ずっと一緒に





『江夏。本当にこの大学に行くのか』
『はい』
『ここは交通の便も悪いしなぁ…』
『それでも俺の意思は代わりません』
このエスカレーター式の高校で外部受験は多くない。それもそうだ。難関大学の付属校として名を馳せているこの高校では、このまま学部推薦を受ければ付属大学に入学できる。受験と言う辛苦を味合わなくていい。それを蹴って、わざわざ他大学を受けるなんていう変わり者は極少数だった。
案の定、と言うか、俺の予想通り、目の前の担任もあまりいい顔色はしていない。それもそのはずだ。高いレベルの大学を受けるならまだしも、俺が受ける大学のレベルはこの付属大学より下。おまけに地方も地方。案内パンフレットを見てもその交通便の悪さには頭を抱えたくなる。寮生活を余儀なくされることは目に見えていた。
それでも、それだからこそ、俺の意志は固かった。
『そうか…』
担任が低く唸った。
決して悪くない成績表と、願書を見比べながら眉間に皺を寄せている。
けれど、もう担任の承諾はすぐそこだった。


俺は逃げるように受験を決めた。
いや、実際逃げたんだ。
あいつから……。
そして自分自身から…。






「おーい、亨っ」
寮の廊下歩いていると、後方から低い声が届いた。
「夏休み、どうする? 住み込みバイト期待してるんだけど」
佐東司はそう屈託のない笑顔を俺に向けた。大学に入ってから、急速に親しくなった奴。今ではこの大学内で一番と友人と言っていい。
「そうしてさせてくれると助かるぜ。悪いな」
「いいっていいって。お前手伝ってくれると俺も助かるし。この時期は猫の手も借りたいって言う時期だからな」
「佐東のために俺は喜んで猫になりましょう」
「ばぁーか」
俺の言葉にげらげらと佐東は笑った。
「けど、お前実家に顔出さなくて平気かよ? ま、お前の助けを必要としている俺が言うのもなんだけど」
「ああ。…電話してるし、平気だろ」
俺の言葉にそんなもんか? と小首をかしげた。頻繁に実家に帰省している佐東からしてみると、俺は親不孝な奴と映っているだろう。それでも俺の心中を察してか、それ以上は何も言わなかった。そんな気遣いができる奴だからこそ、俺は佐東と上手くやっているんだろう。
「お前の実家も大変だよな。この間雑誌に紹介されてたぜ」
佐東の実家は旅館だ。
去年の夏休みに入る前、人手が足りないと愚痴っていた佐東に、自分から住み込みバイトを申し出た。家に帰る気は毛頭なく夏休みの予定を考えていた俺には、降って沸いて出たチャンスだった。それからというもの、学校の長期休業は全て佐東の実家の手伝いに行っている。
休暇毎に行ってるから、今回で4回目か。流石に佐東もいぶかしんでいるだろう。
「にしてもよ。今更だけどお前って俺のこと名字で呼ぶのな〜。なんか他人行儀な感じ」
「名字で呼ぶのが俺の親愛の証なんだよ」
「嘘つけ!」
ぐいっと俺を寄せると軽く殴りつけた。
あはは、と俺が軽く笑うと、つられたのか佐東も笑みを浮かべた。
…やっぱりかなり気にしてるか。
何時でも何処でも対等な関係を望む佐東は、そんなところにも拘りを見せる。
でも佐東に応えることは出来ない。
名前で俺が呼ぶのは家族を除いてはただ一人。
これから先にもあいつだけ――。
そう決めたから。
「あ、そうだ。お前に話したいことが…」
佐東が言いかけたそのときだった。
『305号室の江夏亨君、お電話が入っています。至急事務室までお越しください』
やる気のない放送が寮に響いた。この放送も寮生がかわるがわる担当しているからそれも仕方がないといえるが。
「お前じゃん」
「ああ…」
一体なんだろう。
何故かどうしようもなく胸騒ぎを覚える。

そしてその予感は的中したんだ…。



「母さんが入院…っ?」
「そう、今朝方緊急入院」
電話の相手は今年高校三年の3つ離れた妹だった。受話器を持つ手が震える。
俺の焦る声とは対照的に至極冷静な声で淡々と状況を述べた。
「飲酒運転の車に轢かれたの」
女はこういう事態に強いって聞いたことがあるけど本当だな、と俺はどうでもいいことに思考を巡らす。頭の中がぐちゃぐちゃで、何を考えたらいいのかまったく整理がつかない。
「轢かれたって…容態は!?」
「両腕と右足の骨折。命には別状無しよ、安心して」
「そ、そっか…」
安堵の息を漏らす。力が抜けて俺は電話の置かれた机に片手をついた。
良かった…。生きてる…。
「でも一回帰ってきて。母さんがこんな状態じゃ色々と困るし…大学もそろそろ夏季休業に入るんでしょ?」
「そ、それは…まぁ」
「まさか見舞いにもこないなんて薄情なこと言わないでしょうね!?」
「言うかよ! わかった、帰るよ。今から新幹線の切符を取る」
この目で確かめに、直に見るために。
今回ばかりは帰らないわけには行かなかった。

「わかった」
事情を話すと真面目な顔で、佐東は承諾の言葉を紡いだ。
俺が事務室を出ると佐東はすでにそこに立っていた。話も途中だったからその続きをしようと待っていたのかもしれない。
部屋から出てきた憔悴しきっていた俺の様子に、流石の佐東も何かあったと気づいたらしい。
支離滅裂だった説明にも、順序良く適宜補足や質問を重ねて、俺にもまだ理解が出来ていなかった状況を整理してくれた。佐東は何でこの大学にいるんだろう、と思うぐらい頭の回転が早い奴だった。前に尋ねたら『寮生活をしてみたかったんだ』と言うなんとも脱力する理由が返ってきたっけ。
「忙しいのに…ごめんな」
「謝るなよ。そんなのそっちが優先に決まってんじゃん。バイト取るなんて言ってみろ。殴り飛ばしてやるぜ」
ぐいっと俺の前に拳を突き出すと、佐東はにやりと笑った。
「お前のおふくろさんが無事でよかったよ…。あ、俺のほうは気にするな。お前の方こそ久し振りの里帰りなんだから、ゆっくりと羽伸ばして来い」
久し振り、と言う言葉は俺の気分を更に重くさせた。言葉どおりだ。生まれてからこんなにも長い間家族の顔を見なかったことはない。どう接していいか、そんな簡単なことさえ忘れそうなほど…。
なのに。それなのに。
苦しくなるほどあいつの顔や声は頭から離れない。
「で、辛くなったら俺んところにくればいつでもこき使ってやるからよ。お前の応援は365日常に大歓迎だからな」
場所は知ってるだろ、と付け足して。
「さ、早く準備しろよ。俺はその間に切符とってやるから」
佐東は俺の背中を押した。
それは俺の気持ちまで押すように力強いものだった。
佐東の言葉に、温かさに、涙が出そうになった。



帰省して俺はすぐさま教えられた病院に向かった。
病院独特の雰囲気に俺の気持ちはただ焦るばかりだ。命に別状はないと聞いていても、いざ病院に駆けつけるとなんともいえない危機感が俺を襲う。
焦る気持ちを抑え、俺は愛から聞いた病室へと向かった。
305。
その数字が書かれた部屋の前で俺は呼吸を整える。
ここだ。
4人部屋なんだな。
書かれた4つの名前の中にお袋の名前を確認して。
入院は本当のことだったんだと改めて実感する。
俺はふうっと息を吐き出すと、そのドアを開いた。
そんな俺の重苦しい緊張感とは全くかけ離れた、そう全く想像もしていなかった声が俺に降りかかった。
「おかえりー。亨。あんた全然帰ってこないから心配してたのよぉ。全く薄情な子なんだから」
…病室を間違えたか? と一瞬思ったが、ベッドに横になっているのは紛れもなく俺の母だ。6人部屋の病室は母さんの声だけが異常なほど響き渡ってる。やたら明るい声で俺に話し掛けると、そのままマシンガンのように話しつづけた。
「母さん…元気そうじゃん…」
「あんた私の何処を見て元気って言うのよ。足は固定されてるし、腕! 腕見なさいよ。これじゃあ何するにも不自由よー。空元気でも出してないとくらーくなっちゃうでしょうが」
確かにじめじめとお葬式ムードよりかは気が楽だけど…。
ギブスで固定された腕を見なさい、と視線を送ってくる。
「でも元気そうで安心したよ。愛から車に轢かれたなんて聞いて寿命が縮まった」
愛、とは俺の妹の名だ。
「あら? 車には轢かれてないわよ。正しく言うと自転車に乗ってたら、前方に止めてあった車にぶつかりそうになっちゃってねー。慌ててハンドルを切ろうとしたらそのまま地面に倒れたのよ。気がついたらこんな状態」
「…って…母さんの前方不注意が原因…?」
「そうとも言うかしらー」
全く悪びれもなく豪快に笑うと、お見舞いの果物を食べる?と言って俺に差し出してきた。
「いや、いいよ…。じゃ、俺帰るから」
「帰るって…勿論家に、よね?」
「いや…住み込みバイトがあるんだ。それに…」
「何言ってるの! 母さんがこんなになってるのにバイトですって! 当分は家にいなさい。それでなくても今母さんがいなくて家の中大変なんだから! 愛も今年受験生だし、あんたが家事全般やりなさいよ。お父さんと愛だけじゃ心配だわ」
「ち、ちょっと…それは横暴だって」
「だったら学費払わないわよ。いいのね?」
鬼のような形相で冷たく言い放った。
「か、帰らせて頂きます…」
俺の決意は簡単に砕け散った。
こうなることが想像できたから俺は帰りたくなかったんだ…。


