平安妄想(仮) 1 - 4
(1)
「ああ……」
切なげな声が薄暗い室内に響く。
想い人の、未だ知らぬ手を思いながら、自らの手で自らの身体を弄る。
彼を思うだけで、身体は熱くなる。
盗賊を掃い、妖魔を切り捨てる力を持つ彼の腕はきっと力強く、剣を掴む手は年齢に見合わず強く逞しく、
けれど年相応に不器用に自分の肌の上を滑るのだろう。
若く熱く衰えを知らぬであろう彼の楔が、我が身を貫く時の事を思うと、目の裏が焼け付きそうだ。
そうだ。自分が欲しいのはそれだ。
熱く激しく自分を抱きしめて欲しい。
奥の奥まで突きいれて欲しい。
壊れそうなほど乱暴に体内をかき回して欲しい。
その熱い迸りを体内の最奥に放って欲しい。
熱く昂ぶってくる身体をもてあましながら、未だ触れる事の叶わぬ人の熱い身体を思いながら、自らを慰める。
こうして彼を想う事が、それだけで彼を汚してしまうように思うのに、やめられない。
肉体の快楽を教え込まれ、暗い情欲に容易に溺れるこの身が恨めしい。
かの人は未だ見ぬ父のように大きく、優しく、自分を包み込んでくれた。
求められるのが嬉しかった。
大きながっしりとした手に触れられて、力強い腕で抱きしめられて、自分は確かに嬉しいと感じた。
熱い体温が嬉しくて広く逞しい胸にしがみついた。
自分がこんなにも人の肌の温もりを求めていたのかと、その時初めて知った。
それまで自分は肌の温もりというものを知らなかった。
この肌が覚えているのは、身体の芯まで凍み透るような冷たい滝の水。
動くものの気配さえない雪の日のしんしんと冷たい空気。
そして闇に棲むものの、凍りつくような冷気。人の心の持つ深い闇。自らを鬼に変ずるまでの嘆きと怨念。
魂さえも冷え冷えと凍らすほどの絶対的な虚無。
冷たさしか知らなかった肌に、温かさというものを教えてくれたのはかの人だ。
気の遠くなるような痛みもあったけれど、それでも自分の身体は確かに悦びを感じて、脳髄が熔けそうな
快楽に、人肌の交わりに、溺れた。
これが愛なのだろうと、思っていた。
(2)
自分は何も知らなかったから。
人を恋うるということも、誰かを愛しく思うことも、身体が、心が、誰か一人を求めてやまないことも。
その想いのために身を引きちぎられるように胸が痛むことも。
己を保ち続ける事さえ苦しくて悲鳴をもらしそうになることも。
我が身を呪いながらも暗い妄想に彼を毎夜汚してしまうことさえも。
眩しい笑顔が目の裏に浮かぶ。
声に出さずに、ただ頭の中で彼の名を呼ぶ。
呼べば彼は嬉しそうに振り返って笑ってくれる。
そして自分にむかって手を振ってくれるから、嬉しくて彼の元に走り寄ろうとして、その時初めて彼の隣に
立つ人の存在に気付く。
だから自分は、駆け出したい衝動を堪えて、小さく微笑みを返しながらゆっくりと彼に近づく。
すると彼の隣の人も優しい笑みを浮かべてくれる。
その美しい笑みに、胸が痛む。
そう。いつも彼の隣にはあの人がいるのだ。美しく優しいあの人が。
あの人が彼を愛しげに彼を見守るのを目にした時、そして、彼が眩しそうに目を細めてあの人を見上げる時、
自分の胸はかつて知らなかったようにキリキリと痛むのだ。
暖かで幸福そうな人たち。
闇に棲む自分とは正反対に、明るい光の中に棲む人たち。
彼が自分を見る時の、健やかで明るく、力強い眼差しを思う。
屈託のない、少年らしい、眩しいほどの笑顔を思う。
闇や、穢れや、邪念や、人を妖しや鬼へと変ずる怨念とは無縁の、明るく眩しい光。
純粋に、その光に憧れた。
それはこのような汚れた欲望とは無縁の憧れのはずであった。
それなのに。
(3)
「賀茂殿は切ないまでの眼差しで彼を見るのですな。」
不意に背後から囁かれた声に、心を鷲掴みにされたような気がした。
「其れ程までに彼を愛しくお思いか。」
耳元で囁かれるその声は低く、けれどどこか甘く、身体の芯を痺れさせるような響きを持っていた。
恐ろしくて振り返る事ができなかった。
そして肩にかけられた手は、逃れる事を許さなかった。
ほんの少し、声を出せば届く位置にいた彼に、どうしてその時助けを求める事ができなかったのだろう。
恐れながらも自分は好んで囚われたのだ。
その囁き声の魔術に、抗えなかったのではない。その声が心地良かったのだ。
耳を擽る愛撫にも似た囁きが、身体の奥に潜む熱を煽り、自らの中に生じた熱に、抗う事ができなかった。
くつくつと密やかな笑い声をたてて、手に落ちた獲物をやんわりと絡めとる腕に、ざわりと背が震える。
そうして憧れ焦がれた日の光を目にしながらも、自分は愛しさなど微塵も感じぬ手に身を委ねたのだ。
闇に棲む自分が呪わしい。
汚れたこの身が呪わしい。
あれから彼はどうしただろうか。
急に姿の見えなくなった自分を心配して探しただろうか。
いや、そのような事のあろうはずがない。用意周到なこの人の事だ。
随人にただ一言、伝言を残せばよい。
「賀茂殿は、急ぎの用伝にて、緒方様の屋敷へ参られました。」と。
(4)
そうして今日も緒方の迎えの牛車が屋敷の門に着く気配を感じる。
物忌みの方違えの場に陰陽師を呼ぶことに、何の不思議もないだろう。
明は衣を脱ぎ捨て、下袴一枚で屋敷の裏手の井戸端へ向かう。
そして井戸から汲み上げた水を頭から浴びせかけた。
水の冷たさに、身が凍るように思う。
これからまたこの身を汚しにゆくのに、ここで清めの水を浴びる事など何の意味があろう。
明は自らを嘲笑うように口元を歪せる。
そして身体を拭いて部屋に戻り、式神に手伝わせながら身支度を整える。
「賀茂殿、」
門の外から呼ぶ声が聞こえる。
「ただ今、参ります。」
応えながら、「いや、おまえは来る必要はない。」と、当然のように付き従おうとする式神を、押しとどめた。
「賀茂殿、」
再度、声がかけられる。
最初に声をかけるかなり前から、自分が呼ばれずとも出て行くのを待っていたのだろう。
呼び声の焦れた響きに、明は小さく嗤い、そして涼やかな声で返事をして彼は立ち上がった。
一人、屋敷の門を出た明はひやりとした外気に小さく身体を震わせる。
そして顔を上げ、天空の冴えた白い月を一瞬仰ぎ見てから、彼は待たせていた牛車に乗り込んだ。
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