森下よろめきLOVE 1 - 15


(1)
その光景を目にしたのは日も暮れた時間帯、うら寂びた繁華街でのことだった。

煤けたまま手入れされていない疲れたネオンや人目を忍ぶような怪しげな看板が並ぶ
その通りを、森下は足早に歩いていた。
仕事帰りにこのいかがわしい区域を通り抜けようと思ったのは単にそれが駅までの近道
だったからで、遊び場を探したり、ましてや欲望の対象となる相手を求めたりという
目的のためではない。
吐き出しても吐き出してもそうした欲求が次々と泉のように底から溢れ出してきたのは
もう昔の話で、今では最後に生身の相手とセックスしたのがいつだったかすら
思い出せない。
胸を焦がす恋の味も疾うの昔に忘れた。
精力が尽きたわけではないが、雄としての自分は確かにもう盛りを過ぎている。
老いた、のだろう。
だが終わりの見えない妄念から解放されて碁という生涯の仕事に専念できるのは
歓迎すべきことでもあった。
碁と、家族。
その二つのためにこれから自分は残り半分の人生を生きていくのだろう。
そう思っていた。


(2)
だからその時街角に佇む少年の姿に目が留まったのも、全くの偶然だった。
「あれは・・・」
掻き入れ時だというのに人もまばらな寂れた繁華街で、その少年は手を後ろに組み
薄汚れたコンクリートの壁に背中と片足を預けて、ぼんやりと自身の足元を見ていた。
何の加工も施されていない真っ直ぐな黒髪と仕立ての良さそうな真っ白いシャツが、
この空間の中で明らかに浮いている。
それより何より、俯き加減にしていてもはっきり分かる少年の秀麗な容姿と
煤けた風景の中でそこだけが光り輝いているような品のよい佇まいが、
道行く人々の目を惹いていた。
だが森下が思わず足を止めてその場に釘付けになってしまったのは
そのためばかりではない。
――塔矢アキラ。
森下が生涯のライバルと目す男の一粒種がそこにいたのだった。

「おっと」
後ろから誰かがぶつかった。
「あ゛〜?ボサッと立ってんじゃねえよぉ〜!気ぃつけろやオッサン」
「もうっケンちゃん自分からぶつかっといて絡まないの!スミマセーン」
「あ、ああ。別に」
若いカップルが通り過ぎていく時、酒と汗と柑橘系の香水の匂いが鼻をかすめた。
髪を逆立てたサラリーマン風の若い男が数歩先で足を止める。
男はどうやらアキラの姿に目が留まったらしく、しばらくほけ〜と見蕩れていたが
連れの若い女に「ホラッ行くよ!」とネクタイをぐいぐい引っ張られ連れて行かれた。
「ケンちゃん、どこかで休もうか」
女の声が遠くで聞こえる。フラフラしていた男が女の肩に手を回した。
凭れかかるのかと思いきやぐいっと女を自分のほうへ引き寄せる。女が男の肩に
こつんと頭を載せる。
若い男女はこれから宿を探して一晩を共に過ごすのだろう。
ここはそういう街なのだ。


(3)
――そんな街で、元名人の息子がいったい何をしているというのか。
何かやむを得ない事情があるのだとしても、あんな風情で街角に立っているのでは
誤解を招きかねない。
第一こんな時間まで中学生が繁華街に出歩いていること自体、ほめられた行動ではない。
これがもし自分の子供だったら怒鳴りつけるだろう。

とにかく訳を聞いて場合によっては説教の一つもして帰そうと、森下は口を開きかけた。
「塔――」
だがその時、森下より先にアキラに近づき声を掛けた者があった。
高校生か大学生くらいの若い男の二人組だ。
一人は短髪を逆立ててクチャクチャとガムを噛み、一人は肩まである髪を金色に染めて
派手な色のTシャツを着ている。
森下が出掛かった声を呑み込んでしまったのは、アキラと世代の近そうな二人組が
もしかしたらアキラの友人か何かで、ここで待ち合わせでもしていたのではないかという
考えが一瞬起こったからだった。
アキラの友人にしては不良のような外見だが、今時の若者ならあんなものかもしれない。
――アキラは二人と二言三言何か言葉を交わしていたが、やがてコクンと頷くと、
二人に挟まれ両側から腕を取られるようにして歩き出した。
「おいっ、ちょっと待っ・・・!」
どうも雰囲気がおかしい。
仮に二人組とアキラが知り合い同士だったとしても説教相手が一人から三人に
増えるだけだ。
角を曲がって姿が見えなくなった三人を追って、森下は全力で走った。


