碁版 西遊記 1 - 3


(1)
[長安出立] 三蔵、慟哭して曰はく、必ずや汝が仇を討たん、と。


豪奢で広大な宮殿の長い廊下を、一人の少年僧が息を切らせて走っていた。
金色の前髪が汗のために額にべったりとはりついている。
愛嬌のある整った顔立ちをしているが、それも今は険しく歪められていた。
見事な五綵の袈裟、毘盧帽を身に着けている。位の高い僧でなければ着用できないもので
ある。だがせっかくのその衣もおおいに乱れ、走るたびに白い足が裾から見え隠れした。
「どこに行った! 早く見つけろ!」
怒声が聞こえてくる。角を曲がりかけて、兵の姿が目に入った。このままではまずい。
慌ててすぐそばにあった部屋に転がり込んだ。
心の蔵がうるさいほどに鳴っている。
少年は右の手を見た。その手には血のついた小刀が握られていた。指を開こうとしたが、
貼りついたように離れない。左手で一本一本はずしていく。
震えが止まらない。歯を食いしばる。
「もう少しだったのに……」
うめくように言った。憎悪が胸のうちに沸き起こってくる。それを鎮めようとは思わない。
いつまでも持ちつづけてやる。
ふと気付くと、頬に涙が流れていた。
「佐為……佐為……」
その名を呼ぶ。しかし返事はない。“ヒカル”と優しく呼ぶ声は二度と返ってこない。
彼の人とは、もう二度と会えないのだ。


(2)
ヒカルが佐為に会ったのは、二年前の寒い冬の日のことだった。
毎日の読経三昧に嫌気がさし、ヒカルはこっそり寺を抜け出した。たまには遊びたかった。
しかしヒカルは寺から離れたことがほとんどなく、結局すぐ近くの川を歩くだけとなった。
枯れ草がどこか淋しげに揺れ、水面は薄い空の青を映して鏡のように凪いでいた。
静謐な雰囲気があたりに満ちていた。
この世は、人は、空しいものぞ、という和尚である祖父の言葉を思い出す。
思わずヒカルは足を止めた。川岸に誰か立っていた。
それが佐為だった。
横顔しか見えなかったが、とても美しい人だと察せられた。
黒い髪を背中に垂らしており、それが風になびいてきれいだった。
その貴人はゆっくりと振り返った。ヒカルを見ると、驚いたようにその双眸が開かれた。
吸い込まれるような漆黒の瞳。薄い形の良い唇が紅く艶めいている。
ヒカルは息を飲んだ。仏がそこにおわす気がしたのだ。
金縛りにあったように動けずにいるヒカルに、佐為は微笑んだ。
「金山寺の方ですか?」
優しげな声。はじかれたようにヒカルは何度も首を縦に振った。
「案内していただけますか?」
「は、はい」
ヒカルは慌てて案内した。だが後ろにいる人を意識してうまく歩けない。
ふらふらと雲の上を歩くような心地がする。
「わっ」
自分の足に引っ掛かり、ヒカルは倒れかけた。だが強い力が引き戻した。
「大丈夫ですか?」
声が出ない。その胸にヒカルはしがみついた。見かけよりもずっと頑丈だった。
ヒカルが顔を上げると、視線がからまりあった。ヒカルは爪先立った。なぜそうしたのか、
後でいくら考えてみてもわからなかった。だが自然と身体が動いたのだ。
唇が重なった。軽く触れただけなのに、温かいものが全身に広がっていく。
だが不意に口内に舌が入ってきて、ヒカルは身体をすくませた。甘い匂いが広がる。
「んぅ……」
ぬるりとした舌が唇を、頬を、上あごを舐め上げる。
(オレ、接吻してる……)
しびれた頭で考える。大変なことをしているのではと不安になってきた。
御仏の教えでは色欲は罪とされている。よって僧侶はみな禁欲しなければならない。
ヒカルは十二歳。己の内にひそむ欲と戦う年頃だったが、それとは無縁に過ごしていた。
だからこの身体を駆け抜ける熱い感覚におののいた。
(や、だ……)
目尻にうっすらと涙が浮かんだそのとき、佐為の唇が離れた。
「行きましょうか」
そう言うと佐為は何事もなかったかのように歩き始めた。
ヒカルは夢から覚めたような心地がして、呆然とその後ろ姿を見た。


