温泉旅情 1
(1)
旅行に行きたいと言い出したのはヒカルのほうだった。
会話の途中に、何の脈絡もなく、彼は「旅行に行きたいな」と言った。
ヒカルが、思いつきをそのまま口にして、話題が脱線していくことなど
そう珍しいことでもない。
「どこにだ?」
あまり深くも考えず、俺は質問した。
「行くなら、温泉がいい」
「温泉?古風だな」
「じじむさいって言いたいの?」
笑いを含んだ俺の口調が気に入らなかったらしく、頬を膨らませてヒカルが不服そうに言う。
その子供っぽい表情は、彼を年齢よりいくらか幼く見せた。
「そういうつもりはない。歳のことを言うなら俺のほうが随分年寄りだ」
自嘲的な台詞で言い訳すれば、「まだ充分若いだろ」と慰められた。
他人に気遣われることには慣れていないので、彼の不器用な言葉がくすぐったかった。
「なんで温泉なんだ?」
「温泉、嫌い?」
「嫌いじゃないが、夏なら海とか、遊園地とか、他にももっと賑やかで刺激のある
観光スポットがいくらでもあるだろう」
若いんだからと、つい言いそうになって慌てて口を噤む。
「海も遊園地もいいけどさ、オレ、でっかい湯船にゆっくり浸るのも好きなんだぁ」
その、情景を想像しながらの、うっとりとした幸せそうな顔に、視線が釘づけられる。
「日帰りだと、そうゆっくりもしていられないだろう?」
「だから、泊まるんだよ。美人女将のいる旅館で一泊して、体を休めて疲れを取るんだって」
彼の頭の中にはすでに宿泊のプランが出来ているようだった。
「浴衣着て、風呂上りにはピンポンして、美味しい日本料理食べて、心ゆくまで碁を打って…」
聞いているうちに温泉に行きたくなった。今後の予定は詰まっているが、どうにかしようと思って
どうにもできないわけではない。ふらり出かけてみるのもいいと思う。
「どう、行きたくなった?」
無邪気な問いに、つい首を縦に振りそうになる。しかし、よく考えてみれば、男ひとりで
温泉旅情もないものだ。
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