(4)
建物と建物の間に挟まれた細い路地裏は思ったより入り組んでいて、森下はすぐに
三人の姿を見失ってしまった。
「なんてこった・・・!」
こんなことなら、躊躇などせずすぐに声を掛けるのだった。
こうしている間にもアキラの身に何か起こっているかもしれないのだ。
知っている相手だからというだけでなく、同じ年頃の子供を持つ一人の父親として
森下は胸が締め付けられる思いだった。
「塔矢ァ!」
もうなりふりは構っていられなかった。
煤けた路地裏中に響き渡るような轟声で森下は怒鳴った。
「塔矢、どこだ!いるなら返事をしろ――ッ!」
一つの方向から、気をつけていなければ聞き落としてしまうほどの小さな悲鳴が聞こえた。
――そこか!
その方向に向かって森下は走った。


(5)
三方を壁に囲まれ行き止まりになった路地裏に鬼のような形相の森下が姿を見せると、
そこにいた七、八人が一斉に振り向いた。
「塔矢!」
「ん・・・!んー!」
男たちの中心でゴミ箱の蓋の上に座らせられたアキラは口に何か布切れを詰め込まれて
数本の腕に押さえつけられ、靴下のみを残した全裸の姿を暗い路地裏に晒していたが、
森下の姿を見ると懸命に脚をばたつかせ声を上げた。
その姿を見て一瞬血の気が引いたが、自分が着くまでのこんな短い時間に
何が出来るわけでもないと思い直す。
「あぁ?何だよオッサン。何か用か?」
ガムをクチャクチャさせたさっきの若い男が、森下の前に立ち塞がるように進み出て
肩を怒らせる。怒りを抑えた低い声で森下は言った。
「・・・その子を返してもらおう」
「あぁーん?ンなこと出来るわけねーだろ。これからお楽しみの時間だってのによォ。
オッサンおとなしく帰んな。怪我するぜ」
男が、噛んでいたガムをブッと森下の顔に吹きかけた。
次の瞬間森下の拳が男の顎を撃ち、男の体は数メートル先の壁に叩きつけられて
がくりと落ちた。
「て、てめぇー!」
男の仲間たちが色めきたつ。
森下は仁王のように立ちはだかると拳を掲げてみせて言った。
「まだまだ若い者には負けやせん!躾のなっていないガキどもはオレが根性
叩き直してやる!そら、まとめて掛かって来ォい!」
わぁっと、静かな路地裏に喧騒が響いた。


(6)
ものの五分とかからなかった。
喧騒がやむ頃には、七、八人の不良青年たちはすっかり畳まれて路地裏に伸びていた。
「フーッ・・・あまり手間かけさすんじゃねェ。ガキのうちから悪さしてんじゃねェよ。
悪いのは大人だけで十分だ」
森下はパンパンと両手をはたいた。
青年たちをのすのはさほど苦労しなかったが、少し息が上がっている。
――昔はこれくらい動いてもどうってことなかったんだがな。オレも年だな。
心の中で苦笑いしながら、壁際にへたり込んでいるアキラを見た。
「怪我ぁ無ェか。その・・・何もされてねェか」
アキラは言葉も失った様子でコクンと頷いた。
「ならいい。まず服を着ねェとな。ああ、いい。オレが取ってやるから座ってな」

そこら中に散らばったアキラの衣服を拾い集める。
薄汚れた街の中で浮いていた真っ白いシャツはボタンが飛んでしまっていた。
――あーあー。明子さんが丁寧にアイロン掛けたもんだろうによ。
しゃがみ込んだまま森下が黙ってパンパンと埃を払っていると、背後に人の立つ
気配がした。
ハッとして振り向くと、そこには懲りない不良青年ではなく――
アキラが立っていた。


(7)
ドクンと心臓が大きく一つ脈打った。
路地の両側の壁が尽きる細い隙間から、青い夜空に満月が浮かんでいるのが見える。
アキラはその満月を背に立っていた。
物言いたげな黒い瞳。
靴下のみを身に着けたその身体はすんなりと伸びやかで透けるように色が白く、
まだ少年とも少女ともつかないような中性的な趣を漂わせている。
それでいて形のよい臍の下方にある薄い茂みからはこの少年が確かに「男」である印が
なかなか天晴れな存在感を主張している。
その全てに思わず見入っていた自分に気づき、森下は慌てて顔を逸らした。
「ホラよ。・・・早く着な」
そちらを見ないようにしながら取りあえず拾い集めた分だけを差し出したが、
アキラは何故か受け取ろうとしない。
「ん?どうした」
振り向いた森下と目が合うと、アキラは大きな黒い瞳でじっと森下の顔を見つめ、
言葉を探すふうに何度か唇を小さく開いては閉じていたが、やがてキチンと背筋を
伸ばすと深々と頭を下げて言った。
「ありがとうございました。・・・森下先生」
「オレぁ構わねェがよ、・・・行洋や明子さんが知ったら肝を潰すだろう。
だが、まぁ説教は後だな。とにかく服を着ちまいな。これと・・・ああ、あれもそうか?」
アキラの手に無理やり衣服を押し付けてから腰を上げ、数メートル先に放置されていた
ズボンらしき物体を拾いに行く。
妙に、体の奥がざわざわする。
さっさとアキラに服を着せてしまわねばと森下は思った。