寺に着くと、そこは大騒ぎだった。僧侶の一人がヒカルを見つけると大声をあげた。
「和尚さま! 江流児さまがいらっしゃいます!」
すると一人の老僧が駆け寄ってきた。
「どこに行っておったんじゃ! この馬鹿者が!」
「じいちゃん、ごめん。謝るから……」
この美しい人がいる前で叱られたくなかった。ヒカルは後ろを見やった。
そこで初めて和尚はヒカルの背後にいる人物に気付いたようだった。
「貴方さまはもしや……」
「はい。このような略装で申し訳ございませんが」
「いやいや。けっこうでございますとも。うちの者が何か粗相をしませんでしたか?」
「いいえ、この方のおかげで私は無事、ここにたどりつけました」
そう言うとヒカルに微笑みかけてきた。それだけで胸が苦しくなる。
和尚に向き直ると、佐為は真剣な表情となった。研ぎ澄まされた空気をまとっている。
「御書をお持ちいたしました。秘密裡のことゆえ、大仰になさいませぬように」
「わかっております。どうぞこちらへ」
二人は和尚の房室へ向かう。通り過ぎるとき、わずかに手が触れた。
とたんに身体の奥底から逆らいがたい思いがわきあがってきた。
もっとあの人を知りたい。もっとあの人に触れたい。もっと、もっと――――
それは生まれて初めて抱いたものであった。


(3)
その夜、嵐がやってきた。ひきちぎられた木の葉が風に翻弄されている。
窓を叩く雨の音がうるさく、ヒカルは眠れないで天井を見つめていた。
佐為はもう寝ただろうかと考える。
今夜は嵐で帰れないから泊まるとヒカルは聞いていた。客人を通す部屋を知っている。
(明日には帰ってしまう。そしたら二度と会えない……)
嫌だ。そんなのは嫌だ。
衝動のままに寝牀を抜け出した。廊下は底冷えのするような寒さだった。
ヒカルは薄着で出たことを後悔した。板の冷たさが裸足にはつらい。
なるたけ足音をたてないように堂を抜けていく。
いつもは暗い部屋から明かりがもれているのを見て、ヒカルは足を止めた。
ここまで来たのはいいが、これからどうしたらいいだろう。
あの扉を叩く勇気が出ない。たたずんでいると、気配を感じたのか佐為が出てきた。
ヒカルを見て、目を見開いた。
「江流児どの? どうなさったのです、こんな夜更けに」
「あんたに会いに来たんだ」
自分を見るその顔にさっと緊張が走ったのがわかった。
「……とりあえず中へ。そこにいては身体を冷やしてしまいます」
そう言いながら肩にかけていた布を外し、それでヒカルを包んでくれた。
部屋の中は暖かかった。ヒカルは火桶のそばの椅子をすすめられた。
ヒカルが座ると、佐為は少しほほえんだ。本当にきれいな人だ。
だがすぐにその笑みは消えてしまった。代わりに申し訳なさそうな顔をした。
「あなたが法明和尚のお孫とは存じませんで、昼間はご無礼をいたしました」
「何だよそれ! あんたがオレに接吻したのは孫とかは関係ないだろっ」
そうですね、と佐為は叱られた幼子のようにうつむいた。
「……なんで、したんだ……? 誰にでもするのか?」
「いいえ! 違います!」
佐為がすぐに否定した。その慌てぶりがおかしかった。
ヒカルは呼びかけようとして、言葉に詰まった。自分はこの人の名を知らない。
名前を知りたかった。だが聞いてもいいだろうか。
金山寺にはわけありの人がよく来た。だから気軽に名を尋ねるのは戒められていた。
それでもこの人の名を呼びたかった。ヒカルは恐る恐る口を開いた。
「あんたの名は?」
そう尋ねると、その瞳にためらうような色が浮かんだ。しかしヒカルの手をとると、指先
でそのひらに文字をつづってくれた。
「佐為?」
確かめるように言うと、佐為はうなずいてくれた。
それが本当の名ではないだろう。しかしそれでも良かった。
「佐為」
さっそく呼んでみる。すると佐為は返事をしてくれた。
うれしくて何度も繰り返すと、佐為は困ったように笑った。
「江流児どの、もうそれくらいにしてくださいませんか」
「ヒカル。ヒカルって呼んでよ」
「光ですか?」
再び手のひらに文字を書かれた。ヒカルは首を左右に振った。
「ううん。字は使わない。音だけの、ヒカル」
この名は祖父以外は知らない、秘密の呼び名であった。誰にも言うなと言われていた。
しかしどうしても“ヒカル”と呼んでほしかった。
「梵語ですか? 私はあまりその方面には明るくないのですが」
「そんなたいそうなもんじゃないんだ。もとはオレのお父さんの字からとったんだ。それ
よりもさ、呼んでよ。ヒカル、って」
佐為は膝を折り、ヒカルの目線に合わせた。どきりとする。
「ヒカル」
はにかんだように言う。その優しい口調に胸が締め付けられる。なぜか泣きたくなった。
それをこらえ、ヒカルは佐為の髪をつかんで思い切り引っ張った。
「痛っ! ヒカル!?」
悲鳴があがったが、ヒカルは気にせずにすかさずその唇を奪った。
ヒカルの肩から布がすべり落ちた。



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