夢の魚 承前 1 - 3
(1)
「ルリイロスズメダイ?」
緒方さんは鸚鵡返しで呟くと、眉間に軽くしわを寄せた。
改札を抜けると、緒方さんが例の派手な車の前で腕組みをして立っていた。
父とこれから打つらしい。その前に一服したいからと、僕を迎えにきてくれたそうだ。
緒方さんはかなりのヘビースモーカーだ。
何年か前、対局中の喫煙が禁じられたとき、相当機嫌を悪くしていたのを覚えている。
2時間が限度だと、本気で悩んでいたっけ。
そんな事情から、碁石を持つときはどんな場合もなるべく吸わないようにしていると、以前苦笑交じりに話してくれたことがある。
僕が車に乗りこむと、緒方さんはアームレストから新しいラークを取り出して、火をつけた。
ぷかりと紫煙があがり、ゆらりと崩れる。
紫の煙が揺れる様に、重ねるものがあった。
「緒方さん、ルリイロスズメダイってご存知ですか?」
いつも冷静な印象の緒方さんだが、実は表情は豊かだ。
いまも、ぽかんと口を開け、僕の顔をまじまじと見ている。
「ルリイロスズメダイ?」
「ご存知ありませんか?」
「ルリイロスズメダイねぇ……、興味あったっけ?」
「あ、…ちょっとどんな魚かなって」
緒方さんはポンと灰皿に煙草の灰を落としてから、ゆっくりと車を発信させた。
「ルリイロスズメダイって魚は正式にはないといってもいいと思うよ」
(2)
「ない?」
日の暮れた町を、赤いスポーツカーは滑らかに走っていく。
「デバスズメダイのことをルリイロスズメダイと呼ぶ人は多いね。
デバスズメダイの英名がブルーグリーン・クロミスって言ってね、
きれいなエメラルドグリーン、和名だと瑠璃色だな。きれいな青い魚なんだ。
で、クロミスがスズメダイのことだから、誰かがルリイロスズメダイって言い出したんだろうな。
でも、ルリホシスズメダイってのがいてね、これは大きさも違うし体に星のように白い斑がある。
それとの混同を避けるため、今はデバスズメダイと言うのが一般的だな」
「それじゃ……」
僕は不思議な気持ちだった。
「ルリイロスズメダイって魚はいないんですね?」
「厳密に言えばね」
進藤はこれを知っているのだろうか。
「幻の魚だな」
緒方さんの言葉に、なぜか頬が紅潮する。
――――幻の魚
僕は夢の魚を飼っている………。
「その……、デバスズメダイはどんな魚なんですか?」
「さっきも言ったけどね。青い綺麗な魚だよ」
「綺麗…なんですか?」
「群れる習性があってね。ちっちゃくて可愛くて……、ダイバーの間で人気のある魚だな」
「ちっちゃい?」
「大きくてもこんなものかな?」
緒方さんは、タバコを持ったまま左手の親指を立てて見せた。
(3)
「僕、似てますか?」
「は?」
「デバスズメダイに……」
車内に沈黙が落ちた。
聞こえるのは、静かに響くエンジンの音と、カーオーディオから流れる、スイングジャズ。
僕は、自分の耳が熱くなっていることを自覚した。
「いまの!」
なにを訊いてるんだ、僕は!?
「いまの無しです。忘れてください」
「あ、あぁ………」
緒方さんが納得いかないと言いたげな声音で、相槌を打つ。
僕は、ひどく恥ずかしくなってしまった。
緒方さんの視線を避けて、窓のほうに顔を向ける。
馬鹿だ、僕は。
進藤本人から聞かなきゃ意味がないのに……。
胸がどきどきする。
走ったわけでもないのに、鼓動が早い。
進藤は、僕にどんな青い魚を見せてくれるんだろう。
その魚はどこが僕に似ているんだろう。
進藤、ルリイロスズメダイって魚は、本当はいないんだよ。
幻の魚なんだよ。
君はそれを知ってるのか?
それと、…………。
僕が夢の魚を飼っていることを、君は知っているかい?
君の中で息衝いている、幻の魚に早く会いたい。
明後日。
9月20日は、進藤の誕生日。 〜終〜
|