(8)
ズボンと靴は見つかったが、下穿きが見当たらない。もしかしたらアキラのいるほうに
落ちているのかもしれない。
「おい、塔矢――」
振り向いた森下は思わず声を止めた。

満月を背に、アキラは白いランニングに頭と両腕を通している最中だった。
両肘を頭の上に突き出して、顔は白い布地に隠されて、逸らされた滑らかな胸部に
花びらのような薄い色の乳首がバランスよく配置されている。
胸から下はまだ靴下一枚で僅かに脚を開いている、そのあまりに無防備な姿に
ドクンとまた一つ森下の心臓が大きく鳴った。
「え・・・あ、スミマセン。何でしょうか?」
アキラがランニングからすぽんと頭を抜いて手を離すと、白い布地がすとんと落ちて
華奢な腰骨の辺りまでを覆った。
「あ、あぁ。下穿きがこっちにはねェみてえなんだが、そっちに落ちてねェか?」
「え、そうですか。えーっと・・・?」
アキラはくるりと背を向け、右手の指で髪を耳に掛ける仕草をしながら
左手を太腿に沿わせてゆっくりと膝まで下ろしていった。
――おいおいおいおいおいおいおいおいっ!!
左手が下に下りていくのと同時に腰が屈まるので、必然的に尻がこちらに向かって
突き出されることになる。
男同士なのだから別にいいと言えばいいのだが、アキラの中性的な体つきと
白過ぎる小さな尻が森下を訳もなくどぎまぎさせた。
「・・・あっ」
尻を突き出したまま首を回して辺りを探していたアキラが声を上げた。


(9)
「あーあー、これは・・・」
「・・・・・・」
森下にのされて失神している不良の一人のポケットから、明らかにそれと分かる
白い物体が覗いていた。
スルリと引っ張り出して両手で広げてみたその物体は自身のそれに比べると
驚くほど小さくて、さっき見たアキラの華奢な腰骨と小さな尻を思い出した。
「ま、見つかって良かった。ホラよ」
渡そうとすると何故かアキラはまた手を引っ込めて受け取ろうとしない。
「すみません。ボク、それ何となく・・・穿きたくないです・・・」
確かにアキラを襲ったこの男がこの物体を持ち帰ってどうするつもりだったのかと
考えると、第三者の森下でさえ気持ちが悪くなってくる。
穿きたくないというアキラの心情も分かる気がした。
「ま、穿かなくてもいいからよ。一応持って帰んな。ホラ」
「いえ、結構です」
首を振るとアキラはさっさと元いた場所まで戻り、残りの衣服を身に着け始めた。
「そう言ったってなぁ・・・」
森下は頭を掻いた。まさかここに放置していくわけにもいかないだろう。
少し迷った後、森下はアキラの白いブリーフを小さく畳んで自分のポケットに入れた。


(10)
「さてと。とにかく、これに懲りたらもう日が落ちてからこんな所を中学生が一人で
ほっつき歩くんじゃねえぞ。これからタクシー拾ってやるから、真っ直ぐ帰れよ」
健康のためになるべく歩くよう心がけているせいもあって、自分では普段タクシーなど
滅多に使うことはなかった。が、ボタンの飛んだシャツや汚れたズボンを身に着けた
アキラをこのまま人目に晒される電車に乗せて帰らせるのは気が引けた。
家に帰ればアキラの有様を見て行洋や細君は驚くだろうが、結果的には何事も
なかったのだし、事情を聞いた行洋にアキラがきつく説教されて終わりだろう。
森下自身がアキラに説教することも考えたが、さっきアキラの裸体を見てしまってから
どうも調子がおかしい。頭の中がふわふわして、妙な気持ちだ。
他人の子供を説教するなど考えてみれば面倒臭いし、何か入り組んだ事情でもあるなら
なおのこと、アキラはこのまま帰して父親である行洋の口から注意させたほうが
よいのだと森下は自分に言い訳した。

