邂逅 1 - 15


(1)
 「それでね…緒方さん、進藤が……」

 興奮の冷めやらぬ口調で、アキラは熱っぽく語る。互いを熱く貪りあったばかりのアキラの目には、
まだ欲情の色が濃い。目を潤ませ、頬を上気させたままの彼の口から紡がれる言葉は、
ヒカルのことばかりだ。
 最近は、何時もそうだ。アキラの口からヒカルのことが語られない日はない。セックスをした後は、
特に饒舌になるようだった。

 緒方は軽くガウンを羽織ると、ベッドを降り、キッチンへと向かった。片手に缶ビール、
もう片方の手にはミネラルウォーターのビンを持って寝室に戻ると、アキラが少し拗ねた様子で
待っていた。話の途中で、出て行ったのが気に入らなかったらしい。
 無言で、ビンを差し出すと、自分の喉が渇いていることに、今まで気が付いていなかったかのように、
アキラはそれを一気に呷った。「ふー」と、小さく息を吐きながら、手の甲で口を拭う。その
仕草が妙に艶めいて見えた。そのまま視線を落とすと、白い胸や腹に無数の紅い痣が浮かんで
いるのが目に入った。緒方は思わず視線を逸らした。そのまま見ていたら、せっかく鎮まった
欲望がまた、頭を擡げそうな気がした。


(2)
 アキラと関係を持って、もうそろそろ二年になろうとしていた。あのころの彼は、酷く自棄になった。
全てに対して、無関心で、それまで彼の全身を包んでいた覇気がまるっきり消えてしまっていた。
と、同時に毎日うるさいほど語っていたヒカルのことをまるで口にしなくなっていた。

 気晴らしにと、緒方は彼を自分のマンションへ招いた。珍しい棋譜が手に入ったので、
それを見せるつもりだった。

 和やかに時間が過ぎていった。
「飲むかい?」
緒方はアキラにビールの缶を振って見せた。それに対して、アキラも優しい笑顔で返した。
「いただきます。」
彼がビールを飲むのは初めてではなかった。緒方が教えたのだ。アルコールだけではない。
良いことも悪いこともみんな教えた。時には、真面目な芦原が、眉を顰めることもあったが、
こういったことを教えるのは年長者の役目とばかりに、積極的にアキラに勧めた。そして、
アキラも飲み込みの早い優秀な生徒だった。

 とりとめのない話を続けていたが、何気なくヒカルのことを口にした途端、アキラの形相が
一変した。
 切れ長の瞳は怒りに満ち、激しい輝きを放っていた。唇を一文字に引き結び、怒声を必死で
堪えるかのように振るわせた。


(3)
 その姿を美しいと思った。もともと容姿が優れていることもあったが、怒りが彼の美しさを
より一層引き立てているような気がした。怒りが彼の原動力であるかのように、酷く輝いて見えた。
 緒方は、吸い寄せられるように彼の側へと近寄った。繊細な顎を軽く持ち上げ、そこに自分の
唇を重ねた。たかだか、コップ一杯の…五パーセントばかりのアルコールに酔っていたのかもしれない。 
 アキラは抵抗しなかった。緒方の手が身体をまさぐり、シャツのボタンを外し始めても
身動ぎもせず、 黙って身を委ねてきた。
 アキラが自分に対して恋だの愛だのと言う感情を持っていたとは思わない。彼はただ、
性に対する純粋な好奇心と、心の中の靄を吐き出す場所を求めていただけだ。
 ヒカルへの絶望と怒り…そして、切り捨てようとしても何故か出来ない自分への苛立ちと
戸惑いが彼の胸の奥で荒れ狂っているのがわかった。


(4)
 初めてだというのに、アキラは貪欲に緒方を求めた。その烈しさに緒方の方が不安になった。
「ん…ァ…緒方…さん…もっと…」
荒い息の下から、苦しげに求めてくる。緒方はそれに応えるように、腰の動きを早めた。
 快感よりも苦痛の方が勝っているのは、表情を見ればわかる。それでも、緒方はやめようとはしなかった。
アキラの潤んだ瞳が、掠れた甘い声が、それを許さなかった。
「アァ…」
くぐもった呻きを上げ、アキラが果てた。瞼を閉じて、荒く胸を上下させている。
「大丈夫か?」
額に張り付いた前髪を払ってやると、アキラは億劫そうに目を開けた。 その目は緒方を
すり抜けて、どこか遠くを見ているようだった。

