Revival

第四章 迫り来る変化




 アグストリアの平原を厚い雲が覆い尽くしている。太陽の日差しが遮られ、北風は冷たい空気を運び続けている。そ れは冬の景色であったが、徐々に寒さは和らぎ、春へと季節は移ろうとしていた。
 グラン暦が759年に替わった早春。ノディオンの王エルトシャンの妹ラケシスはレンスター王国の騎士フィンを連れシ ルベール砦へと向かっていた。
 グランベルがアグストリアを占領して半年。何とかアグストリアからグランベル軍を撤収することを本国と交渉している 占領軍司令官シグルドは、それを実現するためにエルトシャンが指揮するアグストリア最後の主戦力、クロスナイツの 解散が必要と考え、ラケシスを兄の説得のために派遣した。護衛にはフィンが選ばれ、二人は馬を飛ばし、西へと向か った。



 まるで活力が注ぎ込まれたようだ、とフィンは隣を走るラケシスを横目で眺めては思う。
 半年前、アグスティに辿りついたラケシスは大切な存在であるエルトシャン王と再会する事が出来た。しかしそこに待 っていたのは拒絶と別離であった。
 グランベルについた彼女を非難し、遠くに置いた彼の反応。絶対の存在である彼の反応はラケシスを激しく傷つける ことになった。
 その後、アグスティで過ごしている際も表面的には平静であったが、内面は寂しさと苦しさに支配されていた。
 しかし、今、再びエルトシャンに会える機会が訪れた。二人の仲は半年前と変っておらず、再び拒絶されるかもしれな い。
 それでもラケシスはエルトシャンに会いたかった。

 不安と期待、興奮、喜び。ラケシスの表情には様々な色が浮かべていた。フィンにとって彼女の表情が今までの人形 のようなものではなく、人間の表情に戻った事は嬉しい事。
 だが、表情が戻った訳を思えば、素直に喜べないことも彼にとっては事実。

 二人は灰色の空の元、草原を走っていく。



 ジルベール城はアグストリア北西部に存在する城である。オーガヒル海賊に対抗するためにマディノ城と共に築城さ れた。
 広大な北部海岸を快速船を駆って襲い続けているオーガヒル海賊はアグストリア諸侯連合が長年抱えていた問題で ある。アグストリアは数度の討伐軍を派遣したが戦果は芳しくなく、海賊達の跳梁は続いていた。
 そこで海岸防御の拠点としてマディノとジルベールの地に城を築いたのだった。この二つの城には封された貴族だけ ではなく、各諸侯が役を課せられ定期的に軍を駐留させており、海賊対策の一つとして機能していたのだった。
 先年のハイラインによるノディオン侵攻の際、主力たるクロスナイツが不在だったのは海岸防護の役目が回ってきた ためであった。大規模な海賊の活動が起きると言う噂が流布していたために虎の子のクロスナイツを派遣したのであ る。
 これによって半年前、ノディオンは危機に陥る状況となった。そして今、クロスナイツがジルベールに存在する事はア グストリアにとってもグランベルにとっても大きな意味を持つことになっていた。


 
 ラケシスが来訪したと部下から伝えられたのは、エルトシャンが周辺地域の巡検を終え、執務に戻る僅かな時間を自 室で休んでいる時の事だった。
 思わず苦笑を浮かべてしまうエルトシャン。何故なら、この部屋で休んでいる最中、彼はずっとラケシスの事を考えて いたからだ。
 窓の外は厚い雲が広がる憂鬱の空。彼の心も同じように晴れたものではなかった。



 ***



 彼は生まれながらにして王族であり、将来はノディオン王となる事が当然のように定まっていた。
 その既定に彼は疑問も不満も抱いた事はない。
 ただ当然のように成長し、環境に従って自らを鍛え、国の指導者に相応しくならねばならい道程。苦痛や困難も伴っ ていたはずだが、彼はそれらを感じる事も無いまま、難なく乗り越えて行った。
 まるで人形。決められた役割を演じるため、目に見えぬ糸に操られ続ける人形。
 だが、王という人形でも構わなかった。もとより、自分の命はそのためにあるのだから…
 (その俺をおまえはいつも見ていた…)
 生き方を固定した彼が唯一、戸惑う時があった。
 いつも自分の背中に妹の視線を感じる時、それが彼の心を揺れ動かす要因となることになる。



