傘 1 - 2
(1)
―――――水色の傘を選んだのは、大切な思い出があるからだ。
雨の匂いに気づいたのは、検討を始めた頃だった。
対局室の中は、いやな湿気と埃混じりの生臭い匂いが幽かに充満していた。
雨そのものには、水分特有の甘い匂いがあるけれど、室内にこもっているときは余り気持ちのいいものではない。
今朝、家を出るとき、快晴とまでは言わないけれど、雨の気配は感じられなかった。
いつ降りだしたのだろう。
そんなことを考えながら、碁笥に石を戻す。
「ありがとうございました」と挨拶を交わし、僕は出版部に顔を出すため、対局室を後にした。
外部から依頼されたインタビュー原稿のゲラチェックがあったのだ。
「失礼します」と、声を掛けると、去年の秋の人事異動で、出版部全体を統括する立場になった天野さんが「待ってたよ」と笑顔で迎えてくれた。
「今日は?」大き目の封筒と赤いボールペンを手に、天野さんが尋ねてくる。
「おかげさまで勝ちました」
「いや……」くっくっと天野さんが喉の奥で笑った。
「僕はなにもしてないんだけどね。でも、随分時間がかかったんじゃない? 相手は?」
「白川先生です」
「そりゃ、時間がかかって当たり前か……、えっと、こっちの会議室でいいかな」
僕は会議室へと案内してくれる天野さんの背中に、聞こえないようにため息を零した。
穏やかな雰囲気のせいで誤解されがちだが、白川先生は強い。
基本に忠実で堅く攻めてくるパランスの良いタイプだ。意外性には乏しいが、攻守ともに優れているから、気を抜くといつのまにか負けている。そんな相手だ。
その上、最近の白川先生は、変容の時期にあるようで、序盤に良い形ができると、面白い手を見せる。
棋譜を整理しているとき、それに気づき僕はかなり興味を持った。
そして、気がついたのだ。白川先生が、進藤の兄弟子であることに。
前に、少し聞いたことがある。進藤が白川先生の囲碁教室にやってきたときの話を。
本当にずぶの素人で、五つのルールさえ知らない進藤に、石取りゲームを教えたそうだ。
それがいつ頃のことだったか尋ねたら、どうやら僕と初めて対局した前後らしい。
今更のように、そんな彼に負けたのかと、僕は落ち込んでしまった。
(2)
まあ、それは横においておくとして、自分が教えた後輩からも貪欲に学ぼうとする白川先生の向上心とそれを受け入れ自分を変えていく柔軟性に、僕は心から感嘆する。
白川先生は、僕や進藤のように勝つことそのものに強い執着はないかもしれない。だが、碁を愛することにかけては人後に落ちないし、道を極めようとする点においては、凄まじい執着があるのだろう。
その執着の先に待っているのは勝利だ。
辿る道は違っていても、到達する地平は一つ。
落伍する者もいれば、停滞する者もいる。望んでも届かない者もいれば、端からあきらめている者もいる。
一言で棋士といっても、人それぞれ。
変容の途上にある白川先生は、やはり恐ろしい相手だと僕は思う。
それを、わかるのは同じ碁打ちでも極一握りで、天野さんもそこそこ打つとは聞いているが、やはり見ているものが違うからだろう。無意識に、白川先生を侮るようなことを言う。
僕は、それがなぜだか悔しく思えるんだ。
今日、僕はやっとの思いで勝ちを拾った。
中央の黒が良い形で繋がったと息をついた、そのすぐあとで白川先生は温厚な仮面を脱ぎ捨て、牙を剥いてきた。
思いがけない方向から下辺を荒らされ、それに対応している間に、せっかく繋げた中央を崩された。
僕は何度も歯を食い縛った。
うまく凌ぐことができたのは、以前進藤がこれによく似た手を並べてくれたことがあったのを、思い出せたからに他ならない。
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