 それからしばらくの間、アキラは緒方に近寄ろうとしなかった。緒方もアキラに無理強いは
しない。二人とも表面上は以前のように、仲のよい兄弟弟子として振る舞っていた。
 あれが一夜限りの夢だというなら、それはそれでよかった。実際、夢の中のように、現実感が
伴わない不思議な時間だった。


(5)
 緒方はアキラを手に入れたいと思っていたわけではない。あれは―そう…成り行きだ。
雰囲気に飲まれただけなのだ。そう思って、忘れることにした。彼も同じだろう。緒方もアキラも
互いに近づきすぎないように気を張っていた。
 しかし、これと、不抜けたアキラを放っておくこととは別問題だ。自分は切り札を持っている。
それが彼の起爆剤になればと思った。研究会の日、緒方はアキラを誘った。

「今度の日曜あいているかな?」

その一言が二人の危うい均衡を崩すことになってしまうとは思ってもいなかった。


 緒方はアキラを棋院に連れて行った。
「なんだ…棋院じゃないですか…ここで何をするんです?」
シートベルトを外しながら、アキラが問いかけてきた。
 緒方は含み笑いで返した。アキラは不快そうに眉を寄せたが、それを口にはしなかった。
「車を止めてくるから、先に行っててくれ。」
言われるまま黙って自動車を降り、六階の大広間へと向かう。その後ろ姿を緒方は楽しそうに
見送った。


 その夜―アキラは緒方のマンションへやってきた。


(6)
 そんな風に始まった二人の関係だが、アキラが訪ねて来ることは滅多になかった。月に一度
来ればいい方だ。彼は訪ねてくる前に必ず電話を入れてくる。渡した合い鍵は、その意義を
持たせてもらえなかった。
 それが、二週に一度になり、いつの間にか週に一度になっていた。そのころには、アキラの口から
ヒカルの名前が再び熱く語られるようになっていた。

 そして………気付かなくても良いことに気付いてしまった。彼がここを訪ねるときは、
何時もヒカルに会った後だということに………

嫌な予感がした―――

 だけど、緒方はその予感を勘違いだと頭から振り払った。 
 アキラは、ただ、ライバルを手に入れたことに舞い上がっているのだと……そうでなければ、
初めて出来た同い年の友人に浮かれているのだと……… 無理矢理そう思いこもうとした。

 そして、何故、そんな風に考えるのかと訝しむ自分の心にも蓋をした。


(7)
 「聞いてるんですか?」
むくれたような声に、ハッと顔を上げた。いつの間にか自分の中に篭もっていたらしい。
「ああ、聞いてるよ。それで、進藤と北村さんがどうしたって?」
アキラはニコリと笑って、先を続ける。
「また、ケンカ始めてしまって…間に挟まれた広瀬さんがオロオロしちゃって…」
「へえ…」
適当に相づちを打つ。興味がないことをアピールしたつもりだったが、アキラには通じなかった。
「どちらかが折れればいいのに…本当に、子供なんだから…」
そう言って、クスクス笑うアキラの顔も子供のそれだった。
 以前のアキラとは明らかに違う。以前はヒカルのことを話すにしても、そこにはどこか
畏敬の念が含まれていた。ずっと遠くの――どこか別の次元の――簡単には辿り着けない
遙かに高い場所にいるような者のように語っていた。恐れと尊敬と憧れとが、熱っぽいその言葉の
一つ一つに込められていた。
 それが今は――同じ唇から語られる同じ人間のこととは思えないほど――親しげで遠慮がない。
 彼はすっかりあの少年に夢中になっている。大きな瞳に無邪気な笑顔。そして、天賦の才能。
 彼の瞳が煌めいているのも、頬がバラ色に染まっているのも全部あの少年のためなのだ。
それなのに、そんな風に強く輝く彼を見ているのが、ヒカルではなく自分だとは皮肉なことだ。


(8)
 今にも踊り出しそうな軽い足取りで、ヒカルが歩いていた。口元には笑みが浮かび、歩道脇の
植樹やショーウィンドウのディスプレイ、目に入る全てのものに愛嬌を振りまいていた。
よほどうれしいことがあったのだろう。見ているこちらまで、つられて浮かれてしまうような
そんな笑顔だった。

