドルセは自ら馬に乗り、剣を抜いて自分の陣地に乗り込んできた若造を始末しようとした。
フィンも明らかに一介の騎士とは違う敵将の存在に気づき、対峙した。
二人の間で激しい火花が、そして奇妙な呼吸を合わせようとする衝動が生まれた。
周囲は激戦の渦中にあったが、なぜか互いの世界は静寂に包まれていた。
そして、呼吸が完全に合った時、どちらかとも無く馬を蹴った。
急速に距離を縮めていく二人。
フィンは槍を引いて、馬の速さを加えた強烈な突きを加えようとし、コンドルセは相手の持つ槍と自分の剣との間合いの差を鑑みて、まずは一撃を捌いてから反撃の一撃を繰り出そうと企てた。
ガキン!!と金属が打ち合う音が一際大きく鳴り響く。
フィンの槍がコンドルセの剣に弾かれた音であった。
コンドルセの予想以上にフィンの一撃は強く、鋭かったため、返す一撃を打ち込もうにも反動が強すぎて出来なかった。
スピードを落とさないまますれ違う二人であったが、すぐに馬首を翻して再び向き合う。
そして間髪入れずに再び相手に向かって突っ込んでいった。
コンドルセにとってフィンの一撃の強さは予想外であったが、防ぎきれないものではなかった。
次の一撃こそ防ぎ、素早く一撃を浴びせて見せるとコンドルセは躍起になった。
再び、接近する二人であったが、今度は勝手が違っていた。
フィンは槍の持つ間合いの有利さを活かさず、引きを保ったままコンドルセの間合いに入る。
「!?」
コンドルセは敵の意図が読めず、しかし、自分の間合いに入ってきた敵を放置しきれずに構えていた剣を横に繰り出した。
しかし、フィンの槍はその瞬間を待っていたかのように突き出された。
先に放たれた剣の軌道を槍が横切り、柄の中央で受け止める形となる。
無理に剣戟を受け止めるのではなく、穂先の方に流すように逸らして行く。
コンドルセが驚くと共に前のめりになってしまう。
その彼の側頭部に槍の石突きが激しく殴打した。
意識が飛ぶほどの激痛がコンドルセを襲い、彼は落馬を強要された。
鈍い音共にコンドルセは地面と接吻させられる。
辛うじて気絶は免れたコンドルセはすぐに立ち上がろうとするが、その彼の首筋に白く光る刃が突きつけられた。
「うっ・・・」
「貴方の負けです将軍。武器を捨てて、幸福なさってください。生命の安全はお約束します」
二十も歳が離れているであろう若造にコンドルセは打ちのめされたのだった。
彼の騎士としての自尊心は大いに傷つけられた。
コンドルセにとってシャガールに加担した事は、より高みを目指した野心からだが、その前に一介の武人である。
現役の武人である男が若い者に敗れた時の衝撃と深刻さはそれを与えた者の想像を遥かに越えるものである。
若きフィンにはまだ、その事まで理解できていなかった。
アグストリアは騎士の国であると言う事を。
「ぬかせ!!」
「!?」
相手が素直に膝を屈すると思い、半ば油断していたフィンはまさかコンドルセが槍を払って自分の飛び掛ってくるなど思いもしなかった。
飛び掛ってきたコンドルセに方を掴まれたフィンは彼と共に転げ落ちた。
地面に叩きつけられたフィンの上にコンドルセは圧し掛かり、右手で背中あった短剣を抜き放って振り上げた。
フィンは急いで左手で振り下ろされようとした短剣を持った手を抑えたが、今度はコンドルセの右手が首を掴んで絞め殺そうと力が込められる。
「!?・・・うぅ・・・」
大きく目が開かれR、苦しそうな呻きが漏れる。
一気に肺は空気を求めて動き出すが、それは首で止められてしまう。
右手を動かそうにも彼の左足の下に潜り込んでしまい、押さえ込まれているために使えない。
(まずい・・・死ぬ!?)
