番外編1 Yの悲劇 1
(1)
その日、大手合いを終えたヒカルは棋院の玄関口でサインを求められた。
棋院の売店で売っている白扇とサインペンを持って佇んでいた青年は、
エレベーターを降りて帰ろうとするヒカルを見つけると真っ直ぐにヒカルに近
づいてきた。
「進藤プロですよね。サインをお願いできますか。」
「えっ、オレ?オレなんかでいいの?」
「ええ。期待の新人と伺っています。よろしくお願いします。」
駆け出しの新人の自分にわざわざサインを求めるのは不思議な気がしたが、そ
ういわれれば満更でもない。なにしろサインを求められるなど、プロになって
初めての経験なのだ。
「オレ、字ヘタだけど、いいかな?」
「もちろん、構いません。」
そう言われれば書かないわけにもいかない。字がヘタなのはちゃんと言ったし、
何よりむこうが望んでいることだ。
「あっ、脇によしたけ君へ――って書いてもらえますか。」
青年は微笑みながら付け加えた。
その名前の漢字は、説明されてもヒカルにはまったく思い浮かべることができ
なかった。希望を叶えるためには、嘉威はカバンをかき回して学生証を示さな
ければならなかった。
しかし、その込み入った漢字はやっかいだったので、進藤ヒカルと書いたサイ
ンとほぼ同じ大きさの為書きが並ぶ不恰好な扇面となってしまった。
(あちゃー!まっ、しょーがねェよな、こんな難しい漢字書かせるんだもん。)
内心の焦りを隠して、ヒカルは扇とペンを渡した。
(そういえばプロ入り前に倉田さんと一緒にサインしたっけ。あの時もこんな風に名前、並んでいたっけな。サインなんてするの、あれ以来か。)
こうしてプロになって初めてのヒカルのサインは、嘉威の手に渡った。
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