 確かアキラと同い年だったはずだが………

 ここ数ヶ月の間にヒカルはずいぶん大人っぽくなった。棋院に現れなかった間に何が
あったのか…誰も知らない。アキラも聞いてはいないようだった。
 ただ、その後再び現れた彼の変化は誰の目にも明らかで、彼が無邪気で明るいだけの人間ではないのだと初めて知った気がする。
 ヒカルにはsaiに絡んでいろいろと秘密があるらしいことは、もちろん知っていた。
そのことに、アキラも自分も名人でさえすっかり振り回されてしまっていた。奇妙な少年だ。
 しかし、そんなミステリアスな部分をすっぽり覆い隠してしまうくらい彼の無邪気な明るさは
人の目を引いた。元気で明るく傍若無人。不敵といっても良いくらいだった。
 その彼が、ほんの短い期間に見違えるほど大人になっていた。静かで落ち着いた雰囲気を纏わせ
碁を打つ姿は、今までとは違う意味で人目を奪った。他人を容易に踏み込ませない頑なさが
どうにも心を落ち着かせない。寂しげな横顔が妙に気になった。


(9)
 だが、それも対局しているときのみで、普段の彼はそれまで以上に子供っぽかった。棋院でも
年上の友人達に甘えている姿をよく見かけた。
――――寂しがっている?
ただの勘だったが、あながち間違ってはいなかったらしい。寝物語に聞いたアキラの話からも
そのことは伺えた。


 シャワーを浴びて戻ってくると、アキラはもう眠っていた。いつものことだが、彼は自分と
眠るときいつも背中を向けている。華奢な身体を抱きしめて眠りたいと思ったこともあるが、
彼は決してそれを許さなかった。染み一つない白い背中を…美しい黒髪がかかる細い首筋を
緒方に惜しげもなく晒しながらも、その向こう側にある表情を見せてはくれない。
 だから緒方はアキラの寝顔を知らない。一番無防備で彼の真実を映し出すその表情を
一度も見たことがなかった。


 「“いつか”って、いつなんだろう…」
アキラが裸の背中を向けたまま、ポツリと呟いた。眠っているとばかり思っていた。人形のように
身動ぎひとつせず、その上、顔も見えないのだからそう思っても仕方ないだろう。
 それでも、アキラはこちらを振り向かない。
「いつか話すって進藤が…でも……」
話すとは彼の秘密のことだろうか?それをアキラに話すとヒカルは言ったのか?それを
信じてアキラはずっと待っているのだろうか…
「一緒にいるとすごく楽しそうだし、屈託なく甘えてくるのに…いつも寂しそうで…」
小さな溜息が耳に届いた。
「“いつか”って、いつ来るんだろう…」
 胸の奥がチリチリと痛んだ。

 「や…なに!?緒方さん…!」
薄い肩に手をかけ、強引にこちらを向かせた。彼の顔はいつも通り………冷めた瞳が緒方を
見返した。緒方は、そのまま彼を自分の下に組み敷いた。
 この二年の間にお互いの愛撫にすっかり馴染んでいた。薄い胸や滑らかな腿に手を這わせる。
「ん………だめ…緒方さん…」
アキラの拒絶の声は、すぐに甘い吐息に変わった。
 ほんの一時間ほど前まで、自分を受け入れていた場所に手を這わせ、中を掻き回す。
そこはまだ柔らかく、時間をかけなくとも簡単に入ることが出来そうだった。緒方はそこに
自分自身をあてがうと、一気に突き入れた。
「あ、あぁ…!い…痛い…」
「ウソつけ…」
 緒方は手酷く彼をいたぶり続けた。嬌声が暗い薄暗い室内に響き渡った。


(10)

 ヒカルは本当に楽しそうに前を歩く。その後ろを緒方が歩いているのにも気が付かない。
緒方はヒカルの華奢な後ろ姿をじっくりと観察した。
 初めてあったときより、身長もずっと伸びた。頭が小さく手足が長い。丸みを帯びていた頬も
小さな手も大人のそれに変わりつつある。それでも彼の仕草も表情も子供のように、無邪気で
愛らしかった。
 緒方は暫く楽しげなヒカルの姿を眺めていた。彼は本当に幸せそうだった。その幸せな気持ちを
ほんの少し自分も味わいたかった…そう思って声をかけた。

 ヒカルがビクンと振り返る。そんなに驚かせるつもりはなかったが、彼は大きな目をまん丸にして、
緒方を見つめている。
 こうやって見ているとヒカルは本当に可愛らしい顔立ちをしている。アキラとは違うタイプの
少女めいた美しさを持っていた。
『男を見て、女の子を連想するのもヘンな話だ………』と、苦笑した。