今まで、彼の短い戦歴の中でも彼は死を覚悟した事が何度もあった。
死と隣り合わせの世界。
戦う動機は数あれど、実際に相手とまみえる時に何より重要なのは敵を倒す事。
倒さねば自分が殺される。
今回、フィンは僅かな油断のため相手に逆転の余地を与えてしまった。
(このままでは・・・死ぬ・・・やられてしまう)
頭の中が白くなっていく。
その前に首に掛けられた力は圧倒的で骨が折られそうだ。
(ダメだ・・・もう・・・)
諦めかけたフィンの脳裏にラケシスの自然な笑顔が浮かんだ。
(何を慌ててらっしゃるんですか?本当に恥ずかしいのは私の方なのに・・・くすっ・・・!)
そして始めて聞いた笑い声が。
(ふふっ・・・あはははっ・・・!)
ああ、そうだったのか。
今、分かった。
私は嬉しかったんだ。
ラケシス様の笑顔や様々な一面を見れることが嬉しかったんだ。
それを自分が求め始めている事も。
その意味が、理由は分からなかったけど、今、こうして死の境であの方の少し赤くなって自分を見つめた時の事を思い出して、分かった。
「ぐぐっ・・・ぐ、ぐおおおおおぉぉ!!」
私はラケシス様の事が好きになっていることを。
「何・・・がはっ!?」
コンドルセの脇腹にフィンの膝が綺麗に入る。
痛烈な痛みにコンドルセの力が一瞬弱まり、その間にフィンは彼を退ける事に成功した。
よほど痛かったのか、コンドルセは腹を抱えたまま蹲っている。
その彼の腕を抱えると、フィンは思い切って体を反転させつつ、腕を引いて、背負い投げを浴びせた。
「どわああぁっ!?」
綺麗な円を描いてコンドルセの体は宙を舞った。
そして地面に頭から落とされたコンドルセは今度こそ意識がなくなって、大の字で横になってしまった。
ゆっくりと立ち上がるフィン。
その光景を見ていたアグスティの兵士たちは、一人、また一人とと後退り始めた。
「コンドルセ将軍が・・・コンドルセ将軍がやられたぞーー!!」
自分達の指揮官が敗れた事は、即ち、自分達の敗北を意味する。
それを認知した時、アグスティの兵士たちは敗走を始めていた。
数人の敗走は数十人の敗走へと拡大し、さらに大きく伝播していく。
さらに、その報は後方のノディオン軍に伝わり、大いに士気を高めた同時に、また、彼らは戦場を駆け回って、コンドルセ倒されるの情報を敵陣中において大声で叫びまわったために残ったアグスティ軍も浮き足立った。
元々、戦意に欠けていたアグスティ軍はこの情報のために解体を余儀なくされていった。
次々と戦場から離脱する者、降伏する者が相次ぎ、最後まで戦おうと言う者も勢い付いたノディオン軍の前に蹴散らされていく。
夕方までにはノディオン軍の勝利が決まっていた。
(本当に凄い・・・なんて人なの)
自らも兵士達に囲まれながら敵の只中を駆け抜けてきたラケシスは直接、敵兵と剣を交える事は無かったが、彼女の顔や服は周囲で起きた戦いによって舞った砂塵のために汚れていた。
初めて野外での戦いを経験した彼女であったが、前回と違って、さほど恐ろしさが体に溜まっているわけではなかった。
それよりもフィンたった一人の活躍で、今回の勝利を物にできたと言えるであろう。
ラケシスはノディオン戦士たちの戦いぶりは見事だと思ったし、なんら恥じる点があるとも思わない。
だが、戦いの主役はあくまでフィンと言ってよい戦いであった。
援軍であるフィンに頼り切ってしまった事に情けない気持ちが無いわけではなかった。
ラケシスも他のノディオンの戦士たちも戦いの勝利に喜んでいたが、プライドのために素直に喜べない部分があることもまた事実だった。
だが、それとは違う次元で、彼らはフィンの実力と功績を讃えていた。
特にラケシスにとっては親交し始めていたフィンの活躍は喜ばしいものであった。
(フィンは騎士として、戦士として・・・類稀な才能をもっているのね・・・羨ましい・・)
自分とはまったく別の世界に生きるフィンの事を考えてラケシスは思う。
あの女性と話すだけで赤面する青年はまだ、未熟な部分を多く持っているのだろが、彼は戦いと言う騎士が生業とする世界で大いなる才能を開花させて、結果に繋げて行くことができるだろう。
しかし、自分はどうであろうか?
