身代わり 1
(1)
――――気をつけなさい――――
そう頭上から降ってきた声は重く、身体の奥まで響き、そして深く沈んでいった。
塔矢行洋はヒカルにとって、目指すべき高みにいる棋士の一人だ。
しかしそれ以上に、何者にも代えがたい特別な存在である。
だからアキラが何気なく口にした一言に、ヒカルは自分でも驚くほど動揺していた。
「……塔矢先生、帰ってるのか? 聞いてないぞ?」
「そう、ゆうべね。誰にも知らせずに帰国したから、棋院の人だけでなく、門下生の人たち
も知らないよ。知ってるのはボクとキミの、二人だけ」
アキラはヒカルの髪をもてあそびながら言った。ヒカルの狼狽が指先に伝わってくる。
「でも塔矢、門下でもないオレがいきなり先生に会うのって、おかしくないか?」
その問いに、アキラも内心うなずいた。だがとぼけて見せる。
「何がおかしいんだ? 他ならぬ本人が会いたいと言ってるんだぞ?」
「だけど……」
なぜ行洋が自分に会いたいと思うのか。ヒカルは混乱した。
しかしアキラはそんなヒカルに気付かないふりをして、そのまま話をつづける。
「あさってはどうだ? もともとボクと会う予定の日だから大丈夫だろう?」
ヒカルは答えられない。会いたくないからではない。
むしろ会いたい。だが会うのが恐くてたまらないのだ。
自分は行洋を前にして、はたして冷静でいられるだろうか?
「キミが家に来るのは久しぶりだね……もちろん来るだろう?」
否と言わせる気は、アキラにはなかった。
ずっと気になっていたことがある。もう悩むのは疲れた。それにはっきりとさせなければ、
自分はいつまでたっても本当の気持ちをヒカルに伝えることができない。
「うん……」
ぎこちなくヒカルがうなずくと、珍しくアキラからキスをしてきた。
アキラの睫毛を見つめながら、ヒカルの胸のうちは不安に揺れていた。
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