 「先生 どうしてこんな所にいるの?」
頬を赤らめて、ヒカルが訊ねてきた。浮かれている自分を見られたのが恥ずかしかったのだろう。
「仕事で棋院に来ていたんだが、出たところでお前を見かけてな…」
「じゃあ 先生ずっとみてたんだ。」
人が悪いとふくれるヒカルを慌てて宥めた。こういう会話はキライではない。特に好ましいと
思っている相手となら、駆け引きも楽しい。
「悪かったな。お詫びにメシでもおごろうか?」
緒方が切り出すと、ヒカルは酷く狼狽えた。何かを警戒しているようにも見える。
『ははぁ…“sai”のことだな…』
緒方はヒカルの答えを急かさず待った。


(11)
 ヒカルは少し考えていたが、結局緒方に付いてきた。「食事を奢る」の一言が効いたのかもしれない。
 彼が緊張しなくてもすむように、気安いイタリア料理の店に入った。ヒカルはパスタを
うまく扱えないらしく苦労して口に運んでいた。
「もう!ラーメンだったらよかったのに…!」
ブツブツと言いながら、スパゲッティをフォークに絡めていく。
 その幼い仕草に自然と笑みが零れた。天衣無縫なヒカルの性格を無礼だと怒る者もいるが、
緒方はその無邪気さを気に入っていた。礼儀も言葉遣いもまるでなってはいないが、
それは許容できる範囲のものだ。むしろそこが気に入っていると言っても良い。自分も
お世辞にも品行方正とは言えない身だ。
「あーもう…!」
イライラとフォークを操るヒカルの口元に、ソースが付いている。
 舐めとりたい。人目がなければ、やっていたかもしれない。もし、本当にそれをしたら、
ヒカルはどうするだろう。真っ赤になって黙り込むか…それとも、泣いて怒るだろうか。
 緒方は、からかいたい誘惑を必死に堪えた。口の中で笑いを噛み殺すのが難しい。ヒカルは、
そんな緒方をキョトンと見ていたが、「あっ」と、小さく声を上げた。
「ん?どうした?」
緒方の問いには答えず、ヒカルはひたすらスパゲティを口に運ぶ。
「ごちそうさま…」
紙ナプキンで口を軽く拭い、水を飲んでホッと一息溜息を吐いた。
 ヒカルはモジモジと身体を揺らし、何度も口をパクパクさせる。何か言いたいことでもあるのだろうか。
緒方はヒカルが話すのを待った。やがて躊躇いがちに怖ず怖ずと、彼が口を開いた。

 「あのさぁ 緒方先生さぁ。恋人いる?」


(12)
 「オレ、この前告白されたんだ…でも…考えたこともなかったから…どうしたらいいのか…」
自分の中の感情が全て凍り付いたように、笑顔が消えた。
「オレ、そいつのことすごく好きなんだ…好きなんだけど…付き合うとか思っても見なかったから…」
 頬を紅く染め、俯いたまま語る彼の瞳に、嫌悪の色はない。「わからない」と言いながら、
彼は既に答えを出しているように思えた。
 黙ったままの緒方の顔をヒカルが覗き込んできた。
「せんせぇ?」
大きな瞳を不思議そうに何度も瞬かせ、彼が呼びかける。甘ったるい舌足らずな声。

―――――――とられる………!!

 咄嗟にそう思った。何故、そんなことを思ったのだろう。いったい、誰に何を盗られるというのだ。

―――――――アキラを進藤に盗られる…

 緒方はその考えを打ち消そうとした。何故、自分はこんなにも狼狽え、衝撃を受けているのだろうか。
そんな必要ないではないか。自分とアキラの間に、恋愛感情は存在しない。身体と感情を持て余したとき、
ほんの少し時間を共有するだけだ。お互い身体の熱を吐き出すための道具でしかない。
 そうだ。道具だ。お気に入りの玩具を横からとられそうだから、戸惑ってしまっただけだ。
そう思いこもうとした。

 「先生…」
怯えたような声に我に返った。自分は今どんな顔をしていたのだろう…般若のように嫉妬に
狂った顔していたのか…それとも、二十余のように哀れな姿を見せていたのだろうか…


