夜風にのせて 〜惜別〜 1 - 3
(1)
一
昭和4X年。ここは新宿。昼間は眠りにつき、夜になればきらびやかな光が街を彩る。
そして彼女もまたその光のうちの一つであった。
「ひかるさん、出番です。よろしくお願いします」
スタッフの男に声をかけられ、ひかると呼ばれた若い女性は鏡で最後のチェックをした。
長い巻き髪を整えると、きらびやかな赤いドレスに身を包んだ細身の彼女は、それに負け
ないくらい赤々とした口紅をぬると控え室をあとにした。
大きく広いダンスホールの奥には高級なスーツを着た男性や胸元や背中を露出した若い女
性が席を埋め尽くしていた。男性客は酒やタバコとともに女性らと楽しそうに会話をして
いる。その上をミラーボールやシャンデリアが何色もの光を発していた。
貧しい生活を強いられていたひかるにとって、ここはこの世のものとは思えないほど美し
く華やかなものだった。だがこれがこの高級クラブでは日常茶飯事のことだった。
ひかるはゆっくりとステージへ上がる。スポットライトがひかるにあたると、客席から拍
手が鳴り響いた。
お辞儀をし、スタンドマイクの前に立つ。するとダンスホールに人が集まり始めた。
ひかるはゆったりと感情をこめて歌い始める。その美しく優しい歌声に身を任せ、ダンス
が始まる。
客はひかるの歌声に陶酔した。だがひかるは歌だけでない。つぶらな瞳と薄い唇は清楚な
少女を連想させ、そして少し舌足らずな甘い声は守ってあげたくなるような可憐さがあり、
また細く小さな体は儚く見え、それら全てが男性客を魅了した。
ひかるはそれを知ってか知らずか、時折小悪魔のように男性客を目で挑発しながら歌う。
その妖艶ぶりに皆釘付けとなった。
そして歌い終わると客席からは割れんばかりの拍手と口笛が鳴り響いた。
ひかるは深々とお辞儀をする。これがひかるの仕事だった。
(2)
二
明け方、電車が動き始める頃にひかるは自宅へと帰る。
素のひかるは、今までステージでたくさんの光と拍手を浴びていたとは思えないほど幼く
見えた。ステージ用の厚化粧と派手な衣装を脱ぎ捨て、シンプルなアイボリーのセーター
とチェックのロングスカート、そして手編みの赤いマフラーを巻くとまだ学生のようだっ
た。
ひかるは小走りに朝の新宿の街を駆け抜けた。
その顔はこぼれんばかりの笑顔でいっぱいだった。
(3)
三
電車に何分間か揺られて目的地の駅に辿り着くと、ひかるは川べりの道を目指した。そこ
は住んでいるアパートとは逆方向だが、ひかるは胸を高鳴らせて歩く。
そして川が見えるとあたりを見回した。
「ひかるさん、おはようございます」
突然声をかけられ、ひかるは驚いた。川岸から学生帽をかぶった少年が颯爽と現れた。
「お…おはよう、ございます。明さん」
明と呼ばれた男子学生はにこっと微笑むと、ひかるの手を引いて歩き始めた。
「やっぱり早朝の散歩は気持ちがいいですね」
明の背中を見つめ、ひかるは「ええ」と小さく返事をした。
「それに、これがきっかけでひかるさんと出会うことができたし。早起きは三文の徳って
本当なんだなって改めて思いますよ」
明は振り返り、ひかるに微笑んだ。昇り始めた朝陽が明の白い歯に反射し、ひかるは思わ
ず見とれてしまう。だがそんな自分が恥ずかしくてマフラーで顔を隠した。
クシュンと明が突然くしゃみをする。
「…だいぶ寒くなりましたね。これからはもっと厚着をしなければ」
明は照れくさそうに笑った。そんな明にひかるは自分のマフラーを巻こうとした。
「風邪、ひかないでくださいね。明さんに会えなかったら、私の一日は始まりませんから」
そう言うとマフラーを明の首にかける。背の低いひかるは、必死に背伸びをしてマフラー
を巻いてあげた。だが昨夜の疲れからかよろけてしまう。
「大丈夫ですか、ひかるさん」
明は驚いてひかるを抱きしめた。ただでさえ華奢な体つきであるひかるが、昔から病弱で
あったことを聞いていたからだ。
「ご、ごめんなさい。もう大丈夫ですから」
ひかるは胸の高鳴りが聞こえてしまうと思い、明から体を離そうとした。
だが明はひかるの体を抱いて放さなかった。
「暖かい。あともう少しだけ、このままでいさせてはくれませんか?」
ひかるは一瞬戸惑ったが、愛しい明に包み込まれる気持ちよさにそっと背中に手を伸ばし
て抱きついた。
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