甘い経験 1 - 4


(1)
「んっ…、あっ…とう…やぁ…っ!」
彼の名を呼びながら、ヒカルは自分の手の中に放った。
そして、またやっちまったか、と情けない思いで、自分自身を見下ろした。
もう何度、こうして、彼を想いながら自分を慰めたことか。

こんな事になるとわかっていたら、あの朝、どうしてもっと積極的に出なかったんだろう、とヒカルは激しく後悔した。あれほどのチャンスなんてなかったのに。
とは言っても、あの時、あれ以上の事ができたかといえば、きっと無理だったろう。

初めて唇を触れ合わせた時の、甘い記憶が蘇る。
本当はその感触がどんなだったのかさえよくわからない。
ただ、とても柔らかかったような気がする。
そっと触れるだけが精一杯だった。それだけでも十分だった。
触れた瞬間に、全身が痺れるように感じて、それはほんの一瞬の事だったのかもしれないけれど、その時は時間が止まってしまったかのように感じた、それは甘美な時間だった。
とても、それ以上なんて出来やしなかった。
あの時はそれだけで十分だった。


(2)
だからと言って、それっきりだなんて思いもしなかった。
例えば、碁会所や棋院で検討している時や、他の人も交えて話をしている時は何でもない。
ヒカルだって、なんとか普通に接する事ができる。
けれど、二人きりになって、ちょっと良い雰囲気になったかな、なんて思うと、途端に舞い上がってしまって心臓はドキドキするし、何か言おうにも、まともな言葉なんか出てきやしない。
ましてや、触れる事なんて出来るはずがない。
「あのさ、塔矢」と呼びかけても、「なに?進藤?」と優しく微笑まれてしまうと、もう何も言えなくなってしまう。

ヒカルにむかって微笑みかけるアキラの肩を掴まえて、こっちを向かせて、驚いてるアキラの唇を奪う事なんて、想像の中ではこんなに簡単な事なのに。
それどころか、想像の中では、こうやって毎晩の様に彼を組み伏せて、おもうさま、その身体を奪っているのに。
とはいえ、その基になっているのは、大人の目を盗んで友達の家で見た何本かのAVやエロ本から得た物で、なんだかよくわからないような想像ではあったのだけれど。
だから、顔こそアキラではあっても、自分と同じような少年の身体を組み敷いているという想像はどうにもし難かった。


(3)
ただ、もう一つ、ヒカルには知っているものがあった。
だがそれはヒカルには焼け付くような胸の痛みと共に思い出されるものであったけれど。
だからそれはできるだけ思い出さないようにしていた。
けれどそういうものに限って忘れる事など出来ないものだ。
その記憶はしばしば夢の中で、そして自分の手で自分自身を慰めている時に突如呼び覚まされ、耳に焼き付いて残る記憶はヒカルを加速させた。
二度、目にした、思い出すだけでも全身がわななきそうなそのシーン。
アキラを抱いている、長身の逞しい男。ヒカルはまだ知らない、長い、激しいキス。
その男の背にまわされ、彼にしがみついていたアキラの白い手。口から漏れる甘い喘ぎ声。
思い出すと悔しさと嫉妬で胸が焼け付きそうに感じるのに、それなのに、あの男に抱かれているアキラの姿とその甘い声の記憶にヒカルの身体は反応してしまう。
違う、違う。
あの時は、あの時は塔矢はアイツのものだったかもしれないけれど、今はオレのものだ。
だから、オレの腕の中で泣く塔矢を見たい。
オレの手で、アイツにあんな甘い声をあげさせてみたい。
アイツの、何もかも全部を、オレのものにしてしまいたい。

緒方とのことを責めたくはなかった。
彼との間にどんな事があって、どういう気持ちを抱いていたのかは知らないけれど、今は自分の隣にいるのだから、自分を選んでくれたのだから、それで構わない、と思っていた。
彼の事を口に出してアキラに思い出させてしまうのが怖い、という思いもあったかもしれない。
だから、その事とは関係なしにただ、アキラが欲しかった。
アキラの丸ごと全部を感じ取りたかった。


(4)
そんなヒカルの心中を知っているのかいないのか、アキラは変わらずに微笑むだけだ。
(おまえ、ズルイよ、塔矢)
ヒカルは心の中でこぼした。
何がどうずるいのかは良くわからない。
けど、なんかズルイ。そんな気がしてならない。
オレはこんなにやきもきしてるのに、おまえときたらいつも涼しい顔して、ズルイよ、塔矢。

だから、両親が法事で留守をすると聞いた時、ヒカルは心の中で(チャーンス!)と歓声を上げた。これ以上、我慢なんか出来ない。是が非でもこのチャンスをモノにしなければ、と心ははしゃぎ踊るものの、実際アキラに会ってしまうと、口にしようとしては言いそびれ、結局言えたのは前日の夜、ぎりぎりだった。
「あ、あのさ、明日、ウチに泊りに来ねぇ?」
やっとの思いで口に出した言葉は少ししどろもどろになってしまっていたかもしれない。
自分の台詞がいかにも下心たっぷりに聞こえて、(事実、下心だらけなのだけれど)、せめて今が夜でよかった、とヒカルは思った。こんな情けない顔を見られたくない。
そうしてつい顔をそむけてしまったので、アキラがどんな顔で「いいよ」と言ったのか、ヒカルは見ていなかった。



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