落日 1 - 3
(1)
朦朧とした熱の中、彼は夢を見ていた。
熱に浮かされた歪んだ視界の向こうに、白い人影が見えたような気がした。
「…急に会いたくなって、」
人影は懐かしい声でそう言った。
嬉しくて彼の身体に抱きついた。会いたかったのは俺のほうだよ、そう言いたくて、背に回した手に
力をこめると、彼が優しく抱き返してくれた。
暖かい胸に頬を摺り寄せながら、彼の名を呼んだ。
寄り添った身の温かさに、耳元で感じる鼓動に安心して身体を預けた。
何かとてつもなく嫌な夢を見ていたような気がするけれど、それはただの夢だったのだと、安心して
広い胸に顔を埋めた。
そうして優しい夢にまどろんでいると、
ぴちゃん、と彼の額に何かが落ちた。
…何?
そのままぽたり、ぽたり、と落ちる冷たい雫が、次第にその間隔を狭め、彼の顔を濡らしていく。
ふと気付くと、つい先刻まで暖かく優しく抱きしめてくれた腕には既に力はなく、衣も、髪も、濡れて
ずっしりと重く、冷たくじんわりとヒカルを捕らえる。
「や……」
冷たい身体に必死にしがみ付き、呼び起こすように揺さぶる。けれどその身体はもはや彼の呼び
かけには応えない。
「ど…して、そ…んな………や…イヤ……イヤだ………い、…」
大きく見開いた瞳から涙が零れ落ちる。
けれどどれ程強く抱きしめても、名を呼びかけても、全身を揺さぶっても、もはや冷たく思い物体と
化してしまったその身体は、決して呼びかけに応えはしない。
(2)
嫌だ。これは夢だ。夢なんだ。
さっき俺は目覚めたはずなのに、どうしてこんな恐ろしい夢の中にまた迷い込んでしまったんだ。
目を覚ませ。
覚ませばきっと、柔らかな声が俺の名を呼んでくれる。優しい手が俺を抱きしめてくれる。だから。
だから、目を覚ましてくれ。お願いだ。
目を覚ませ。
そうすればこんな恐ろしい夢から抜け出せるはずなんだ。
強い力で揺さぶられて、彼は目覚めた。
全身に汗をびっしょりかいていた。軽く身体を起こすと、冷たい空気が汗に濡れた身体を冷やし、
彼はぶるりと悪寒に震えた。
「大丈夫か?」
誰かの声がする。
これは誰だったろう。
目を開けてその人の顔を確かめようとする間もなく、強い力で抱きしめられた。
「近衛……」
彼が呼ぶのは自分の事であろうか。よくわからずに、けれど温かい身体に縋るように、彼は自分
を抱きしめる身体に腕を回し、その人の抱擁に応えた。
「…近衛……よかった…!」
温かい胸がひどく安心する気がして、彼はその胸に頭を預けて、また、眠りに落ちていった。
(3)
「近衛、」
声をかけながら室内に入ると、脇息にもたれかかっていた少年がゆっくりと振り向いた。
「今日は具合はどうだ?」
でき得る限りの優しい声で――もうずっと、彼に声をかけるときはいつでも、一番優しく柔らかな声
で話しかけられるように心がけていたのだが――振り返った少年に呼びかけると、その声に応える
ように少年はふんわりと笑みを浮かべた。
その表情に胸が痛む。
こんな風に儚げに笑う少年ではなかった。
明るくて、元気で、やんちゃで、元気すぎると周りから叱られて舌を出すような、そんな少年だった。
けれど今、彼は何もかもを失ってしまった人のように、何かを諦めきってしまったように宙を見ては
柔らかに微笑む。その笑みが痛ましくて、どうにかして彼の心を慰めてやりたくて、だから自分は暇
を見つけてはここへ通っているのだ。
その日の出来事を、自分は直接は知らない。
ただ後から人伝に聞いただけだ。
その話を聞いて初めて自分がここに駆けつけたとき、彼に目通りは許されなかった。
お会いする事はなりませぬ、と彼に告げた女房は、もう三日三晩も高熱を出してうなされているのだ、
と続けた。だから彼が病床に臥している間に、その人はひっそりと葬られたのだとも。それを見ずに
済んだことは未だ臥したまま目覚めぬ少年には良かったのか悪かったのか、私にはわかりません、
と、彼女は窶れた面を振って、大儀そうにこぼした。
熱が引いてやっと起き上がれるようになった彼は、当初、言葉を失っていたと言う。
今でこそ、調子の良さそうな時には二言三言、こちらの呼びかけに答えることもあるけれど、大抵は
こちらの声が聞こえているのかいないのか、大きな瞳はぼんやりと虚ろに空を眺めるばかりだった。
だから彼の隣で座って取りとめのない話をしていた自分は、それに気付くとどうしようもなく遣る瀬無い
思いに包まれてしまって、彼の顔を包んでこちらを向かせ、そして彼の身体を抱きしめたくなる。
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