だが、帰れと言われた途端アキラは俯いてしまった。
「どうした」
「・・・あの・・・帰らなきゃいけませんか・・・?」
真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下から、僅かに眉根を寄せたアキラが黒い瞳で
上目遣いに森下を見上げる。
今まで見たことのない、塔矢アキラの哀願するような頼りない表情に
多少焦りを覚えながら森下は言った。
「そろそろ明子さんが美味い夕メシ作って待ってんだろう?帰ったらいいじゃねェか。
まさかこんなことのあった後で、まだ外をフラフラしようってんじゃねェだろうな」
「・・・・・・」
アキラがゆっくりゆっくりと項垂れて、その表情が見えなくなった。


(11)
「おい」
「ごめんなさい・・・」
艶やかな黒髪の向こうから、ポツッと一粒光るものが落ちた。
森下はうろたえた。これは、自分が泣かせたということになるのだろうか。
「おい、・・・別に怒ったわけじゃねェぞ。ただ、おまえの親父やお母さんを安心させる
ためにも、早く帰ったほうが――」
「森下先生にせっかく助けていただいたのに、こんなことを言うべきじゃないって
わかってます。・・・でも・・・ボクはまだ、ここに来た目的を果たしていない。
・・・帰れません」
森下は仰天した。
「おいおい、そりゃあどういうこった?おまえみたいなお坊ちゃんが、こんな所に
何の用があるってんだ。知らずに言ってるんだろうが、この辺りは――」

言いかけて森下は口を噤んだ。
もしかしたら――そうではなく。
知っているのか?
この辺りがどういう場所なのか、何を求めて人々が集まる場所なのか承知の上で
アキラはここを訪れ、あの薄汚れた街角に立っていたのだろうか。
さっきの不良青年にしても、まさか相手があんな人数で無理やり事に及ぶとは
思っていなかったから自分に助けを求めたまでで、もし相手が最初に声を掛けた
二人だけで和やかにアキラをホテルにでも連れ込んでいたなら――
突然、アキラが先ほど見た靴下だけの格好で金を握らされ、二人の青年に犯されて
淫らに喘いでいる光景が生々しく目の裏に浮かび、森下は思わず首を横に打ち振った。
――馬鹿な。何を考えているんだ!?オレは。


(12)
「ともかくだ。何か事情があるんだろうが、通りがかった大人の義務として
オレはおまえをこのままここに放ったらかしとくわけにはいかん。おまえが嫌だと
言うなら、引きずってでも家まで送っていくだけだ!」
「あ・・・!嫌っ!」
森下がアキラを捕まえようと大きな手を伸ばすと、アキラはそれを振り払い
首を縮めてその場にしゃがみ込んでしまった。
「おい!?」
森下が見ると、アキラは身を守るように縮こまってカタカタと小さく震えている。
殴ろうとしたわけでもないのに何故こんな反応を示されねばならないのかと一瞬心外に
思ったが、そう言えばアキラは今さっき男に襲われたばかりだったと思い出した。
まだ、恐怖心が癒えていないのかもしれない。
そうだとしたら可哀相なことをしたと思った。

「・・・すまなかった。怯えさせるような真似しちまってよ。だがよ、このまま一人で
ここに残ったら、もっと怖い目に遭うかもしれないんだぜ?さっきだって、オレが
居合わせなかったら自分がどういう目に遭ってたか、分からないほどガキじゃねェだろう」
「それは・・・分かってます。でも・・・」
「帰る気はねェ。力づくで連れ帰るのも無理。・・・か。行洋ん家に連絡して迎えに来て
もらうってのは――」
アキラが顔を上げ、涙に濡れた黒い瞳を見開いて泣きそうな顔で首を振る。
森下は溜め息をついた。
「オレに、どうしろって言うんだ」
「ごめんなさい・・・」
「まあ、いいさ。・・・そこまで強情張るからには、何か事情があんだろう」
森下は満月を見上げた。
家路を急ぐ最中にとんだ厄介事に出くわしてしまったものだが、ここでアキラに
会ったのも何かの縁だったのかもしれない。


