気が付けば。 自分の生活は彼中心に回っている。 嫌悪と苦痛に満ちた奈落での生活。 どろどろと胸に渦巻くものを糧にして。 自分は這い上がってきたのだ。あの地獄のような過去から。 ただ目指す未来は一つだけ。 目指す未来も生きる目的もそれだけ。 そう、そのためだけに生き延びてきたのだ。 それなのに。 彼の傍にいると癒される。 奈落で傷つけられた心が、奈落で生まれた新しい魂に癒されていく。 何か別の未来が自分にはあるのではないかと考えてしまうほどに。 そんな資格あるはずはないのに。 今の自分にあるはずはないのに。 「王子ー? 起きてください、朝ですよー」 テントを潜るといつも横たわっているはずのベッドにアレクの姿はなかった。 慌てて敷布に触れる。まだ微かに暖かい。 と言うことは起きてまだ間もないのだろう。 急いでテントを抜け出る。 何かが起こったのか。 全身に凍りつくような震えが沸き起こる。 「あ、サフィ。おはよう」 そんなサフィルスの元に明るいアレクの声が届いた。 身支度を整え、いつでも容易万端と言う姿である。 「お、王子っ!? どうしたんですか? 何処か具合でも悪いんですか!?」 「あ、お前ちょっと失礼だぞ!」 軽く頬を膨らませ抗議の表情を作る。 「あ、すみません! でもまさか王子がもう起きて、身支度を整えていらっしゃるなんて…」 「へへっ、だろー? 今日はお前を驚かせてやろーかと思って」 「はい、驚いちゃいました。それどころかちょっと感動しちゃいましたよ。王子も大人になられたんですね!」 「お前…ばかにしてるだろ」 少し言葉に語弊があったかもしれない。自分としては手放しで誉めたつもりだったのだが。 「そんなことありませんよ。アレク様の成長が嬉しくて嬉しくて」 「……」 ふと考え込む表情。 「アレク様?」 再び呼びかける。しかしその表情は何処か遠い。 「…王子!? やっぱり何処か具合でも?」 「あっ! 何? サフィ」 どうしたのだろうか。いつもと少し呼び方を変えたからだろうか。 身体の調子でも悪いのかとサフィルスは慌ててアレクの顔を覗き込んだ。 アレクの赤い瞳が揺らめく。 自分を通して誰か遠くを見ている。 何か。 何を? 「んー…あ、あのさ」 ためらうようにアレクはその口を開いた。 「なんですか?」 「ジェイドっていつもああなの?」 思ってもいない話題にサフィルスは息を呑んだ。 「ああ…とは?」 「面白い奴だったけどさ、いつもあんな感じなのかな―って」 「…気になるんですか?」 声が強張る。鼓動が高鳴る。掌に汗が滲む。 自分は上手く言えているだろうか。 動揺する。アレクの口から別の誰かの名前が出ただけで。こんなにも。 「え…。気になるっていうか…気になるっていうのかな…」 「あんな感じですよ。いつも人をからかって。本音をほとんど見せませんね」 抑揚のない口調。 冷ややかな自分の声。 自分で話しているのに何処か第三者的に聞いていた。 それは気に食わないあの人に対しての話だからなのか、それとも別の理由からなのか。 「また会いたいよな」 「…え?」 会いたい。 その意味の裏に隠されている感情。 知りたくない。とても。 「王子、彼らは」 「うん、判ってる。次に会うときは多分」 敵同士。 その言葉をアレクは一人呑み込む。 「…ジェイドと何か話したんですか?」 「え?」 「この間。私がいない間に」 喉が渇く。言葉も乾く。感情のこもっていないその言葉の奥底にあるものを見破られはしないだろうか。 「面白い話なんてしてないぞ。プラチナのことで精一杯だったし。それにあいつの言うことって難しくてさ」 アレクの表情が目まぐるしく変わる。 当時のことを思い出しているのだろう。 彼の表情をこんなにも変えさせる相手。 自分の中に込み上げてくる黒いもの。 奈落で生活することで自分の心も染まっていってしまったのだろうか。 紅く染まったこの手だけではなく、心も。 酷く弱い、この心も。 虚勢を張って。偽りの自分を形作っているはずなのに。 簡単に彼の前では剥ぎ取られてしまう。 こんなにも簡単な何かに変えられていってしまう。 「あいつ冷たいし、すぐ難しいこと言うし、意地悪だし、でも面白い奴だし。ちょっとだけだけど、優しかったし」 言葉進むにつれ好意の感情が迸る。 聞きたくない。 穢れない彼の口からそんな言葉は。 ジェイドは。 こんなにも容易く心を奪い取る。 何もかも上手で。 才能の違いを見せ付けられて。 自分はばかだから、彼の話すことを充分に理解できない。 それでも私には私のやり方があると、そう信じてアレクに仕えてきた。 たった一人の自分だけの王子。 それさえも。 簡単にジェイドは奪ってしまうのだろうか。 額に嵌められた赤い石は決して埋まることのないサフィルスと彼の距離を示しているかのようだ。 「王子!」 気が付けば言葉を遮っていた。いつもと違うサフィルスの声にアレクが身を竦める。 「え、何?」 「もうそろそろ天使討伐に行く時間ですよ」 「あ、うん、そうだね」 気づかせない。 芽生えたばかりのその気持ちにきつく蓋を締めさせる。 今ならきっと可能なはずだ。 「今日もよろしくね、サフィ!」 満面の笑みを浮かべ、アレクはサフィルスの手を取る。 「はい」 握られた手を力強く握り返す。 手を伸ばせばすぐ届く距離に彼はいる。 空より近い場所に彼は。 それなのに気持ちはこんなにも遠い。 自分の腕の中にいつまでもいて欲しくて。 眩しすぎる存在をいつまでも閉じ込めておきたくて。 彼を取り巻く全ての現状を把握しておきたい。 それは彼から自立と言う道を取り上げた。 けれど、彼はとても賢いから。 自分の介添えなしでも彼は自分の未来を進んでいく。 手放したくないと思ってしまうこの気持ちに名前を付けるとしたら。 それは一体なんだろう。 この笑顔は渡したくない。 誰にも。 自分が遠い未来壊すことになろうとしても。 今だけは。 そうこの現在だけは。 私だけの王子なのだから。 |