それでも家から出なければあいつに会う事はないだろう、と、どこか楽観的に俺は考えていた。


「ただいまーって、親父か!? これは」
居間にはカップラーメンの残骸が幾つも転がっている。何時からこうなっているのか考えたくもない。おそらく台所は腐海の森と化しているだろう。足を踏み入れたくもない。これなら俺の寮生活の方がよっぽど健康的だ。
ぶつぶつと一人ごちて、塵袋へと放り込む。1年半ぶりの我が家で一番最初にやったことが掃除なんて悲しすぎないか?
「ただいまー」
あの声は愛だな。文句言ってやる!
そう意気込んで俺は居間から顔を出した。
「愛! なんだよ、これ! ちょっとは片付けろよ」
そう怒鳴りつけた後、俺はそのまま動けなくなった。
「ま…ひと…」
視界に飛び込んできたのは…すっかりギャル化した愛と…あいつ。
俺が今一番逢いたくなくて…でも一番逢いたかった幼馴染の浜中真人、だった。

浜中真人。

俺の幼馴染でもあり、幼稚園から高校までずっと一緒に学校に通っていた同級生でもある。
ほっそりとした体躯。けどしっかりと筋肉はついていて、喧嘩をしたら俺が何時も負けていた。何より目を引くのはそのまま芸能界にでも入れそうな愛曰くジャニーズ系の顔。実際学校でもそのモテっぷりは半端じゃなかった。勿論、ただ綺麗なだけではない。真人からは人を惹きつけるオーラみたいなやつが放たれてた。
成績優秀、容姿端麗、スポーツ万能。
俺はあいつへの賛辞しか今まで聞いたことがない。
幼馴染じゃなかったら、俺とはずっと別次元で暮らしていたかのような奴だった。
コンプレックスなんて言葉とは無縁だった。コンプレックスの対象として真人は成り立っていなかった。だってあまりに俺とは違ったから。ただ真人の傍にいられるのが優越感で。俺は特別なんだってずっと思い込んでいた。
本当に馬鹿だったんだ。
真人の隣のポジションは俺専用ってわけじゃないのに…。


「ねぇ…。はっきり言って真人君のお荷物なのよ、あんた」
神楽敦美ははっきり物事を言う女だった。3年になって初めて同じクラスになったが物怖じしない態度で男女ともに好かれていた。
でも、俺自身は好意はもてなかった。
理由は簡単だ。彼女が真人へ恋愛感情を持っていたから、だ。
ある日、放課後神楽から呼び出された。彼女の口から飛び出た言葉は俺にかつてないほど動揺をもたらした。
彼女は今まで俺が考えないようにしてきたことをはっきりと指摘したのだ。
そうだ、俺のせいで今まで何回も真人を束縛してきた。学校帰りだって一緒に待ち合わせして帰ったり。委員会も一緒にやろうって誘ったり。友達同士なら当たり前のことも真人となると廻りの反応は違うらしい。それもそうだ。そうしたいのはきっと俺だけじゃない。俺は幼馴染と言うポジションに甘えてあいつを独占してきた。でも真人は優しいから何時だって俺の意見に同意してくれた。
「あ…」
「っていうかお荷物って言うより邪魔なの。目障りなの。男の癖に何時までもべたべたしないで。真人君を独占しないでよ、気持ち悪い」
キモチワルイ。
その一言が止めだった。
俺の中で渦巻いていた真人への感情。
これは俗に言う恋愛感情だろう。
そうだ。とっくに友情なんてものは越えている。
神楽は女の感と言うやつで俺の中にある感情を悟ったんだ。
キモチワルイ、キモチワルイ…。
その言葉が何時までも俺の頭の中に流れていた。

