天涯硝子 1 - 2
(1)
いつもの研究会が終わり、皆でエレベーターホールへと出た。
誰かが冗談を言って笑わせるなか、和谷が急に大声でネットで対局した一局がどうこうと言い出した。
「そういうことはなぁ、もっと早く言うもんだ」
森下九段がたしなめる。
「今日はもう終わったんだぞ」
「メシ食って帰りますかー?」
誰も和谷の言うことなど聞く耳持たぬといった風で和谷はムッとふくれる。
運動靴を履き損ね、ひとりモタモタと皆の後に続いたヒカルの前で、
冴木がジーンズのポケットを探るのが見えた。
「あ…いけね、鍵」
対局室に戻ろうと振り返った冴木は、ちょうど真後ろにいたヒカルにぶつかった。
「あ、ごめん」
「…すみません」
エレベーターのドアが開いて皆が乗り込む。
「俺、ちょっと忘れ物したんで」
冴木はそう言うと小走りに対局室へと戻って行った。
「何忘れたんだよう!冴木さんっ」
和谷が腹立ち紛れに叫んだ。
「おっちょこちょいって云うのか?ああいうの?」
のんびりとした声に皆が笑い、ドアが閉められる。
そして、ふと気づいた。ヒカルがエレベーターに乗っていなかった。
「あれ?進藤は?」
ヒカルはエレベーターの前で動けずにいた。
もちろん皆と一緒に下に降りていくつもりだった。
冴木とぶつかった時、何か前にもこんな感じのことがあったなと思い、
何だろうと考えていてエレベーターに乗り損ねたのだ。
−−−何だろう、この感じ…。
思い出しかけては引いていく、この感じ…。
ぼんやりしてるなと思い直し、ヒカルは冴木を待った。
冴木は指先にクルクルと鍵を廻しながら戻ってきた。
「あ?進藤、一緒に行かなかったのか?」
「ははは。ちょっと…」
「うん?」
「冴木さん、何忘れたの? その鍵?」
冴木は嬉しそうに笑った。
(2)
「新しい車を買ったんだ。新古車だけどな」
「新古車?」
エレベーターが来たので、ふたりして乗り込んだ。
操作ボタンの前に立ち、ヒカルは1階のボタンを押してから少し迷い、冴木に聞いた。
「2階に寄って行く? さっき和谷がネットの対局がどうとかって…。対局場にいないかな?」
「そうかな? 帰ったって云うか、皆1階にいそうだけどな」
「…そうだね」
ヒカルは振り返って冴木を見た。
左後ろ、冴木が笑顔でヒカルを見ていた。
「−−−」
検討の時や練習手合いの時の合間に見せる苦笑混じりの笑顔ではない。
欲しかったものを手に入れ、小さな子供のように喜んでいる顔だった。
そして何より、ヒカルが振り返り少し見上げたその高さは、
佐為がいつも笑顔で自分を見つめていてくれた場所だった。
忘れないだろうと思っていた、佐為の感覚…。
佐為が消えて、もう1年以上が過ぎた−−−。忘れていたのだろうか。
いや、そうではない。
佐為と重なるものなどないと思っていた−−−だから、冴木とぶつかった時に
佐為と向かい合っていた頃の感覚が蘇ったものの、それがすぐさま佐為と重ならなかったのだ。
思い出しそうで引いて行った、懐かしい感覚。
ヒカルは、泣き出しそうな気持ちでいっぱいになった。
佐為と冴木が重なる−−−そう思い始めると、冴木の肩幅も、その胸の厚さも、手の形も顔も、
佐為に似ているような気がしてきた。
「……」
ヒカルは向き直り、少し高ぶった気持ちを落ち着けようと大きく息をついた。
1階に着いてドアが開く。
いるだろうと思っていた和谷たちはいなかった。
「…やっぱり2階かな」
声がうわずっているような気がする。
「…いいさ、今日はもう終わりだ。帰ろう、進藤」
「…うん」
ゆっくりと歩き、冴木の後に着いて棋院から出た。
棋院から道路に出ると、冴木は右手を上げてヒカルに手を振った。
「さよなら」
ヒカルが左に折れ、駅に向かおうと歩き出そうとすると、急に冴木が思い出したように声を掛けてきた。
「進藤! 送って行こうか」
「え?」
「駅までじゃなくて、進藤の家までさ」
「えっ、でも」
「ホントはさ、新しい車を転がしたくてしょうがないんだ。乗っていかないか?」
ヒカルはそう冴木に 誘われて、何だかとても嬉しかった。
嬉しくて笑顔になってしまうのを何とかして止めようと、口を真一文字に結び、そして大きく頷いた。
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