カルピス・パーティー 1 - 3
(1)
「今日はここまでにしておこう」
「ああ。そーだな」
ジャラジャラと碁石を片付けあって碁笥に蓋を嵌めてから、ヒカルは「うーん」と
大きく伸びをしフローリングの上に仰向けに倒れ込んだ。
「・・・進藤、どうしたんだ。具合でも悪いのか?」
ヒカルは薄目を開けて声のするほうを見た。
碁盤を挟んだ向こう側から、片手で碁笥を押さえ片手で蓋を閉めた体勢のままのアキラが
心配そうに首を傾けてこちらを見ている。
「別にそーいうんじゃないけど・・・昼過ぎから、何時間碁盤の前に座ってたと
思ってんだよ・・・」
「今までだって、対局や棋譜研究でこれくらいの長さになることはあったじゃないか?」
「そーだけどさぁ。オレここ何日か、あんま寝てないの!」
思わず苛ついた声をぶつけてしまった。が、アキラは声の調子より言葉の内容のほうに
ショックを受けたらしい。
座布団の横に手をつき眉根を寄せて、ますます心配そうな顔で覗き込んでくる。
「寝てない?何をやっていたんだ進藤。眠れなかったのか?」
「んー」
曖昧に返事をしてヒカルは一気に上体を起こした。胡坐をかいて、ポリポリと頭を掻く。
「おい、しんど・・・ウッ」
アキラの言葉は途中で止まった。ヒカルが両手を伸ばしてアキラの頬の肉を鷲掴みにし、
両側に強く引っ張ったのだ。
「ひっ、ひんどぉ?」
(2)
「う〜ん・・・」
ヒカルは何か考え込むような表情でしばらく横に引っ張られたアキラの顔を眺めていたが、
やがて頬の肉から手を離し、アキラがほっとする暇もなく今度はアキラの口唇を親指と
人差し指で上下からぐぐっと挟みあげ、アヒルの嘴のように横に長く押しつぶした。
「ンー、・・・ンーっ?」
抗議の言葉を紡ごうとするアキラの唇はヒカルの指にがっちりと捉えられてしまい
本来の機能を果たすことができない。
初め当惑の色を浮かべていた切れ長の瞳は、やがて訳もわからず弄られることへの心外さ
と怒りに潤み、アキラはぶんぶんと首を振ってこの辱めを与える指から逃れようとした。
それでもヒカルは容赦なく指に力を込め、真剣な眼差しでアヒル口になったアキラの顔を
眺める。
「ンー・・・」
悔しげに潤んで光っていた瞳がとうとう降参したように閉じられ、哀願するような
細い声が白い喉の奥から洩れた時、ヒカルは漸くアキラの唇を捉えていた指を離した。
ぷはっと息をついて何か抗議しようと開きかけたアキラの唇に、ヒカルはすかさず
チュッと音を立てて軽いキスをした。
「・・・・・・!?」
抗議の言葉も引っ込んでしまったのか、アキラは目を大きく見開いたまま信じられないと
いう顔でヒカルを見た。その頬が、見る見る生き生きとした赤い色に染まっていく。
(朝焼けの空みたいだな)
そう思いながらヒカルはもう一度アキラの頬を指でむにーっと引っ張り、ぱっと離すと
勢いよく立ち上がった。
「・・・おいっ、進藤!?」
「座ってろよ。飲み物持ってくるから、ちょっと休もうぜ」
首や肩をコキコキ言わせてキッチンに向かうヒカルの背中を、アキラはヒリヒリする
頬を押さえながら釈然としない表情で見送った。
(3)
一方、冷蔵庫や戸棚を漁って飲み物とコップを取り出すヒカルの表情は明るかった。
(なーんだ・・・全然大丈夫そうじゃん!悩んで損したかもな)
アキラが関西から帰ってきて三日後。今日の自主研究会を提案したのはヒカルのほう
だった。
向こうで社と会うと聞いた時から嫌な予感はしていたが、帰京するはずだった日の
夕方になってアキラの携帯から帰るのを一日遅らせると連絡が入った。
社に引き留められているのか、アキラが自分から残りたいと思ったのか。
今頃二人は何を話しどんな風に過ごしているのかと、気になって気になって
その夜は一睡もできなかった。
社がアキラの心を捉えてしまったらどうしようと、思った。
北斗杯前後の対局や交流を通して、ヒカルは社の実力や人柄をだいたいは把握した
つもりだった。
アキラが小学生の頃出会った自分に強く執着し、今も彼にとって特別な存在として
自分を遇してくれているのと同じように、社はアキラの興味を引くのに十分な資格を
備えているように思えた。
もしアキラに、自分と同じかそれ以上に特別な存在ができたら。
その時自分とアキラの関係はどう変わってしまうのだろう?
だが今日自分のアパートを訪れたアキラは何ら変わった素振りもなく、
相変わらず全身全霊で自分との碁に打ち込んできた。
石を打ちながら、検討を重ねながら、見つめてくる熱の籠もった眼差し。
魂まで焼き尽くされてしまうようなその眼差しは自分たちがまだ出会ったばかりの頃、
二度目の対戦の時から、変わらずアキラが自分に向け続けているものだ。
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