俺はその日から真人と離れることを考え始めた。
俺の気持ちを知られるのが怖かった。
知られる前にあいつから離れないといけない。知られて、幼馴染と言うポジションまでは失いたくなかった。
俺は真人がいないと何もできないんじゃないか。
そう思うようさえなっていた。
何時も真人が俺を優しく導いてくれる。俺はその後を歩いていくだけだった。このままじゃ俺の中の真人の存在がどんどん大きくなっていく。でも真人はそうじゃない。俺が必要としているほど、あいつは俺を必要としていないだろう。
この邪な想いが育たないうちに俺は真人から離れることを決意した。今ならまだ取り返しがつく、そう思いこんで。

俺は一人別の大学への進学の道を目指した。真人にはそのことについては何も言わずにいたけど、先生受けのいいあいつの耳にその情報が流れないはずもなく、すぐにばれた。
何度も何度もわけを聞かれた。
でも俺は一貫して黙秘を通した。
そのころには願書も締め切っていて、俺の進路変更はほぼ不可能となっていた。ぎりぎりに先生に相談したかいもあったということだ。
そして俺は地方の大学へと進学した。
その大学の寮は家族の電話しか取り次がない。真人へ連絡をつけたいなら俺からかけるしかない。でも俺はそれをしなかった。
これで真人断ちは完璧な筈だった。


俺はあいつから逃げた。
自分のこの想いと向き合うことが怖かった。
ずっとずっと、今もずっと。


「な、何でここに…」
呆然と呟いた俺の言葉に応えたのは愛だった。
「あれ、言ってなかったっけ? 私と真人と付き合ってるの。もう一年半くらいだよ。お兄ちゃんが大学入ってすぐ」
ツキアッテルノ。
異国語の言葉のように、それは聞こえた。
その言葉の意味を認識するのを頭が、心が、拒否している。
付き合ってる?
真人と愛が、か…?
それを認識するとがくがくと足が震えた。
付き合ってるってなんだよ…なんでそんなことになってるんだ…。
完全に真人との縁は断ち切ったつもりだった。幼馴染と言えども家は遠い。連絡を取らなければ会うはずもない、そう高をくくっていた。それがどうだ。真人は妹の恋人として再び俺の前にいる。
しかも一年半も付き合っているという。それだと、俺が入学してすぐの話だ。
俺の我侭なんて、どうしようもないことで。
お前との縁は断ち切ろうとしても断ち切れないのか?
妹の恋人なんて最高の復讐だよ、真人…。
これなら俺は真人を忘れられない。
忘れることなんでできやしない…!
「久し振り、亨」
死ぬほど恋しかったその声が俺の耳に飛び込んできた。
真っ直ぐに俺を貫く声。
俺はその声に弾かれるように視線を向けた。
一年半ぶりに見る真人は、幼さが抜けてますます男らしい顔つきになっていた。
ますます手の届かない奴になった、というのが俺の感想だ。
目の前の真人は前と変わらない笑顔を俺に向けている。
恨み言の一つも言われるか、無視されるか。色々考えていた俺にとっては想像もしていなかった笑顔だ。愛の彼氏として幸せなんだろう。
俺は湧き上がるどうしようもない感情を抑えるのに精一杯だった。
「…そっか、お前ら付き合ってたのかよ…。全然知らなかった」
真人に挨拶はせず、それだけ言うと、それだけ言うと俺は居間へと戻った。
これ以上二人を見るのは辛かった。
「お兄ちゃんみたいにさみしー生活は送ってないの、真人は。ここに来るまでだってスカウトとか女の子の視線浴びて大変だったんだから!」
「そうかよ」
俺と出掛けた時もそうだった。面白いぐらい真人はスカウトやら逆ナンパされた。その度に嬉しい反面、嫉妬もした。今となっては愛だけが覚える感情だろうけど。
「ちょっと、お兄ちゃん、久し振りに真人と会ってもっと言うことあるでしょう。なんなのよ、その態度」
「…俺は疲れてンだよ。後はお前が片付けて置けよ!」
今真人に話すときっと俺は詰ってしまうだろう。自分のことは棚に上げて。
勝手な奴。反吐が出る。
こんな自分が大嫌いだ。
俺はそのまま自室への階段を駆け上った。

