Happy Little Wedding 1 - 4
(1)
「やっぱりこの辺りは、空気が美味しいわねぇ」
「東京とは全然違いますねー」
列車から降りるなり、明子夫人と芦原が嬉しそうに声を上げた。
高原の避暑地。
初夏の午前中の空気はまだ肌寒いくらいだが、空は青く晴れ渡っている。
午後は少し汗ばむくらいになりそうだと緒方は思った。
「ほら、アキラも深呼吸してみろよ。美味いぞーっ。目なんか覚めちゃうぞぅ」
「ウ・・・ン」
アキラは自分の体の3分の2ほどもある大きなクマのぬいぐるみを両腕で抱きながら、
まだポーッとしている。
後から降りてきた父塔矢行洋が、小さな肩に後ろからぽんと大きな両手を載せてやると、
アキラは安心したように腕の中のクマごと、くたっと背後の父に凭れかかった。
そんな父子に向けて緒方がカメラを向けると、師匠が気づいてゆったりと微笑む。
アキラは父親に寄り掛かって眠そうにしている。
シャッターを切ると同時に発車ベルが響き、今まで数時間を過ごした列車の自動扉が閉じて
ゴトンゴトンと動き出した。
これから約一日半、この地で過ごすのだ。
煩雑な仕事は極力受けない主義の師匠が、学生時代の恩師ゆかりの依頼だとかで
珍しく地方での講演会を引き受けることになった。
それがちょうど週末に当たっていたことから、夫人とアキラと、
門下生の中でも若輩の緒方・芦原を引き連れての小旅行が計画されたのだった。
「アキラさん、まだおねむ?朝は茹で卵しか食べていないんだもの、お腹空いてるでしょう」
「ン・・・ボク大丈夫だよ・・・」
アキラは昨夜、明日はりょこうに行くという興奮のため遅くまで寝つけなかったらしい。
加えて早朝の出立だったため、眠さのあまり自宅での朝食もほとんど取れなかったという。
列車の中では終始クマのぬいぐるみに抱きついたまま、大人の膝に縋って眠りこけていた。
(2)
「これからどうするんっすか?」
高原の空気と同じくらい爽やかな声で芦原が言った。
声変わりが始まってもその声音は相変わらず弾むように明るい。
緒方が小学生の頃、音楽教師に「頬骨を上げて明るい顔で歌いましょう、
そうすれば自然と明るい声が出る」と注意されたことがあった。
その理屈で行けば、いつもニコニコ楽しそうにしている芦原から
その表情にぴったりの朗らかな声が出るのは、全くもって道理というものだ。
――何故そんなことをしたくなるのか自分でも分からなかったが、
緒方は芦原から目を逸らし遠くの山を見た。
芦原に負けず劣らず、いつも柔らかな微笑みを湛えている明子夫人が答えた。
「まず宿で荷物を置いて、それから少し早いけれど主人と私はお昼にするわ。
午後になったらすぐ会場へ向かわなきゃならないものだから。
アキラさんもその時一緒に食べさせてしまおうと思っているんだけれど、
緒方さんと芦原さんはどうなさる?ペンションの昼食は11時から2時半までの間なら
融通が効くらしいから、若い人たちは今は軽食だけにして、後でちゃんとお昼を
摂っていただいたほうがいいのかしら・・・」
「や、オレもう入りますっ。朝メシが早かったですし」
「あら、そう?緒方さんはどうなさる?」
正直な所、午前中はあまり食欲が出ない質である。
だから昼食ももう少し後のほうが有り難いのだが、どうせこれから食卓のある所へ行くのに
後で改めて一人で昼食を摂るというのも二度手間のようで面倒だった。
(3)
「オレも、先生たちと一緒でいいです」
「そう?それじゃ五人分、今から電話でお願いしちゃうわね。
アキラさん、そこねぇ、とっても美味しい苺のアイスクリームもあるんですって」
「いちごのアイス・・・」
「そう。だからちゃあんと目が覚めて、ご飯をたくさん食べられたら、
デザートに頼みましょうね」
さすが母親は我が子の扱いに慣れている。
眠そうに開いたり閉じたりを繰り返していたアキラの目が、急にキラキラキラと輝き出した。
「うんっ、ボク、たくさん食べる!」
アキラの母である人は、息子の反応にニッコリと頷いて電話を探しに去っていった。
宿からの送迎バスを待つ間も、アキラはずっとクマのぬいぐるみを抱きしめながら
その耳元に向かって何やら囁いていた。
内緒話のつもりなのだろうと思って、気づかれないように耳を澄ますと、
「いちごのアイスだって〜。おいしそうだねぇ?・・・」
と聞こえる。
もともと動物好きで、動物の形をした人形や菓子などにも深く思い入れる質の子供だった
アキラだが、去年の冬に師匠が買い与えたそのぬいぐるみは特にお気に入りおもちゃの
殿堂入りを果たしたらしく、最近では見るたびにそれを抱いていた。
単純に今まで持っていた中で一番大きなぬいぐるみを買ってもらって嬉しかったということも
あるのだろうが、どうやらそれだけではない。
(4)
明子夫人が困ったように打ち明けた事情によれば、四月に幼稚園の組替えがあってからずっと
アキラは他の子供たちと馴染めず、いじめとまではいかないまでも仲間外れのような状況に
立たされているらしい。
いったん異物と見做した者に対する子供の残酷さは、緒方もよく知っていた。
近頃では、幼稚園へ行っても朝から帰りまで一言も他の子供から口を利いてもらえずに
しょんぼりと帰ってくることすらあるという。
アキラがクマのぬいぐるみを片時も離さない背景には、そんな寂しさがあるのかもしれなかった。
――詳しい事情は知らないが、去年の秋頃にはアキラが幼稚園で色々なことを覚えてくると、
夫人がころころ笑いながら語っていたくらいだったのに。
緒方は何となくアキラの横に移動して、寄り添うように立った。
その気配を察したアキラが、振り向く代わりにピタッと秘密のおしゃべりをやめて、
もじもじとクマのぬいぐるみを抱え直す。
最近緒方が忙しくなってあまり話せない時期が続いたせいもあるのか、
今日のアキラは少しこちらの出方を窺うような、緊張した雰囲気を漂わせている。
久しぶりに会ったら喜んで駆け寄ってくるかと思っていたが、
睡眠不足のアキラは道中ずっと目を閉じて、小さな寝息を立てていた。
「アキラくん」
「ン・・・?なに」
真っ直ぐに切り揃えられた素直な髪の向こうで、アキラの小さな手が緊張を誤魔化すように
クマの手をいじっている。
「・・・昼メシ食ったら、いっぱい遊ぼうな」
膝の先でちょっと突付きながらそう言ってやると、アキラは今日初めて緒方を振り向き、
はにかむような笑顔で「いいよぉー、」と答えた。
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