(13)
「とりあえず――メシでも食いに行くか」
森下がポツリと呟いた。
「え?」
「メシだよ。・・・おまえだってそろそろ腹減ってくる時間だろう?腹が減ると、
人間ロクなことは考えなくなるもんだ。逆にたらふく食って腹が一杯だと、
脳味噌から胃袋に血が集まって細かいことはどーでもよくなっちまう。
だから煮詰まった時は美味いもん食って気分を入れ替えるのが一番だ。
オレが奢ってやるから。行くぞ」
「でも・・・森下先生、ご自宅に帰られる途中だったんじゃ」
「ああ。だがまぁ、家は消えてなくなるわけじゃねェからな。とりあえずこっちの
用事のほうが大事だろ。・・・何か悩み事があってそれを親には話せないってェんなら、
オレに話してみたっていいじゃねェか。オレだって一応おまえが生まれた時から
知ってるんだし、オレで出来ることなら力になってやるからよ」

乗りかかった船だ。
どうせここまで関わってしまったのなら何とかアキラが家に戻る気になるまで、
そしてもう二度とアキラがあんな危ういことはしないと確認出来るまで、
とことん付き合ってやろうと森下は思った。
「森下先生に・・・相談を?」
「ああ。何だったら、朝までだって付き合ってやるからよ。ホラ、立ちな。
駅前に美味い丼物屋がある、そこに連れてってやるから」
「朝まで?」
アキラの目がキラリと光った気がした。


(14)
「あ?――あぁ」
それを聞くなりアキラはすっくと立ち上がってニッコリと微笑んだ。
「丼物屋さん、美味しそうですね!お話を聞いてたら、ボク何だかお腹が空いて
きちゃいました。森下先生が連れて行ってくださるんですか?」
――なんだなんだ、今コロッと態度変わらなかったか?コイツ。
少し面食らったが、アキラが街角に立つのを止めて移動する気になったのは
ひとまず喜ばしい。
さっきは裸を見てつい妙な気分になってしまったりもしたが、相手はまだまだ
食べ物に釣られるような子供なのだという意識が森下の心に余裕を生んだ。
「その店は味噌汁も美味いんだ。酒も飲める所だから、この時間だと仕事帰りの
サラリーマンで混んでるだろうが――まあ少し待つくらいはいいだろう」
「はい!楽しみです。あ、でもボク、こんな格好でお店に行ったら変でしょうか・・・」
アキラがしゅんと自分の体を見た。
土埃で汚れたズボンはともかく、ボタンの引きちぎれたシャツで店に入っていったら
さすがに変に思われるだろう。
森下は黙って自分の背広を脱ぎ、アキラの肩に掛けた。
「・・・これじゃ駄目か?」
アキラは一瞬驚いた顔をして、それから森下の顔を見つめ、それは嬉しそうに微笑んだ。


(15)
「・・・先生、寒くありませんか?ボクが上着を取ってしまって」
「なぁに言ってんだ。行洋と違って、そんなヤワには出来てねェよ」
「あはは。お父さんも丈夫なほうですけど、喧嘩は森下先生のほうが強そうですね。
さっきボクを助けてくださった時、先生とってもカッコ良かった・・・」
「おう、それ行洋に言ってやってくれよ」
軽口に紛らわしていたが、妙な気分だった。
森下の大きな上着を着たアキラは先ほどからずっと森下の腕に掴まり、
身を押し付けるようにして歩いている。
最初にアキラが腕に掴まってきた時少し驚いたが、目が合ったアキラがあまりに自然に
ニコッと笑いかけてきたので拒みそびれてしまった。
変に機嫌を損ねて、またここへ残るなどと言い出されるよりはよいかと思った。
だが歩くにつれアキラはどんどん体を摺り寄せてくる。
傍から見たら自分たちはどんな関係に見えるのだろう。
ふと、先刻見た若い男女のカップルが寄り添いながら歩いていった姿が頭をよぎった。
彼らが通り過ぎる時若々しい柑橘系の香水の匂いが鼻をかすめたが、今自分の腕に
縋りついているアキラからはもっと無垢で柔らかな、石鹸の甘い香りがする。
そのアキラを、自分の匂いの染み付いた中年臭い背広が包んでいる。
あのカップルは今頃どこかのホテルだろうか――

何だかまた調子が狂ってきそうで、森下は努めて前方の進路だけを見て歩いた。
時折アキラがこちらを見上げてくる視線を感じたが、気づかないふりをした。
しばらく無言で歩いていたアキラが、何を思ったか森下の逞しい肩にこつんと頭を
載せかけてきた。
そう言えばアキラの下穿きは今自分のポケットにあるから、歩くアキラの腰部は
直接ズボンの布地に擦れているのだなと、
そんな考えが取りとめもなく浮かんでくるのを浮かんだ端から打ち消しながら、
森下はアキラがビクッとするほど大きな声で
「あれだあれだ!あの店だぞぉ塔矢!」
と、先に見えてきた灯りの下の暖簾を指差した。



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