(13)
 俯いて震えるヒカルを、改めてよく見た。柔らかそうな髪や、優しい曲線を描く頬。彼の
幼さをなおさら強調してみせる大きな瞳に、吸い込まれそうだ。
 大人に囲まれた生活を送ってきたアキラには、ヒカルの子供らしい素直さやワガママが
どれ程新鮮に映っただろうか。皮肉屋の自分でさえ、ヒカルの愛らしさに取り込まれてしまいそうだった。
 これではアキラはひとたまりもないだろう。ヒカルとアキラの立場が逆だったとしても、
アキラは簡単に陥落したに違いない。

 「先生…」
その声に我に返った。テーブルの向こう側に座っている彼の瞳は不安に揺れていた。
「オレ…オレ…」
居心地悪そうに身体をもぞつかせ、視線をあちこちに彷徨わせている。
「進藤。」
ヒカルの身体がビクンと跳ねた。それが、ウサギの子供を連想させて、酷く可愛らしかった。
と、同時に自分が情けなくなる。こんな子供に本気で嫉妬しているのか。自分とアキラは
そんな関係ではないではないか。ただ、ときどき無性に寂しくなる。その隙間を埋めるためだけに、
付き合っている。それだけだ。裏切るとか裏切られるとかそう言った関係ではないのだ。
改めてそう自分に言い聞かせた。胸の痛みがまた少し大きくなった。


(14)
 「悩む必要はないだろう。」
ヒカルはポカンと緒方を見た。緒方は出来るだけ優しい笑顔をヒカルに向けた。青ざめていた
彼の顔がパッと明るくなり、満面の笑みを浮かべた。そのお日様のような笑顔に目を奪われた。
「え?どうして?オレわかんねえ…」
甘ったるい声で…とろけそうな笑顔で…緒方を見つめる。
 そんなヒカルから目を離せないでいるうちに、彼に対する激しい嫉妬は霜が溶けるように
忽ち消えてなくなった。
 だが、代わりにその全てがアキラへと向けられた。嫉妬も怒りも憎悪も全部。

 「さ、そろそろ出るか?」
伝票を持って立ち上がった。歩き始めた緒方の背中に向かって、ヒカルはオロオロと
情けない声を投げた。
「え?待ってよ。オレ、まだ教えてもらってねえよ…」
 その時の気持ちをどう表現すればいいのだろう。どす黒い靄が胸の中に広がっていく。
「じゃあ、オレの家に来るか?」
今の自分の姿を絶対に鏡に映したくないと思った。 見なくてもわかる。さもしい…卑屈な目を
した男がきっと映るだろう。
「ホント?行ってもいいの?」
うれしそうに自分に向かって駆けてくるヒカルから目を逸らした。

―――――今夜あたりアキラはやってくるだろう…
無邪気になつくヒカルに後ろめたさを感じながらも、その暗い考えを捨てることが出来なかった。


(15)
 道路側に出て、タクシーを拾おうとしていると、
「先生、今日車じゃないの?」
と、ヒカルがいささか落胆したように訊ねてきた。
 「どうしてだ?」
タクシーのドアが開かれ、緒方は身体を少し横によけて、ヒカルを促した。彼が素直にそれに
従い車に乗り込むのを見届けると、自分もあとに続いた。

 「だってさ…緒方先生の車カッコいいじゃん。オレ、一度乗ってみたかったんだけど…」
なるほど、確かに男の子の好きそうな形ではある。緒方自身も、実用性とか利便性を考えると
もっと他にいいものがあったにもかかわらず、そのミニカーのようなフォルムが気に入って
つい買ってしまった。
「今度乗せてやるよ。」
「え?いいの!やったあ。」
狭い車内の中でヒカルが飛び上がらんばかりに、バンザイと手を挙げた。
「おい…!危ないだろう。」
「ア、ゴメンなさい…」
ヒカルはシュンと項垂れたが、上目遣いに緒方を見つめると、ペロッと舌を出した。
自分の年齢を考え、子供っぽい衝動買いだったなと多少後悔したが、隣に座るこの少年が
そんなに喜んでくれるのなら、それだけでも買った甲斐があるというものだ。

 さほど親しくない自分に対して、ヒカルはまるで疑いを持っていない。その全幅の信頼が
いったいどこから来ているのか緒方にはわからなかった。ただ、その屈託のない瞳を見ていると、
胸の奥に鈍い痛みを感じて、緒方はさり気ない振りで窓の外に視線を逸らした。



TOPページ先頭 表示数を保持:

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル