黎明 1 - 3
(1)
その部屋は甘い香りで満たされていた。
その甘さは、だが甘いというよりは甘ったるい、どこか不快な、ねっとりと身体に纏わりつくような、
その香りでひとを絡めとり、闇の底へ引きずり込むような、そんな甘さだった。
その香が毒であることを、初めから知っていた。知っていて、自ら進んでその中に溺れた。
耐え難いこの憂き世を忘れさせてくれるものなら、それが何であろうと構わなかった。
誰よりも大事だった人を失ってしまった悲しみを、何も知らずに笑って彼を見送ってしまった苦い
後悔を、彼を救うことも助けることもできなかった自分の不甲斐なさを、そしてその人はもう決して
還ってはこないのだという絶望を、忘れさせてくれるものならば、それが毒であろうと、いや、毒で
あればある程好ましい。そう思ったから。
彼は、甘い闇の中に堕ちていった。
月も星も見えない夜には、都は暗い闇に包まれ、人の通らぬ小路の隅や、明かりの消された
屋敷の奥部屋などには闇が凝り、その闇から妖かしが這い出る。
だがその部屋は絶えず灯され続ける小さな明かりのために全き闇となることはなく、暗い虚空
に囚われた彼の心とは裏腹に、常に柔らかな薄闇の中にあった。
甘い香りがいざなう夢うつつの世界の中で、誰かの手が触れる。その手は彼の身体をまさぐり、
着衣を一枚一枚剥ぎ取り、あたりに漂う濃く甘く重たい空気のように、ねっとりと彼の身体を絡
めとる。だが香のもたらす幻惑にとらわれた彼は、むしろ不快にも近い闇の中の手に、される
がままに自らの身体を任せる。熱く湿った息が彼の身体にかかり、耳障りな息遣いが彼の耳
に届く。
けれど、さらりとこぼれる髪の感触が、一瞬、大好きだったあの人に似ていると思った。
あの人ではない事など、わかっていた。
けれど、少しでも似ているところがあればそれでいいと思った。
ただ、人肌の温かさが恋しかった。
(2)
いっそ、会わなければよかったのかもしれない。
最期にそれでも一目会いたいと、思ってしまった事が間違いだったのだろうか。
あの冷たさを知らなければ、こんな闇に堕ちていく事もなかったのかもしれない。
甘い闇の中で朧に霞む思考の奥で、彼はそんなことを考えた。
身体は、皮膚の表面は、熱く火照ってきたように感じても、その芯はいつまでたっても冷え切っ
ていて、濡れてしまった蝋燭の芯にはどうやっても火を点けられないように、彼の身体も心も、
芯から燃え立たされることは、あれ以来、決して無かった。
抱きしめた身体は冷たかった。
冷たい水底から引き上げられた身体は、衣も、髪も、なにもかも濡れてずっしりと重く、そして
その身体は、凍りつくような冷たい水よりも更に冷たく、抱きしめたヒカルの身体から体温を奪
いきってしまうほどに、冷たかった。
かつては優しく微笑んだ美しい白い面も、かぐわしい香で焚き染められた長い黒い髪も、みな
泥と水藻に汚れ、優しい光をたたえて自分を見つめた目はもはや決して開けられる事はなく、
自分を抱きしめ、自分の中でその存在を主張していた熱い身体は、その熱を完全に失って、
ただ冷たく重い物体となって眼前に横たえられている。
その人の名を大声で呼ばわりながら、冷たくなってしまった身体を抱きしめた。
けれど、その声は決してその人には届かなかった。どんなに名を呼んでも、彼がその呼び声
に応えることはなかった。彼の双眸からとめどなく流れる熱い涙も、その人の身体をもう一度
温めるには足りなかった。だから彼の衣も、身体も、水に濡れ、泥に汚れ、その冷たさは彼の
身体の奥まで染み透ってしまった。
その時からずっと、彼の心も冷たい水の底に沈んだまま浮かび上がることはなく、また、浮か
び上がりたいとも思わず、水底の黒い石のように、沈み込んだまま冷たく動かずにいた。
(3)
それでも人肌が恋しいと思うのはなぜなのだろう。
この冷たく、冷え切った身体を暖めてくれるものなら何でもいい。誰でもいい。身体の、心の中
心にあいた虚空の闇を埋めてくれるものなら何でもいい。そう思って彼は一番身近にいた人に
抱きついた。それが誰であるかなどどうでもよかった。その事をその人がどう感じるかなどとい
う事も、どうでもよかった。ただ暖めて欲しかった。だから、最初は優しく抱いてくれていたその
人も、やがては呆れ怒って離れていってしまった。
それが誰であったのか、甘い闇に囚われた今となっては、記憶もおぼろげで、思い出せない。
それまでは、その人を好きだったのかもしれない。そんな風に粗雑に扱うような相手ではなかっ
たのかもしれない。けれど、誰よりも大切だと思っていた唯一人の人に置いて行かれて、「好き
だ」と思う気持ちも、「大切だ」と思う気持ちも、暖かい感情はみな全て、あの時一緒に冷えて固
まってしまったようで、好きだった筈の友人を怒らせてしまったことも、なんとも思わなかったし、
それが誰であったかも、もう、思い出せない。
なにもかも全てがどうでもいい。そう思った。
甘い香りのもたらす幻惑に浸っていれば、懐かしいあの人が優しく自分を呼ぶ声が聞こえるよ
うな気がする。ゆらゆらと揺れる視界の中に、逝ってしまったあの人の花のように艶やかだった
笑みが見えるような気がする。
けれど幻はただ微笑むだけで彼の身体を抱いてはくれず、甘い香りの朧な世界の中にあっても、
手の届かないもどかしさは消えることは無く、自ら思い描く幻は所詮幻に過ぎず、冷え切った彼
の身体を暖めてはくれなかった。
だから闇にまどろむ自分の身体に触れる手が温かいものであれば、それだけで、彼はその手に
縋りついた。心の中で今はもういない人の面影を思い描きながら、その人の手とは全く異なる手
に、自らを委ねた。
そうして自分の上を通り過ぎて行ったひとが、自分の中に熱を放出していったひとが、どれだけ
いたのか、それが同じ人であったのかそれぞれ別の人であったのかもわからない。そんな事は
彼にとってはどうでもいい事だった。
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