 自分に腹違いの妹がいる事を彼は前々から知っていた。
 酒に任せた父の過ちによってこの世に生を受けた少女。彼女を身篭った女性は王宮の外で出産したため、まだ幼い 彼にはそれを知る手段はなかった。が、この醜聞は長らく多くの人々によって話題の種となり、エルトシャンが成長して いくと腹違いの妹の存在を知る機会を与える事になる。
 事実を知った際、彼はラケシスに関心を持つことは無かった。それよりも過ちを犯した父への怒りの方が大きかっ た。元々、愚直なほど真っ直ぐな感性を持った彼の事、肉親がこんな行いをした事が許せなかったのだ。
 だから、ラケシスの母が亡くなった際、彼女を王宮に引き取ろうとした父の判断は素直に肯定した。過ちを認め、僅か でも償おうと行動を起こしたのだから。


 父の過ちの証明。それが出会う前の彼女を形容する言葉であった。しかし、出会った後も、彼女への関心が増えたと は言い難かった。
 王宮を訪れた際の彼女の姿は一般的である麻の服に身を包んでいたとは言え、それは皺と汚れに塗れており、さら に本来は黄金の輝きを放つ髪も幼い顔、四肢に至るまでが服と同じように廃れている。相次いで肉親を失い、つい先 日まで苦しい生活を強いられていたためであろうが、出迎えの騎士団の立派な姿に囲まれて彼女の存在は明らかな違 和感になっていた。
 平民の生活を送っていると聞いたので予想の範疇の姿で現れた妹。だが、彼の中で妹への関心が大きくなったわけ ではなかった。兄弟がいない彼にとって妹が出来た事は確かに嬉しい。でも、精神的に未成熟にも関わらず生真面目 な気質が、彼女を前にした途端、露になってしまい拒否しないまでも、積極的な関わり合いを持つことを戸惑わせる事 になった。理性では分かっていても、完全な納得には繋がらない。
 
 だが、冷たい態度をとった自分を見つめていた彼女の瞳をエルトシャンは今でもはっきりと思い出せる。
 真っ直ぐで、それでいて瞬きもしないほど食い入るように見つめていた、あの視線。
 それがエルトシャンとラケシスの関係の始まりと言ってよい、互いに訪れた一つの変化だった。



 ***



 どんよりとした雲が広がる中、使者であるラケシスとフィンはジルベール城に到着。エルトシャンとの面会を門兵に申 し出た。
 城門から応接の間まで通される間にラケシスは心の切り替えを終えていた。
 ここからは彼女の戦場。毅然とした姿を通していかねばならない。
 周囲の視線に応えるため。何より愛する兄にアグスティで再会した時のような醜態を再び見せてしまうわけにはいか ない。



 ***


 エルトシャン。ノディオン王家の嫡子にして王位継承者。自分とは半分だけ血が繋がったの兄。
 あの時、王宮で始めて出会った時に一目で心を奪われてしまった。仕方がない。少年にして彼ほど全てが整った美し い存在にラケシスは今まで出会ったと事が無かったのだから。
 それから兄と紹介されても、もう遅かった。あの一瞬で自分は彼に心を奪われたのだから。この世界を統べる神は順 番を間違えたに違いない。僅かな時間の差のせいで妹が兄に惹かれてしまうという禁忌が成立してしまったのだから。


 ラケシスにとって王宮が新しい家となった。しかし、それは彼女にとって幸せだけをもたらしたとは言い難い。
 出生の事実から様々な中傷に晒された彼女。年端も行かぬ、それでいて多感な少女を蝕む悪意。彼女が経験した事 がない新種の苦行であっただろう。 どの時代、どの場所にも人が集まる場所と言うのは善意だけがあるわけではない のだから。
 右も左も分からない中、彼女はひたすら目を閉じ、耳を塞いで耐えるしかなかった。王夫妻は色々と優しくはしてくれ たが、やはり自分の母が追放された事を思うと、素直に甘える訳にもいかない。
 母も、そして祖父母が亡くなってからここに引き取られるまで、僅かな時間でも一人で暮らしたのだ。その小さな自信 で耐えていこうと考えていた。
 でも、耐えるだけではいけないと、すぐに考えを改める事になる。