自分は王族として精進しているつもりだ。
戦争の最中にあって、自らの身を安全な所に置くことなく、ノディオン王族として頑張っているが、残念だが最上の結果を得られているとは言い難い状態であった。
ノディオン城攻防戦でシグルド軍の助けがなければ、また、今回の戦いでフィンがいなかったら、自分はノディオンを守れなかっただろう。
王族としての自分はあまり結果が残せる力が無いのではないだろうか?
騎士としてこれ以上ないほどの結果を残したフィン。
そして王族として、この非常時に他の力を借りなければ乗り切れなかった自分。
比べるべき対象ではなかったが、万事を乗りこなせたフィンにラケシスは言いようの無い羨ましさ、というより嫉妬を感じていたのだった。
(もっと頑張らないと・・・)
急激な日常の変化に触発されたためか、それとも新しき出会いがもたらしたのか。
ラケシスは今まで以上に自分を磨かなければならないと考えていた。
もう、フィンと約束したように、彼に二度も見せてしまったような自分の弱さと決別しよう。
もっとノディオンの姫として守るべきものを守れるだけの力を手に入れよう。
自分を今まで以上に磨いていこうと決意した
そうすれば、さらに姫として、エルトシャンの妹として相応しい存在に一歩近づくのだから。
アグスティ軍のノディオン攻撃をマッキリー国境で防いだノディオン軍は負傷者及び、捕虜とした敵将コンドルセ以下の敵兵を後送しつつ、この地に駐留する事になった。
既に戦闘可能な兵は殆どいなかったが、再び、攻撃が行われる事を警戒しての判断だった。
だが、実際にはアグスティ軍もマッキリー軍も動く事はなく、防御に徹して再び攻勢に出ようとはしなかったのであった。
戦況は大きくノディオン・シグルド側に傾いていた。
ラケシス達が敵を撃破したほぼ同じ時、シグルド軍もアンフォニーのマクベス王を倒す事に成功していた。
シグルド軍は直ちに反転してノディオン軍と合流した。
一連の戦いの結果、情勢は大きくグランベル・ノディオン連合に傾いていった。
連合は勢いに乗って、座視をしていたマッキリー王国のクレメントを撃破。
孤立したシャガールはこの状況に至って、アグスティに残る最後の戦力であり、また最強であるザイン将軍率いるアグスティ軍第一騎士団「三日月騎士団(クレセントナイツ)」を繰り出したが、既に敗勢に傾いた戦局を覆す事は出来なかった。
大会戦の末、クレセントナイツは壊滅し、アグスティは軍事力を事実上失った。
その後、シグルド・ノディオン連合はアグスティ城を包囲したが、僅かな衝突が起きたものの、無血開城に近い形で落城した。
城下に侵入した連合軍は直ちに城下要所を制圧、守備兵の武装解除を行っていた。
その中をひたすら走り回っているラケシスの姿があった。
(ついに・・・ここまで来たんだわ・・・)
そう、彼女はついにアグスティまで、エルトシャンが捕らわれているこの場所にやっと辿り着けたのだった。
彼女は自分の戦いが終わったと思った。
これからは愛しい人の側にまたいれるのだから。
だが、彼女は知らなかった
この地に辿り着いたことが彼女の新たな試練の始まりだと言う事を。
混沌に満ちたアグストリアが多くの人々の運命を狂わしていく舞台である事を。
ラケシスの旅はまだ始まったばかりだった。
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