ピングー 1
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日本棋院の最寄り駅と言えば市ケ谷駅で、その市ケ谷駅のすぐ近くに釣り堀があることは
良く知られているが、その釣り堀に熱帯魚屋が付属していることを知っている人は意外に
少ない。
その店の名を市ケ谷フィッシュセンターと言う。
釣り堀の入り口あたりに立つその建物は、シンプルかつ地味で、熱帯魚に興味がない人間なら
素通りは確実だ。
中に入っても、肝心の一階のフロアには無機質かつ乱雑に各種水槽及びガラスケースが積み
上げてあるだけで、なんとも殺風景である。
だが、その更に奥、地下一階に足を延ばせば、それらの光景は一変する。
乱舞する熱帯魚の群れ。水流にしどけなく身を任せる様々な水草。レジには美人のおねぇさん。
その脇で忙しく立ち働き、客に商品の説明をする男性店員。ムンと立ちこめる独特の湿気。
まさに熱帯魚屋だ。
その熱帯魚屋の一角に進藤ヒカルは立っていた。
ただ立っているわけではない。ある水槽の前に陣取っていた。
階段を降りてすぐのその場所は、この店にくる客の誰の目にも真っ先に入る場所で、居心地が
悪いことおびただしい。
そんな思いまでして、なぜヒカルがここにいるかというと、「晩飯にうまい寿司をおごるから」
の一言で緒方十段に買収されたからだ。
今日の対局を終えて、棋院を出ようと1階に降りたところで、ヒカルは緒方に呼び止められた。
「おい、進藤! 駅前の熱帯魚屋でコリドラスの水槽を見張ってろ!!」
『ハァ?』である。
なんのことか分からず、ポカンとつったつヒカルに、緒方は立て続けにまくしたてた。
駅前の釣り堀の所に熱帯魚屋があること。店員にコリドラスの水槽がどこかを訊くこと。そして
その水槽の前に陣取って一歩も動くなということ。
「碁ワールドの急な取材でな、自分では行けんのだ」
見ると、背の高い緒方の向こうに、こじんまりと背の低い、出版部でよく見かける男が、
申し訳なさそうに立っている。
「今晩、うまい寿司をおごってやるから!」
その言葉にヒカルがうなずいたのは、決して寿司が食べたかったからではない。そう叫んだ
緒方のすさまじい形相の迫力に圧されたのだ。
そういう意味では、ヒカルは買収されたのではなく、脅迫されたといってもいいだろう。
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