 
 心寄せる兄が自分を中傷から守るために奔走してくれた。それは兄が妹を守るという思いよりも、理不尽が許せない 正義感に拠るものだと言う事は分かっていた。平等な善意。王としての心構えを正しく教育されているからこその行動 であろう。それでもラケシスは嬉しかったし、彼のそういう所を知れば知るほど彼に惹かれていく。


 だからこそ、彼女は自分を磨こうとした。
 守られるだけでは心苦しかったし、喜んでいるだけでは醜い自分を認識するだけだから。
 それに自分の思いは禁断のもの。妹が兄に思いを寄せるなど許される事ではないことぐらい幼くても承知していた。
 彼女は貪欲になったのだ。例え兄であろうとも、好きな人ならば共にいたいと思うのが常。持ってはならない感情だと しても、出会った時に心が定まってしまったのだから仕方がない。
 傍にいるためには何が必要なのか?考えては実行。誰にも明かせない彼女の行動の理。
 彼が王族なら自分も王族になる。
 しかも、ただの王族では駄目だった。彼に、兄の傍に控えているのが相応しい妹。将来のノディオン王に相応しい妹 であり姫に。
 一国の姫として教養を身につけた。誰の前でも恥ずかしくないほどに美しくなろうとした。武門の国、ノディオンらしく剣 も馬術も習い続けた。
 他の誰かに倣うのではなく、思いつく限りの最高の姿を想像しては追い続けた。
 

 ノディオン王国王女ラケシス。いまやその名を知らぬ者はこの大陸にいないほどである。
 彼女は自分を磨き。とうとう望んでいた位置を手に入れる事が出来た。
 エルトシャンの妹になる事が出来たのだ。
 

 だから、拒絶される事は今までの自分が無になるという意に等しい。
 彼に認めてもらうためなら、さらに自分を磨くし、卑屈になってまで媚びるだけだった。
 何より、傍に入れない事が恐ろしいだから。



 ***



 応接の間にラケシスとフィンが入室した時、既にエルトシャンは座って二人を待っていた。
 扉が開かれた瞬間、フィンは深々と礼をした。しかし、同時に横目でラケシスの表情を横目で確認する。顔は決して緩 んではいなかった、しかし、彼女の瞳はこれ以上ないほどの喜びの輝きを灯す。
 胸に針を刺されたような。短く鋭い痛みが走った。

 「久しぶりだな、ラケシス」
 エルトシャンとフィンはあのアグスティの際に初めて会った。会ったといっても会話したわけではない。その場に居合わ せたに過ぎないのだが。あの場と同じぐらいで厳格な声質でエルトシャンは今、妹を迎えた。
 うろたえた訳ではないが、ラケシスの反応が気になり、再び半歩前にいる彼女に再び視線を動かすフィン。
 「…本当にお久しぶりです、兄上。此度はアグストリアとグランベルの問題について、シグルド様の考えを伝えるため に参りました」
 彼女の言葉も表情に濁りも揺らぎもない。毅然と兄に対するラケシスの姿はフィンの予想を裏切っていた。
 「そうか、ご苦労。ラケシス、それにフィンと言ったな。二人とも座ってくれ」
 二人に着席を勧めるエルトシャンも落ち着いた様子である。何か、不穏な事態になるかもしれないと心配していたフィ ンはほっと胸を撫で下ろす。



 「…以上です。シグルド様はアグストリアに残存する最大の武力である兄上のクロスナイツを解体する事で何とか本 国にアグストリアの主権を返還するよう申し出るとの事です」
 「なるほど…シグルドめ、なかなかに厳しい条件を突きつけてきたな」
 思わず苦笑いを浮かべるエルトシャン。彼は親友であるシグルドが自分達のために奔走している姿が目に浮ぶが、 彼が考え抜いた末に提示した条件の厳しさに不快感を抱かない訳にもいかなかった。
 ノディオン王国が誇る十字騎士団クロスナイツ。いまやアグストリア諸侯連合最後の組織的武力と言っても良い。そ れを手放す事は、この地を守る力すら失うに等しい。
 併呑させられるのは回避できても、属国に等しい扱いを受けるのは確実だった。
 「正直、受け入れ難い条件だな。シグルドなりに考えを重ねた話だろうが…」
 「しかし、兄上。今のアグストリアは非常に危うい立場です。現在、アグストリアに駐留しているのはシグルド様ですか ら安心できますが、もし、この地に反アグストリアの人間が派遣されてきたら、取り返しのつかない事態を生ずるかもし れません。シグルド様がおられる今こそ、ある程度の譲歩をしてでも話を前進させるべきではありませんか?」
 「言いたい事は分かる。しかし、武力の放棄は避けねばならん。いまやクロスナイツはアグストリア最後の剣だ。これ がなかったらどうなるか?お前が言う通り、シグルドがいる内は安心できるかもしれない。しかし、未来の保証に繋がる わけでもないだろう?シグルドがこの地を去った後に再びグランベルが牙を剥いてきたら対抗できないという事になる」
 アグストリア諸侯連合の立場で話すエルトシャンとシグルドの立場も踏まえ話すラケシス。二人ともアグストリアの人間 にも関わらず、意見は平行線のままだった。
 ただの護衛であり、この場に居合わせているだけのフィンには発言する事が出来ない。否、アグストリアの人間では ない彼には元々、口を出す資格はない。 
 二人の話し合いを眺めるしかない彼だったが、その視線はやはりラケシスに向けられる事が多かった。



 「…兄上…今日のような事態になったことについては、私にも責任の一端があります」
 「…もうよい。それは過ぎたことだ。今は先のことについて思案せねばならん」
 ラケシスは今までになく真剣な表情でエルトシャンに向き合う。
 まだ幼さの残る端正な顔立ちを彩るのは責任ある王族の風貌。
 フィンは彼女から目を離せない…
 「いえ兄上。話させてください。あの時、兄上が私をお叱りになった事、それは当然です。私がグランベルに加担した 事は事実なのですから」
 一呼吸置いて、ラケシスは続ける。
 「ですが、私はあの時の判断。決して間違ってなかったと今なら確信できます」
 一瞬、部屋の空気が凍り付いたような印象だった。フィンもエルトシャンも、恐らく当のラケシス自身も驚いているに違 いない。
 自分でも意図してなかったが言葉が、意識の棚の奥に入れていた考えが思わず洩れたようなものだったのかもしれ ない。

 「アグストリアの殆どの諸侯がグランベルへの軍事行動を取ったのは事実です。あのまま暴走を続けていたら、アグ ストリアとグランベルの全面戦争になったでしょう。国力や地理を考えても、戦争が長期化する可能性が高い。そうなれ ば、苦しむのは罪のない民です」
 一度、瞳を閉じるラケシス。今の彼女の脳裏にはハイライン軍がノディオン城を包囲した際、場内の市民達が苦難を 強いられた光景が浮んでいるに違いなかった。
 「確かに私はそこまで考えていませんでした。でも、結果的にはアグストリアの被害は少なく抑えられましたし、グラン ベルとも休戦状態になる事もできました…」
 実際、エルトシャンの主張を通していたら、アグストリアはグランベル領内に侵攻。イザークから引き返して来るであろ うグランベル軍主力とかの地で長時間の激戦となったであろう。また遠征には膨大な物資、資金が必要であり、それを 賄うために民への負担が強められ、その影響は経済にも及んだであろう
 ラケシスの行動と判断は恐らく多くの不幸を回避する事に繋がった。あくまで結果論ではあるが。

 「ラケシス…自分の言っている意味が分かっているのか?」
 「…分かっています。兄上。ここはシグルド様の条件で事を進めましょう。アグストリアの未来が戦火に包まれるものに ならないように…」
 「お前…」
 フィンは思わずこの部屋に他の人間がいないかどうか確認してしまった。彼女の言葉があまりに過激だったからだ。
 彼女は国家よりも民の方を優先すべきと言っているに等しい。
 王家を始め、諸侯を保守することより、人民の安全をまずは優先する。その考えはこの時代、誰も抱く事が無かった 概念。
 無論、アグスティ王家を主君と仰ぐノディオンの王としても看過できる発言ではない。
 「ラケシス、お前にはノディオン王族としての心構えが出来ていないようだ。そのようにアグスティ王家の威光を損なう 発言。見過ごせない」
 エルトシャンの顔が強張っていくの目に入り、ようやくラケシスは主張を止める。
 彼女の顔は先程とはうって変わって蒼白になっていく。顔には焦りの色が現れる。
 「も、申し訳ありません!兄上!過ぎた発言でした…」
 あのアグスティの際の情けない姿に逆戻りしてしまったようだ。やはり彼女にとって兄は絶対の存在。彼の意向に逆ら う事はあってはならないことなのだろう。
 しかし、なら何故、先ほどはあのような発言をしたのか?


 「いや、お前の言いたい事には一理あるのも認めよう。しかし、アグストリアをグランベルの傀儡国家とするような選択 は避けたい。ラケシス、とりあえず一旦、シグルドのところへ戻れ。この条件では俺はお前に協力できない。別の条件な り手段を考えろと」
 「し、しかし兄上!」
 「くどいぞラケシス!お前もアグストリアのために何か成したいなら、ここに留まるのではなく、事態が好転するまで奔 走するが良い!」
 再びの拒絶。力無く椅子に座り込むラケシスの表情は蒼白になっている。
 フィンは虚ろなラケシスと、彼女に強い言葉を投げかけたエルトシャンの顔を見比べる。
 ちょうどその時、エルトシャンと視線が合ってしまった。
 獅子王と畏怖される騎士王。しかし、今の彼は騎士の中の騎士に相応しい威圧感を誇ってはいなかった。
 むしろ、途方にくれた子供のような印象を抱かせる、そんな何かがあった。

 だが、ラケシス自身は兄の違和感に気づく事が無く、ひたすら打ちのめさせるしかなかった。
 
 
 フィンは結局、この場に居合わせても何を言う事も出来ない、ただの傍観者に終始した。
 逆に言えば、彼はこの二人を観察する事に専念する事が出来た。
 ラケシスは激しくエルトシャンに恋慕しているのは分かる。
 エルトシャンはラケシスに厳しく当たっている。しかし、それだけでない、内なる感情の存在を感じさせる。
 一方的な関係にしか見えない二人。しかし、何人であろうとも、この二人の間に割って入る光景は浮ばなかった。 


 結局、エルトシャンとラケシスの会談は平行線のままに終わり、二人はアグスティへn帰路へとつくことになる。
 終始、俯いたままのラケシスはフィンに導かれ、ジルベールを後にした。



 二人が城門から再び平原へと駆け出していくのをエルトシャンは場内からずっと眺めていた。
 寂しげな瞳でずっとラケシスの姿を追う。彼女の乗った馬が地平線の彼方に消えるまで。



 ***



 ラケシスが自分に特別な感情を抱いている事は知っていた。
 初めて出会ったあの時、自分を見つめる視線の意味を知ったときから。
 正直、気に入らなかった。自分とラケシスは兄と妹の関係。禁忌の気持ちを抱いてはならない関係。それなのに新しく 来た妹は自分を特別な眼で見る。嫌な感情しか抱けなかった。
 だが、逆にラケシスを不当に非難する周囲の反応にも虫唾が走った。彼女は出生を選べたわけではない。それを嘲 笑する事はあまりに卑劣で歪んだ行為だ。
 その意味ではラケシスを守った。好意によるものではない。ただ、自分の価値観に従ったまでだ。それなのに彼女が 自分を見る視線はさらに熱く、輝きを増していく。
 さらに不快感が増していく…はずだった。

 
 (俺の気持ちなど解さず、お前は俺を見続けた…)
 繰り返させる日々の中、彼女は確実に変っていった。
 王家の姫として相応しい姿になろうと走り続けたラケシスを間近で見続ける事になる。だからこそ、彼女がいかに努力 したかが自分には分かった。恐らくは彼女以上に。
 日々、教養を習い、勉学に励み、舞踏や礼法などにも率先して取り組んだ。さらにノディオン王族らしく剣や魔法、さら には乗馬にも自ら進んで精進しようとした。
 寝る間も惜しんで自らを伸ばそうとする姿はあまりに健気で力強かった。
 庶子である彼女が自分の傍に居るための努力。その意思に気づいた時、自分の心が揺さぶられるのを感じた。
 