一年半ぶりに足を踏み入れた俺の部屋は意外にも綺麗だった。母さんが整理でもしたのだろうか。机の上にも埃がたまっている、ということはなかった。
一通り見回すとそのままベッドへ身を投げる。
いろいろな感情が波のように押し寄せてくる。
「…っ」
失恋したぐらいで泣くなんて情けねぇ…。
俺のそんな強がりをあざ笑うかのように、涙は止め処なく溢れた。



「ん…っ」
暗い? どうやらベッドで泣き伏せっているうちにいつのまにか眠ってしまったらしい。まだ重い瞼を少しずつ開ける。
「ま…真人…」
まだ夢を見ているのかと思った。俺の視界には真人の顔が合ったから。
慌ててベッドから半身を起こすと、俺は呆然として見詰めた。
ぽかんとしていた俺に真人は淡々と告げた。
「鍵開いてたから」
「開いてた…って! 勝手に入ってくるんじゃねぇよ!! 愛のトコにでも行ってろ!」
俺は手元に合った枕をそのまま真人へ投げつけた。投げつけたところでこんなものじゃどうにもならないことはわかっていたけど、この行き場のない思いと怒りを真人へぶつける手段はこれしかなかった。
真人はそれをそのまま受け止めると、俺の机に備え付けてある椅子に座った。昔何回も合った構図だ。
あのころとは違う。かわらないのは俺と真人二人、ということだけ…。
「愛は今さっき、おばさんの面会に行ったよ。まだ今日はいってなかったみたいだからな。部屋に勝手に入ったのは謝る。でもお前が前に言ったんだろ。俺の部屋は自由に使ってくれて構わないって」
そんなこと言ったことも合った。だけど…。
「昔の話だろ…」
「泣いてたのか?」
前触れもなく言われて、羞恥に顔が赤くなるのを感じた。一番見られたくない相手にそのことを指摘された。ぐっと唇を噛締める。
誰のせいで泣いたと思ってんだよ…!
…いや、違う。
違う…真人は悪くない。
真人から距離を置くことを選んだのは俺。勝手に失恋したのも俺。逃げてばかりいる道を選んだのも俺自身だ。真人を責める資格なんて、俺にはないんだ…!
再び涙が流れる頬に真人の手が延びた。
優しい手つきで俺の涙を拭う。
この温もりを手放したのは何時だったろう…。
ぼんやりとそんなことを考える。
…もう思い出せないないほど昔だ。
「お前とは一度ちゃんと話したかったし、聞きたかったんだ。今それを逃したらもう次はないと思った。だから悪いとは思ったが、強引に部屋に入らせてもらった。聞かせてくれないか? お前が別の大学を選んだわけや…俺と離れようとした理由を」
いきなり核心に迫る質問かよ…容赦ないよな。
「…っ」
言えるわけないだろ。そんなこと…。
でももう失恋も決定だ。
言ってしまったらどんなに楽になるのか…。
でも俺のせいで愛とまで気まずくなったら?
今まで特定の彼女を作らなかった真人が始めて付き合ったのが愛だ。引く手あまたの真人の恋人だ。その思いは中途半端なものじゃないだろう。そういう奴じゃないってことは幼馴染の俺が一番わかってる。
…言えない。この想いはずっと封印しなきゃならない。
何も気づいてなかったあのころにも当然戻ることは出来ない。今更友達づきあいなんて出来ないんだ。
黙り込んでしまった俺に、真人は意外な言葉を投げかけた。
「佐東って奴と随分親しいんだな」
「え?」
真人の口から出た人物の名に俺の動きが止まる。
「佐東…って俺の大学の?」
「そうだ」
「何で…知ってるんだ」
「さっき電話がかかってきた。愛が出れないって言うから代わりに俺が出たんだよ。お前は寝ていたみたいだしな」
今時携帯をもっていない俺に連絡を取り合うのは自宅に電話するしかない。そういえば佐東にはまだ連絡をいれてなかった。心配してわざわざ電話をくれたんだろう。あいつのことだから。
「お前は元気かって聞かれた。バイトの件は大丈夫だから安心しろって伝えてくれ、と」
