灑涙雨 (さいるいう) 1 - 2
(1)
久方ぶりに帰ってきた京の都は、やはり暑かった。日が落ちても尚、熱く湿った空気が身体に纏わり
つくようで、どうにも不快だ。だが、先程まではそよとも吹かなかった風だが、僅かな空気の流れを
感じて立ち止まる。空を見上げると、天頂に輝く半円の月に雲がかかりつつあった。
遠くで雷鳴が微かに聞こえる。どうやら一雨きそうだ。雨が来ればこの澱んだ空気も払われて少しは
涼しくなるかもしれない。それは嬉しいけれど、やはり雨の降る前に彼の屋敷へ着いてしまいたい、
そう思って、彼は心持ち足を速めた。
新しく斎宮となられた姫と共に伊勢に下る一行の警護役として都を離れていた近衛光は、二月ぶりに
やっと帰京し、一旦、寮へ戻って旅の汚れを落とした後に、真っ直ぐ彼の屋敷を目指した。
離れているのが、逢いたくても逢えないのがこんなに辛いとは思わなかった。
いつの間にか心の中にしっかりと住み着いてしまった人の、美しい白い横顔を思う。しなやかな黒髪と、
深い透明な黒い瞳を思う。熱い肌と力強い腕を思う。二月前、旅立つ前の最後の逢瀬の夜を思い出し
てしまうと、顔が熱くなる。ただでさえ暑いのに、あの熱を思い出してしまうと、更に身体の奥から熱が
湧き出してきてしまう気がして、はやる心を抑えようとしながらも、その足は次第に早足になっている。
やっと、逢える。
もう、半ば駆け足のような状態で彼の屋敷の門に辿り着いたヒカルは胸を押さえ呼吸を整え、それから
そっと門に手をかけようとした時に、それは内側から静かに開けられ、静かな声がヒカルを迎えた。
「ようこそ、主人がお待ち申し上げておりました。」
(2)
案内された部屋の中へ一歩足を踏み入れると、部屋の中央の文机に向かっていたひとが振り向いて、
静かな笑顔をヒカルに向けた。
「お帰り。無事に帰ってこれたようで、安心したよ。」
二月ぶりに見るその人は、思い描いていたよりも更に美しく、その笑顔は記憶に残るものよりも更に
優しいもののように見えて、ヒカルは言葉を失ってそこに立ち尽くしてしまった。
彼は立ち上がり、ヒカルの様子に小さく首を傾げながら近づいてくる。
「ヒカル?」
その声さえも懐かしくて、ヒカルは思わず彼の身体に抱きついた。
「逢いたかった……!」
ヒカルの抱擁に驚いて一瞬身体を強張らせた彼は、次の瞬間には強く抱き返してくれた。
頬にかかるさらさらとした髪の感触が、胸いっぱいに吸い込んだ彼の香りが懐かしくて、嬉しくて、ヒカル
は彼の背に回した腕にぎゅっと力を込めた。目を開けるとすぐそこに彼の深い黒い瞳があって、吸い寄
せられるように唇を重ねた。
ああ、この唇に、ずっと触れたかった。
二月の間満たされなかった飢えを満たすように、彼の口内を探る。初めは驚いた様子でヒカルの口付け
を受けていた彼だったが、それでも彼にもはやり渇えはあったようで、気付いた時には逆に激しくヒカル
を貪るように口内を荒らした。
息をする間も惜しむように互いを貪りあいながら、自然、折り重なるように床に倒れこむ。
その身体の重みが、衣を通して伝わる体温が、懐かしくて、嬉しかった。
覆いかぶさる彼が息継ぎをするために離れた隙をついて彼の顔を両手で固定して、うっとりと見上げる。
「逢いたかった…アキラ……」
「ヒカル……」
一瞬、彼は泣きそうな顔になって、そのままヒカルの肩口に顔を埋める。
「…僕だって……」
逢いたかった、と、唇だけが動いて、それはそのままヒカルの目元に触れ、それからそこかしこに口付け
の雨を降らせた。
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