 決して成就させる事がない思いだ。このままなら彼女に人並みの女性として幸せが訪れる事は無い。それにもかか わらず、ひたすら努力を積み重ね、最高の妹になろうとする。
 これは一つの愛し方。これも愛される形の一つ。
 

 戸惑いを知覚したが、正直、どう接していいか分からなかった。剣や馬の教えを請う彼女に優しく教える事もあれば、 行き過ぎた鍛錬を叱り付ける事もあった。
 一定しない接し方と自分の感情。
 それでも時間は過ぎて行き、彼女はさらに美しくなった。さらに自分の中のうねりは大きくなっていた。
 ちょうどその頃、同盟国であるグランベルの士官学校に入学を勧められ、彼は承諾した。
 大陸最大の軍事力を誇るグランベル軍の中で自分を鍛えたい欲求もあったが、何よりも一度、ラケシスと離れ、自分 の気持ちを整理したかった。

 
 3年間の留学中にシグルドやキュアンという親友を得る事が出来た。と同時に、彼なりにラケシスとの関係に一定の 答えを得る事が出来た。
 やはり自分と彼女はただの兄と妹だ。それがお互いにとって最良の関係のはずだ。
 絶対に自分達二人は結ばれ事はない。王族という柵の多い世界では尚更。
 だったら、兄と妹の関係を通したほうが良い。そのうちラケシスにも良い男性と巡り合い、女性としての幸せを極めら れるはず。
 その決意を胸に留学を終え、国へと帰った。


 しかし、揺るぎ無いはずの決意はすぐに綻びが生ずる事になる。
 帰国した自分を迎えたのはさらに美しくなった妹の姿であった。
 今度は自分が心を奪われかけた。

 帰国してすぐ、エルトシャンは結婚した。
 かねてから話があった件だが、これについてはエルトシャンが急遽、進めた感が強い。
 自分のうねりがさらに大きいものになる前に…



 (ラケシス、お前は本当に成長したな)
 ずっと傍で彼女を見続けてきた自分なら分かる。
 女性として魅力的に、王族として立派に育ったと心から言える。
 自分不在のノディオンをハイラインから守りきり、さらには暴走するアグストリアをシグルドと共に制止した。
 それに先ほどの話。
 民を苦しめないためにもグランベルと和解した方がいいと主張したラケシス。
 正直、民の上に立つ王族としては彼女の主張こそ何よりも守らなければならないもののはずだ。自分みたいに主従と 誇りなどに拘っている事が王族として必要な事ではないはずだ。
 ラケシスはこれまでの経験と絶え間ない勉学の末にその考えに辿りついたの違いない。
 そして今まで自分の言葉に頷くだけだったラケシスは毅然と考えを示せるまでの精神的な強さを手に入れたのだ。
 恐らく、今の彼女は兄の意見には逆らいたくない恐れと、それでも正しいと思った事はしっかりと伝えないといけないと いう義務感の板ばさみになっているに違いない。
 でも、それは兄の意識に自分を売り込むことしか考えていなかった彼女にとっては大いなる成長なのだ。
 
 さらに成長していくであろう妹のラケシス。だからこそ…
 (だからこそ、お前と離れていなければならない)
 もうこれ以上、自分の意識を乱して欲しくない。
 妹として扱いたい理性がこれ以上、一緒に居てはいけないと訴えかけてくる。
 間に設けていた壁を崩してしまうかもしれないと…



