まどろみのとき 1 - 3
(1)
とろとろとしたまどろみから目を覚まし、身じろぎをすると、アキラの手が伸びてきた。
まだ生え揃ったばかりでさして濃くないヒカルの叢に手をやると、くるくると指に
絡めるようにしてアキラは遊ぶ。眠りから半ば抜け出せないままに、困ったような、
恥ずかしそうな目をヒカルは横に向けた。やさしく微笑むアキラの顔が間近にあった。
「本因坊リーグ、惜しかったな」
咎める代わりに、照れを隠すように、碁の話を始めた。
「あぁ。でも、いい経験をした。また来年、リーグ入りするさ」
表情そのままに穏やかな声でアキラが答えた。
「オレも次はリーグ入りするゼ。来年はダメだったけどな…」
「そうだな。今度はリーグ戦で戦いたいな」
碁会所でいくらでも対局はできる。だが、公式戦とは違う。緊張の中で早く対局したい。
二人の気持ちは一緒だった。
「本因坊、挑戦者、緒方さんになったんだ…」
「緒方さんの三冠か、桑原先生の4連覇か、どっちに勝利の女神が微笑むのかな」
アキラは来月から始まる本因坊戦に思いを馳せた。
「碁の神様はいい碁を見せた方の味方サ」
ヒカルが言った。
アキラは、ヒカルの確信を持った言い方にハッとした。
ヒカルは時々、こんな風に言う。ヒカルは碁の神様の存在を信じている。
ヒカルがただの勝ち負けでなく、最善の一手、神の一手を目指して囲碁を打っている
ことをアキラは知っている。神の一手を目指す気持ちはアキラも同じだが…。
「進藤、この間も碁の神様って言ってたね」
何気ないようにアキラは問いかけた。
「碁の神様ってホントにいると思う?」
「いるサ!ゼッタイ!」
即座にヒカルが答えた。
「なんだか会ったことがあるみたいだ…」
力を込めた言い方が妙に子供っぽくて、アキラには微笑ましかった。
「…………」
確信に満ちているようだったヒカルが黙った。
アキラはひじを枕に横を向き、ヒカルを見つめた。いたずらをする手は右手に変わった。
(2)
言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。不安になった。
「どうした…?」
「会ったこと、あるかもしれない…、夢の中で…、一度だけ……」
小さな声でヒカルが答えた。
「そうだったの。どんな姿だった?」
さりげなく聞こえるように、アキラは尋ねた。本当は、ヒカルの大切な部分に触れて
いるようで、怖い気がした。だが同時に、ヒカルのことをもっとわかるかもしれない、
その想いの方が強かった。
ヒカルは目を閉じると、しばらくジッとしていた。一瞬、ヒカルは眠ってしまったの
だろうかと思った。もちろんそんなわけはなく、ヒカルは目を閉じたまま、大切なもの
を明かすようにポツリポツリと説明を始めた。
「えっと着物を着てて…、って言っても塔矢のお父さんやサムライみたいな着物じゃ
ねェぜ。もっと昔の…、提灯みたいな形のブカブカのズボンを履いて…、上は着物を
着てるんだけど、その上に膝くらいまでのやっぱりブカブカの、着物なのかな、上着を
着てて…、後ろがシッポみたいな感じで、長いのが垂れてる。それから、頭に黒い帽子
をかぶってて…」
ヒカルの奇妙な説明を聞きながら、アキラはいろいろと想像を働かせた。
「狩衣のことかな?進藤、それって平安時代の貴族の格好ってこと?」
「ん、あ、そう。そうなんだ…」
わかってもらえたことでヒカルはホッとしたようだった。
「碁は中国で生まれたものだけど、碁の神様は平安時代の姿なのか」
ヒカルの碁の神様は碁が日本にやってきてまだ間もない大昔の、そして日本人だという
のが、少しおかしかった。
「とにかく、そーなんだ!」
ヒカルはムキになって答えた。
「で、髪がすげー長くて、腰の下まであるんだ。それを下のほうでひとつにくくってて、
赤いピアスをしてる。女神じゃねェぜ。男なんだ…。でも、とにかく、すげーキレー
なんだ……」
歴史は得意ではなさそうなヒカルが、平安貴族の装束らしきものをやけに熱心に語る
のが、アキラには不思議でもあった。
「…菊の匂いがしてた……」
その香りがヒカルにとってのリアルさを物語っているようで、アキラはその存在を
信じられる気がしてきた。
(3)
「何か話したの…?」
ヒカルの中に確かに存在する碁の神様をもっと知りたかった。その神をこれから二人で
追いかけるのだ。
「オレ、塔矢と打って負けた、って言った。でも、これから二人で何百局、何千局と
打つんだって言ったら、そしたら、ソイツ、ニッコリ笑ってくれた。…それから、
伊角さんがプロ試験合格したこととか…、学校の囲碁部のこととか……」
ヒカルの言葉が途切れた。アキラにはヒカルが泣き出しそうな気がした。
「…碁の神様、何か言った?」
気遣わしげにアキラが尋ねた。
「オレが何か言えよって言ったけど…、何も、言ってくれなくて……」
ヒカルの声は震えていた。
「遠くへ行っちまった……」
乱暴な言葉遣いや勝気で明るい笑顔に惑わされ、多くのものは気づかないが、ヒカルが
感受性が強くナイーブな少年であることをアキラは知っていた。
ヒカルの夢はあまりにリアルで、アキラを不安にさせていた。大体、夢の話をいつまで
も覚えているものだろうか。もしかしたら、ヒカルは本当に碁の神様の目に留まった
のかもしれない。
初めて会ったときから自分はヒカルの打つ碁に魅せられてきた。
才能を愛でられし者は若くして神に召される、という。
碁会所で碁を打ち、ヒカルと共に夜を過ごす。ようやく手に入れた幸せは、すぐに
取り上げられ、寂しい日常が戻った。ヒカルと共に過ごすことを知った後では、
それまでの日常がひどく味気なく感じられた。そして、またヒカルがこの腕に戻って
きた。碁会所からアキラの家に来て、体を重ねる。何にも代えがたい至福のひとときだ。
もはやそれを奪われることには堪えられない。
アキラは急に不安にかられて、ヒカルを強く抱きしめた。華奢な体にさらに不安が
募った。
「あ…、おい、塔矢……」
ヒカルを誰にも渡したくない。たとえ碁の神様であっても。
アキラはヒカルに強くくちびるを押し当てた。アキラの舌の動きに合わせ、ヒカルも
舌を絡めた。ヒカルの睫毛に溜まったしずくをくちびるで拭い、もう一度熱いくちづけ
を交わすと、アキラはくちびるを首筋に落とした。再び叢に戻った手は下へと這って
いった。
おわり
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