墨絵物語 1


(1)
男は黙々と墨を磨っていた。
数年前から始めた水墨画にまんまとハマり、
今では自宅の庭にアトリエをこしらえる始末。
家人から離れ、一人墨を磨っているこの瞬間が
男にとって唯一のやすらぎであり、至福の時でもあった。
さて、今宵は何を描こうかと絵筆に手を伸ばしかけ、
男はその動きを止めた。あることに気付いたのだ。
(そういえば、最近『作品』を仕上げていない)
最後の作品を仕上げたのはいつだったろうかとそう遠くない記憶を辿り、
近頃は山水画ばかりであちらの方は全くご無沙汰だったなと一人ごちた。
男は長い指を脇の書棚へと滑らせ、一冊のファイルを引き抜く。
パラパラとめくり、そして一人の少年の記事に手を止めた。
(塔矢アキラ──そろそろ声をかけてみようか)
男はファイルを閉じる。
丁度明日は本因坊リーグ戦。
塔矢アキラと一柳棋聖が対局する日だ。
好都合とばかりに男は端正な顔に相応しい、優雅な微笑みを浮かべた。



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