 ***



 「なんじゃと!エルトシャンとグランベルが今、秘密裏に交渉しておるじゃと!」
 アグストリア北岸の都市、マディノ。ここにはグランベルがアグスティを制圧した際、避難を余儀なくされたアグスティ王 であり、アグストリア諸侯連合の盟主シャガールがいた。
 この半年間、屈辱に満ちた日々を余儀なくされていた彼の元に、暗黒教団からの使者が訪れたのはエルトシャンとラ ケシスが話し合った当日の事であった。
 「はい。今、ラケシスはシグルドの下で占領下となったアグストリアの統治を手伝っております。言わば、シグルドの配 下に成り下がっております。その女が今、兄であるエルトシャン殿と何か密談している様子」
 「おのれシグルド、そしてエルトシャンめ!このワシを無視しおって!」
 使者が伝えた内容に激昂するシャガール。
 最近の彼は何から何まで気に食わなかった。領地であるアグスティを追い出されたこと。この片田舎であるマディノに 押し込まれた事。
 それに今回の件。グランベルの代理人であるシグルドが交渉すべきはアグストリアの盟主たる自分だろう?それなの に、たかがノディオン王に過ぎないエルトシャンに話を持ち込むなど筋違いも甚だしい。
 実際、民の間でアグストリアを真の王にエルトシャンを推す声が囁かれている状況だ。世界が自分を無視しているよ うで、人一倍自我が強い彼に精神的な圧迫を与えていた。
 「シグルドとエルトシャンは親友同士。元より信頼すべき者ではありません。今回もシャガール様を蔑ろにして何かを 謀っているのです。これは看過できぬ事態ですぞ」
 一方、黒衣に身を包んだ男はシャガールの不安を煽る形で発言を繰り返す。
 暗黒教団は今までシャガールに様々な形で協力してきた。先代のアグスティ王であるイムカの暗殺。それに続くアグ ストリア内のおける覇権の確保。ノディオン攻撃とシャガールの行動の裏には常に彼らが暗躍していた。ノディオン攻撃 の際、ハイライン軍に加わっていた暗黒魔法を使う魔道士も暗黒教団から派遣された者だった。
 「エルトシャンはワシの臣下に過ぎぬ筈なのに…くそ!奴は何を企んでおるのか…」
 「あの男は元より親グランベルの人間です。シグルドと共謀し、恐らくはこのアグストリアをグランベルに献上する変わ りに、自分が代理としてこの地を統治しようとしているのでしょう」
 「おのれ…おのれ、おのれ、おのれえぇっ!!」
 使者の発言を信じ、怒りを爆発させるシャガール。元より、彼は激しい感情と性格の持ち主である。こういう男は誘導 し易い。
 
 「シャガール様。ここはシグルドに対し、先制攻撃をすべきでしょう。時間が過ぎていけば奴等の謀が固まっていくでし ょう。そうなる前に諸悪の根源であるシグルドを討つべきなのです!」
 「し、しかし、エルトシャンとシグルドは組んでいるのであろう?奴を攻撃すればエルトシャンが加勢するのではない か?」
 「いえ、シャガール様を堂々と裏切れば、人心は奴から離れるでしょう。あのいい格好をする事しか能が無い男には、 それは避けねばならない筈。となれば、奴は我々に味方するしかなくなるでしょう」
 徐々に天秤は破局へと向かいつつある。しかし、当の彼はその事実に気づいてはいない。
 さらに追い打ちを掛ける使者にとうとうシャガールは決断する。
 「今しか機会はありませんぞ!今、グランベル軍主力はイザークへ遠征中のまま。しかし、イザークを支配したら、そ の矛先をアグストリアに向けるのは確実。現在のシャガール様の軍事力では迎え撃つのは不可能です。一刻も早くシ グルドを討ち、アグストリアを回復して体制を整えなければならないのです。なにとぞご決断を」
 「…うむ!よし、シグルドを討つぞ!ワシのアグストリアをグランベルとエルトシャンの勝手にはさせん。アグスティを占 領しているグランベル軍を攻撃する!」
 野心と不安を次々と突かれ、彼はついに再びグランベルに対しての兵を挙げる。
 残存する軍勢と集めていた傭兵軍団に出撃を直ちに出撃させ、態勢の整わないシグルド軍の撃破を企図した。
 再び、戦いが始まろうとしていた。