「そうか…」
「お前が帰ってこなかったとき、そいつの世話で住み込みバイトをしていたんだな」
「…ああ」
「今回もする予定だったんだって?」
「…そうだよ」
「どうして?」
どうして? どうして、とお前が聞くのか?
「逢いたくなかったんだよ、お前に!」
「…理由は? 何で俺に逢いたくなかったんだ?」
変わらない表情で聞く真人に俺の中で何かが弾けた。
無神経もここまで来ると笑える。
知らないなら。知りたいなら。
教えればいい。
簡単なことだった。
これはあいつの疑問に応えるだけ、ただそれだけのことなんだ。
愛…ゴメンな。
「好きだからだよ! お前が好きだから! こんな気持ち知られたくねぇから逢わないようにしてきたんだよ!!」
一回想いを吐露してしまえば後はなし崩しだった。どんどん今まで溜め込んでいた言葉が口を出る。
「気持ち悪ィだろ。男が男にこんな感情抱くんだぜ? 話してやるよ、お前が聞きたかった理由ってやつをさ! 別の大学に行ったのはお前とこのままお友達をやっていくのが耐えられなかったから。こんな気持ちを抱えたままお前と付き合うのが嫌だったんだよ。離れなきゃやってらんなかった。こんな気持ちを抱えたまま、お前を見てるのが辛かったんだよ!」
それを一気に捲し上げると、俺はあいつの顔を正面から見据えた。
黒色の瞳には俺の間抜けな姿が映し出されていた。
そう感じ取った瞬間。
震えていた。
足も指も身体も。吐き出された思いに耐えられなくて震えている。
かっこ悪ィ…。
重苦しい空気が辺りを包んでいる。潰されそうになる圧迫感。でも、今度は逃げない。逃げたって何の解決にもならないことは俺自身が一番よく知っている。逃げてもいい話じゃないんだ。きっぱり振られて諦めるのが一番いい…。そうだろ、真人。
「…何時から?」
この重苦しい口を開いたのは真人だった。俺は真人の返事を待つために口を開かなかったから必然的にそうなる。
「…気持ちに気づいたのは高校3年の秋」
「…あのころからか」
あの、と言うのはきっと俺が勝手に決めた進路にあるんだろう。
俺から聞いた言葉をゆっくりと呟いた後、真人はくつくつと笑い出した。
「おい…何笑ってるんだよ」
俺の気持ち踏みにじられたようで腹が立ってきた。なんだよ、コイツ。俺の一世一代の告白を何だと思ってるんだ!?
ひとしきり笑うと真人は大きく息をついた。
「お互い勘違いだったんだな…」
「…はぁ?」
何がどう勘違いだと言うんだろう。
「俺のほうが全然早い。中学のあがったころだったし」
「…何が?」
真人の言っている意味がわからず、俺は聞き返した。
「お前に恋愛感情を抱いたのが」
「…え…」
何て…今なんて?
「俺もお前のことが好きだ」
どこか遠くでその言葉を聞いているかのようだった。
「だって…愛は! 愛はどうなるんだ? 付き合っているんだろ!?」
俺は弾かれるように怒鳴っていた。
気休めならいらない。
同情も要らない。
そうだ、真人は優しいから…俺を傷つけないようにこんなことを言ってるんだ。
俺の言葉で、真人の表情も厳しくなっている。
「愛には悪いと思ってる…でもお前との関係を保つのはこれしかなかったんだ」
「意味が…意味がよく判らねぇ…」
愛と俺は兄妹だけど…保つのに何で…。
「お前が俺に内緒で遠くの大学を受験して…連絡も取れなくなって…。嫌われたと思った。
いつも傍にいたお前がこれからはいなくなる、そう考えただけで気が狂いそうだった。
お前との関係がこれっきりになるなんて…怖くて考えられなかった。お前から断ち切られたら、俺たちの関係もこれまでなんだ。
オレ一人繋ぎ止めたくても、それは不可能だろう。
でも愛と俺が付き合えば、お前との関係は違った形でも持続される…そう考えたんだ。…愛とは一年半付き合っているけど、何にもない。親愛の情はあっても、それは愛情じゃないから。
