sai包囲網 1 - 3
(1)
「知ってるんだなsaiを!知ってるんならオレにも打たせろっ」
ほんの少し動けば触れるばかりの間近で、そう緒方に言われたとき、
進藤ヒカルは心臓が縮み上がるのではないかと思った。それくらいまず
い事態に追い込まれていた。
それでも、何とか言葉を探し、緒方の追求をかわそうとする。
「し・・・知らないっ。知りません!オレはただsaiと塔矢先生との
ネット碁を、た、たまたま見ていただけで・・・」
胸倉を掴んでいた緒方を手を振り払い、先程の追いかけっこで上
がった息を整えようとしたとき、ふいに傍らのエレベーターが開いて、
見知った相手が姿を見せた。
「進藤」
「塔矢」
次から次へと〜〜〜っ。今、一番現れて欲しくなかった塔矢アキラの
訝しげな視線に内心焦りながらも、目の前に立ち塞がったままの緒方が
そちらに気を取られた隙をすり抜け、開いたままのエレベーターに飛び
込む。振り返ったヒカルが降のボタンに目を止めるより早く、横から伸
びた指先がそれを押した。ヒカルがそうであるように、短く切り揃えら
れた爪の擦り減った、それでも白くて綺麗な指。ヒカルは半ば唖然とし
て、その手の持ち主を呼ぶ。
「塔矢・・・」
「下で、良かったよね?」
「あっ、ああ」
それだけ答えるのが精一杯だ。自分が乗り込むのがぎりぎりのタイミ
ングだと思っていたのに、いつの間に・・・。せっかく緒方を振り切っ
ても、これでは余計に状況が悪くなったかも知れない。
重く、嫌な沈黙の中、ゆっくりとエレベーターが下降する。
「進藤」
「な、何?」
「僕は、ちらっとしか見てないけれど、緒方さんが何か君に詰め寄って
るように、見えたのだけれど・・・」
(2)
アキラの言葉がいつになく歯切れが悪いのは、ヒカルたちの言い争う
声を聞いてないせいだろう。それでも、あの場の雰囲気が和やかなもの
ではなかったのは一目瞭然で、勘のいいアキラなら二人の間に諍いがあ
ったことに気がついたかも知れない。
俯いたままのヒカルの柔らかそうな前髪と長い睫毛。その下の細い首
と頼りない華奢な肩。緒方との知人とにしては近過ぎる距離に立つ彼の
姿を見た瞬間、身体中の血が沸騰するかと思った。ヒカルが緒方から逃げ
るように自分の脇をすり抜けたとき、咄嗟に後を追った。
先程見た衝撃と怒りを抑え込んで、もう一度訊ねる。
「お父さんの、お見舞いに来てくれたの?」
答えないヒカルに、アキラは質問の切り口を変える。今までの経験上、
余程うまく問わない限り、ヒカルに言い抜けられてしまうだろう。
「あっ、うん」
「そう。ありがとう」
「いや、その、だって、俺が心配だったからさ」
「でも、ありがとう」
ほっとしたようにヒカルが息を吐いたのを見て、アキラは笑顔のまま
少しだけ相手との間を詰めた。
「この前も来てくれたんだってね。市河さんから聞いたよ」
「市河さんって、碁会所の受付のおねーさんだっけ?」
「うん」
そういえば、あのときは緒方にも会ってる。ここで否定しても意味が
ないことに気がついて、ヒカルはうんと小さく頷いた。
「そのときに、お父さんと対局の約束をしたの?」
はっとして振り仰いだアキラは、もう笑っていなかった。
(3)
「対局って、何?」
思わずぎゅっと自分のトレーナーの胸元を握って、ヒカルは答えた。
その仕種だけで何か隠し事をしてますと言ってるようなものだが、今の
ヒカルにはそれに気づく余裕すらない。うまく凌いだと思い、緊張を解
いたところに、鋭く切り込む一手を放たれて、思考が停止しそうになる。
これが碁なら持ち時間を目一杯に使って、切り返す手を編み出したいと
ころだが、アキラの表情を見ると既に持てる時間を使い切り、秒読みに
まで追い込まれてる気分になってくる。だが、ここで投了するわけには
いかない。
「塔矢先生とはまた打ちたいっては思うけど。ほら、俺の新初段シリー
ズを見ただろ?俺なんてまだまだだよなーーー(笑)」
暗に、昨日のsaiと塔矢名人との対局なんて知らない。俺の実力は
saiには遠く及ばないんだと、二重の否定を含ませたヒカルの答えに、
アキラは薄く笑った。そう言うと思っていたよ。
「桑原先生がね、すごく、おもしろいことを言ってたよ」
「へっ?桑原のじーちゃん?」
突然出て来た桑原本因坊の名前に、ヒカルが動揺してる間に、エレベ
ーターが一階へと着いた。そのまま逃げようにも、アキラに入口側に立
たれ、降りることさえ叶わない。
「ほら、進藤。乗る人の邪魔だよ」
視線を巡回させているうちに、アキラに片腕を取られ、ヒカルはその
まま引きずられるように病院の外へと連れ出される。
ふと、感じる既視感。小学生だった二年前、「逃げるなよ。今から打
とう」と、こうやってアキラに手を引かれて雨の中を走ったときのこと
を思い出した。あのときとは違う手の力の強さ、まだまだ少年特有の華
奢さを残してるものの広くなった背中に、ヒカルは急に怖くなった。
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