 (愚かな男め。しっかりと捨て駒の役目を果たしてくれよ)
 シャガールの前から下がった魔道士は蔑んだ目で彼を見つめた。
 暗黒教団はここ数年、ユグドラル大陸で起きた政変の多くに関与してきた。
 謀略、姦計、脅迫。彼らは自分達の野望達成のために、世界の裏側に潜んで暗躍を繰り返してきた。さらにはグラン ベル内にも『協力者』を確保し、行動力を手に入れ、このアグストリアにまで触手を伸ばしていた。
 その甲斐あってか、世界の情勢は彼らの意図したものになっていったが、全ての計画が順調に進んだ訳ではなく、変 更を余儀なくされた事態も起きた。
 グランベルの侵攻に対してイザークの民が想像以上に頑強に抵抗し、かの地を支配するのに時間が多く掛かってい る事。
 そしてこのアグストリアの情勢も完璧に制御出来たとは言い難い。
 本来、シャガールを筆頭とする反グランベル諸侯を用いてノディオン、エバンスを抜いてグランベル領内に侵入。自分 達の敵となりうる残留グランベル諸侯を一掃した後に、イザークに展開した主力軍でアグストリア軍を撃破して、一挙に アグストリアまでグランベルが支配する事を狙った。
 しかし、アグストリア軍と、ノディオン、そしてエバンスに駐留していたシグルド軍の実力を彼らは完全に把握し損なっ ていた。ハイライン軍による攻勢はエバンスはおろか、ノディオンにおいて頓挫し、グランベル侵攻は完全に挫かれる 形となった。
 このため、彼らは計画の変更を余儀なくされた。順序を変えるのである。
 アグストリアにシグルド達有力者を排除させるのではなく、まずシグルドを利用してアグストリアを制圧させ、その後に シグルドを始末しようと言うのである。
 シャガールを暴発させてシグルド軍と戦闘状態に突入させる。そうすれば和平を望んでいたシグルドもエルトシャンも 戦いに巻き込まれ、合い討つ事になるだろう。シャガール自身は大した事がないが、強大な武力を有するシグルド軍と エルトシャン率いるクロスナイツが激突すれば、どんな結果になろうとも、どちらの勢力も力は激減するだろう。そこをグ ランベル内の『協力者』を使って討てば、労せずして邪魔者とアグストリアを排除できるのである。
 (あとは、上手く『協力者』があの男を支配してくれれば、我々の目標に一気に前進できる)
 魔道士はマディノの宮殿から外に出た。天を見上げると、厚い雲から雨がぽつぽつと降ってくるのが目に入った。
 今頃、自分達の重要な策がはるか東方で実を結んでいる事だろう。
 この暗雲は大いなる変化が訪れる前兆…と魔道士は確信し、邪まな笑みを浮かべた。



 先刻、降り始めた雨はさらに酷くなり、今では大雨となってアグスティに戻る二人の身体に打ち付けていた
 
 「ラケシス様!そんなに急がれては危険です!」
 後ろからフィンの声が聞こえてきたが、構わず全力で馬を走らすノディオンの姫君。
 確かにこの大雨で道は泥状になっており、馬を走らすもに苦労する状態だったが、構わない。それに、この雨はむし ろ助けになった。
 今の自分の顔は涙でぐちゃぐちゃぬいなっている。これだけの雨なら、流れ出る涙を少しは隠してくれるだろう。



 何でこんなことになってしまったのだろう?
 ただ、お兄様の傍にいたかっただけなのに。
 お兄様の求む答えを口にしていれば、それでよかったのに…
 でも、何かお兄様の言葉に理性が同意できなくて、思わず口答えをしてしまった。
 なんて愚かで自分。これじゃラケシスじゃない。
 ラケシスという女の望みは兄エルトシャンだけでいいのに。

 でも、間違った事は言っていない、はずだと思う。心のどこかで…



 「ラケシス様!」
 考え事に気を取られているうちに、フィンが自分の真横にまで追いついていた。
 咄嗟に顔を反対側へと向ける。こんな醜い顔は見られたくない。
 「ラケシス様。この雨で進み続けるのは危険です。人も馬もこの状況で酷使したら体がもちません。あそこに小屋があ ります。雨の勢いが減るまで、あそこで休んだ方が良いでしょう」
 フィンが左手の方を指差している。そちらの方には森が見えるのだが、その手前に確かに小屋が見える。人が住んで いるかは分からないが、雨宿りには使えそうだった。
 「フィン…でも、急いでシグルド様のところに戻らないと…」
 「危急の事態ではないのです。ここまで急ぐ必要はないはずです」
 確かに。急いでいるのは、ただがむしゃらに馬を走らせたかったのは自分が勝手な我侭に過ぎないのだから、彼の 理性的な判断を支持しない訳にはいかなかった。
 
 二人は馬を翻して、小屋を目指した。



 この日。アグストリアのはるか東方、イザークの地にて一つの事件が起きた。
 グランベル王国バーハラ王家の正当な王位継承者クルト王子が、シグルドの父であるシアルフィ家当主バイロン公に 暗殺された。



続く


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