自分でも最低だと思ったよ。止めようって思ったことなんて数え切れない。でも愛と別れる事はお前との縁も断ち切ってしまうことになる…。それだけは避けたかった」
唖然としている俺に、真人は自嘲した笑いを浮かべた。
「俺は我侭で自分勝手な最低の人間なんだよ」
「そ…んな…そんなことない…」
首を振る俺に、真人はゆっくりと話し掛けてきた。
「嫌いになったか?」
「なるわけないだろ!」
即答で答える。俺が真人を嫌いになることなんてない。そうなれたらどんなに楽だったろう。
「本当に? 本当に俺のことが好きなのかよ?」
まだ信じられなかった。男同士の恋愛なんて禁忌で不毛で…かなうはずもないんだ。かなうはずもない、そう思っていた…けど。希望に胸が震えた。
「好きだ。亨が、好きだ」
状況がゆっくりと俺の中に浸透していく。
真人に告白された…両思い…だってことか?
そう熱っぽい声で真人は言葉を紡ぐ。その唇の動きを見ているだけで俺の心拍数は急上昇していく。紡ぐ言葉と真人の動作が俺を狂わせそうだ。
…心臓が破裂して死ぬかと思った。
いや、今なら死んでもいい、そう思えるほど幸せだった。
「お前は俺に嫌われると思って逃げたんだろう? 俺はその反対。このままの関係でいいからお前の傍に居たかった。友達でもいい、だからお前の一番になりたかったんだ。…と思ったのはお前と一緒にいられたころの話だけどな」
「え?」
「佐東って奴とはどういう関係?」
「友達。ただの…」
なんだよ、やきもち? と言う俺の軽口に真人は真顔で頷いた。
「お前が俺以外の奴と話すだけで、いつも腸が煮え繰り替えそうだったんだ。知らなかったろ?」
こく、と俺は首を縦に振る。
直に嬉しかった。
「お前を俺から離さないために、ずっと努力してた。勉強もスポーツも人望も何もかも。お前に飽きられないようにするのはどうしたらいいんだろうって」
「俺が真人に飽きるなんてこと絶対にない!」
真人は凄いやつって…天は二物を与えるじゃん、何て簡単に思ってたけど、それは真人の努力の上に成り立っているものだったんだ。
「真人の全部が好きなんだ。強いところも弱いところも。…それとも俺が真人の表面しか見ないやつだって思ってる?」
「思ってる」
う。
でも真人の表情は明るい。
「お前、俺の気持ちに気づかなかったし。逃げるし」
「そ、それは…返す言葉もない…けど…」
「…嘘だよ、思ってない。亨、お前が考えている以上に俺はお前のことが好きなんだ。それだけは知っておいてくれよ」
「真人…」
俺が呼ぶ、唯一の名前。
真人は気づいているだろうか?
「愛に謝らなくっちゃ、な」
「手当てなら任せとけよ」
気性の荒い妹だ。何されるかわからない。
殴られるぐらいですめばいいけど。
「…俺も最低だな。妹が振られるっていうのに喜んでる。嬉しいんだ…どうしようもなく」
「…亨」
「なあ、これ夢じゃねーの? まだ信じられない」
真人は俺の傍までくると、ぎゅっと俺の頬をつねった。
「いってー!」
「夢じゃないだろ?」
「っっ…。だからっていきなりつねることないじゃん!」
「ま、お約束って奴だろ」
俺の恨めしそうな視線に気づいたのか、真人はごめんごめんと謝りの言葉を言いながら俺の頬を撫でた。
それからそっと俺を抱きしめた。



回り道をして。遠回りばかりで。
きっとこれからも行き違いが合ったりして、俺たちの行く手には壁ばかりふさがってる。
でも今度は一人じゃない。
一緒に居たい人がここにいる。



俺はゆっくりと温かい背中に手を回した。
今までの分を取り返すように。
温もりを求める。
傍に居ような。
ずっと一緒に、これからも。



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