検討編 1 - 3
(1)
早碁ペースだったせいで勝負がついたのは早かったのに、検討に夢中になっていたらしく、
気付いたら二人の他には誰もいなくなっていた。
もうこんな時間なのか、と思うと同時にアキラは空腹を感じた。昼を食べていないから当たり前だ。
どうしようか、と思ったのと、「塔矢、オレ、腹減った。」とヒカルが口を開いたのとほぼ同時だった。
まだ何となく検討し足りない気持ちはあったのだけれど、とりあえず空腹を満たそうと、棋院を出た。
進藤の食べっぷりは見ていて気持ちがいいほどだ、とアキラは思う。
成る程、母が「アキラさんは小食だから」とこぼすのがやっとわかったような気がする。
これが普通だとするなら、確かにボクは小食だ。
大体、ボクの方が一食抜いてるはずなのに、今だって進藤のほうが沢山食べてると言うのはどういう
事だろう。しかも、進藤と来たら、自分の分をさっさと食べてしまって、ボクの皿をもの欲しそうな目で
見ている。
「塔矢のそれ、美味そうだなあ。」
そら、やっぱりだ。
そんな目で見たって知るものか、と、アキラは自分のペースでゆっくりと食べる。
ようやく食べ終えて食後のコーヒーを飲み干すと、見計らったようにヒカルが聞いてきた。
「どうする?」
これから、もう帰るか、それともまだ検討を続けるか。
「まだ、もう少し…」
対局中からずっと、妙な高揚感のようなものが続いていて、対局を終えても、あれだけ検討しても、
まだその熱は冷め遣らない。
このまま帰ってしまうのがどうしても惜しいような気がして、アキラは言った。
「まだもう少し検討したいし…碁会所に行かないか?」
(2)
「あれ?休みじゃねぇの?電気もついてないし…」
「ああ、うん、そうだけど、大丈夫だよ、鍵持ってるから。」
もしかしたら今日は囲碁サロンは休みだったかもしれない、とは思っていた。
けれど知らない碁会所に飛び込むのは嫌だったし、鍵があるから入れないわけじゃない。
休みなら休みでゆっくり検討できるからいい、そう思ってここに来た。
アキラはキーホルダーの中の鍵を使って開錠し、普段は自動のドアを手で開けた。
入り口近くのスイッチを入れると、ぱっと全体に灯りがついて、ヒカルは思わず目を瞬かせた。
ここに来るのはいつ以来だろう。
ここから全ては始まったのだ。
「そうだ、」
ヒカルの感慨には気付かないのか、アキラは何かを思いついた、というような声をあげた。
「こっち、来て。進藤。」
アキラは奥へ向かってずんずんと歩いていき、奥のドアを開ける。
「普段はあんまりこの部屋は使わないんだけどね。今日は誰もいない事だし、特別に…」
その部屋には応接セットがしつらえられており、当然のようにテーブルの上には碁盤と碁笥が置いてあった。
電気を点けようとカベを探っているアキラの手をヒカルが掴んだ。
「進藤?」
「塔矢…」
暗い部屋に一歩足を踏み入れかけたアキラが、振り返ってヒカルを見る。
「しん……」
闇と光の境界で熱くアキラを見つめるヒカルの眼差しに、言葉を失った。
アキラの目を見つめたまま、ヒカルの目がゆっくりと近づいてくる。
眼前に迫る距離に耐えられずに目を閉じると、唇に柔らかな温もりを感じた。
どうして、と思いながらも心の片隅では、これを期待して自分は誰もいないここへ来たのかもしれない、と思う。
昼間のように強引ではない、そっと触れるだけのそれに、全身を緊張させて耐えた。
動けない。息をする事もできない。身体が小さく震えているような気がする。
(3)
唇に感じていた柔らかなものがやっと去って行って、アキラは僅かに頭を引いて止めていた息を吐き、
それから二度三度、深呼吸しながら目を開けると、まだすぐ間近に、ヒカルの眼がアキラを覗き込むよ
うにして見ていた。
「逃げねぇの…?」
低い声でヒカルが問う。
「オマエが逃げないと、オレ、勘違いしちまう…」
逃げない。キミからはもう逃げられない。そう、言ったじゃないか。
――ボクはもうキミから逃げたりしない――もう、ずっと昔にそんな事を言った気がする。
ヒカルは片手でアキラの手を捕らえたまま、もう一方の手でアキラの頬を包むように触れた。
あ、と、軽く開かれた唇から小さく息が漏れ、ヒカルの手の下でアキラがぴくんと震えた。
唇がこんなに敏感な場所だなんて、知らなかった。
僅かな動きに、その柔らかさに、眩暈がしそうだ。
繰り返し何度もアキラの唇に触れてくるそれは昼間のように強引ではなく、そっと押し包むように柔らかく
アキラに触れ、離れていったかと思うと、またそっと触れる。
触れるか触れないかの位置に留まった唇が、「とうや」と、自分の名を音も無く呼んだのがわかって、
頭の芯がくらくらと痺れたように感じた。
応えるように、「しんどう、」と、相手の名を形でなぞる。
次の瞬間、ぐっと強く抱きしめられた。
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