カゲロウ 1 - 3
(1)
――なにやってんだ、オレ…?
きつい眼差しで睨み上げてくる相手を身体の下に組み敷いた状態で、和谷はボンヤリと
考えていた。
強引に脱がされたシャツで後手に拘束され、圧し掛かられてその身を自由に動かす事
すら出来ないのに、どうしてそんな目で自分を見ていられるのだろうか。
怯えも恐れも含まない怒りに満ちた凛とした真直ぐな視線。塔矢アキラらしい目だ。
覗きこんだアキラの瞳に映る自分の姿が何だか奇妙なものに思え、視線を外せないまま
アンダーシャツの裾から手を差し込んで相手の身体をまさぐる。
その感触にアキラが身体を強張らせるのがわかったが、和谷はそんな事には斟酌せずに
手を蠢かせ続けた。思考とは切り離された所で身体だけが勝手に動いている。
まるで手だけ別の生き物になってしまったみたいだ。
「…離せ」
激しく抵抗した名残で荒く繰り返される呼吸の中から、押し殺した声でアキラが言う。
「キミは今、混乱しているんだ。…馬鹿な事は、もうやめろ!」
自分を非難する声と視線を振り切る様に、和谷はアキラの首筋に顔を埋めた。
――コンラン?…ああ、してるさ。オレはもう随分と長い間、お前に掻き回されっ
ぱなしなんだよ…
微かに汗の匂いがするそこに躊躇いもなく舌を這わせながらも、頭の片隅ではアキラの
言葉に何かがチリチリと反応し始めていた。
『いけ好かない奴だ』
和谷が塔矢アキラを個人として初めて認識した時の第一印象がそれだった。
プロ試験予選という緊迫した状況の中、一人取り澄ました顔をして詰め碁集を読んで
いた少年。彼が以前から師匠の森下に聞かされていた人物だとすぐに気が付いた。
先入観もありきつい態度で接してしまったが、気にもせずに話かけて来るアキラに更に
イラついた事を憶えている。
以降アキラの事を知れば知る程、その全てが鼻についた。
既に和谷の中では塔矢アキラは『嫌悪』の項目へと分類されていたのだ。
(2)
その噂を聞いたのはいつだったか。
―最近その碁会所に進藤ヒカルが出入りしているらしい―
和谷はそこが塔矢元名人の経営する碁会所だととうに知っていたし、アキラがよくそこ
で指導碁のような事をしているという話も聞いていた。
そんな場所にアキラのライバルを自称しているが、特に親しいわけでもないヒカルが
頻繁に通っているとは到底思えない。
ましてやヒカルは森下の研究会にも参加しているのだ。
―そんなのあるわけないだろ―
元々その噂を持って来た人物も話の又聞きとやらで信憑性も薄く、和谷が一笑に伏して
結局はその話題は流れたのだった。
その時は気にも留めなかった話だが、たまたまその碁会所の前を通りかかった今になり、
ふと思い出して覗いてみる気になったのは、知らぬ間に心の奥底にその欠片が沈んで
いたのかもしれない。
「いらっしゃい。ここは初めてね?」
碁会所の自動ドアが開くと、受付にいるエプロン姿の快活そうな女性が声を掛けて来た。
「あ、まあ…」
塔矢門下の本拠地という思いのせいか、無意識に力んでしまっていた和谷の返事はいつ
もの彼らしからぬ歯切れの悪さだ。
だがそんな事を気にする風もなく、受付の女性は話を続ける。
「…じゃあ、まずはここに名前を…」
和谷はそれに適当に相槌を打ちながら、碁会所の中をさり気なく見回す。
他の碁会所となんら変わる所はない。普通の碁会所だ。
――当たり前か。
塔矢の名に過剰に反応している自分に気付き、なんだか急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
特に打つつもりも無かったのでこのまま帰ろうかと視線を戻しかけたその時…
(3)
――…いた!
奥まった席に座る、見慣れた後姿。間違う筈がない。進藤ヒカルのそれだった。
そしてそのヒカルに対峙しているのは……塔矢アキラ。
信じられない思いで目を見開く和谷の前で、二人は気付く事なく盤面に向かっている。
互いに石を置いて何か話している様子は検討でもしているのだろう。
しかし段々とその声が大きくなり、最後は立ち上がって言い争いが始まってしまった。
「いっちゃん、又かい?」
「そうみたい。毎回最後はこうなるのよねぇ」
和谷の少し後に来た常連らしき初老の男性に話し掛けられ、受付女性は軽く肩を竦める。
その言葉に和谷の心臓がドクンと跳ねた。ヒカルはここに何度も来ているのだ。
そして恐らくその度にアキラと会っている。
裏切られたと思った。
ヒカルに対して猛烈な怒りが込み上げて来る。と同時に何故かアキラに対しても同様の
怒りを覚えた。和谷自身にも説明の出来ない胸が焼けるような感覚に更に苛立つ。
これ以上二人を見ていると、どうにかなってしまいそうだ。
「ちょっと、キミ…!」
受付女性の声を背に受けながら、和谷は逃げる様にして碁会所を後にした。
その脳裏には先程見た光景がちらつく。
端から見たら単なる子供同士の口論にしか見えないだろうが、和谷にはわかっていた。
二人にしか触れることの出来ない空間が、確かにそこに存在したのだ。
そしてもう一つ、網膜に焼き付いて離れない映像があった。
…ヒカルに触発されるようにして声を荒げたアキラ。
――あんな塔矢、オレは知らない…
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