覆水 1 - 4
(1)
対局を終えた緒方は、検討の後インタビューを受けていた。
塔矢行洋の引退後、実力棋士としての地位を着実に固めている緒方であるが、その反面生活は
窮屈になって来ている。
今日のインタビューも『囲碁界新進気鋭の棋士』として、一般誌に写真入りで紹介されるらしい。
囲碁ファンなら、緒方はすでに実力のある中堅棋士だと知っているのであろうが、一般の人間は
タイトルを取って初めてその棋士の存在を認知するのである。
二冠を取った時に新聞でそれなりに大きく報じられたお陰で、一般にもかなり顔が知られて来て
いた。それだけに外でうかつな事は出来ない。
───新進気鋭というのならアキラ君や進藤の方が相応しいだろうに・・・・・。
そう思いながら、囲碁に詳しくない記者を相手に笑顔で質問に応じていた。
小一時間のインタビューを終えると、囲碁雑誌の記者が打ち合わせにやって来た。
『二冠のアドバイス』というコーナーを雑誌の中で持っているからである。自分で文章を書く
わけではないが、囲碁に関する質問に答えたり、色々な対局の解説をしているのである。
次の雑誌の内容に関する打ち合わせは15分程で終わった。
エレベーターで1階に下りて、駐車場に向かう。歩きながらラークを取り出して火を点ける。
深く吸い込んで、溜息と一緒に煙を吐き出す。
不運にも禁煙室でインタビューを受けていたので、対局後初めての一服である。
───勝った後の一服はセックスの後の一服と同じくらい旨いな。
そう思いながら緒方は自嘲の笑いを浮かべる。
───だが、あの時の一服は不味かった・・・
(2)
車のキーを出しながらRX−7に近づくと、後ろから
「緒方さん!」
と言う声がする。
久しぶりに聞くハスキーな声に、驚いて振り向く。
「アキラ君・・・・」
驚いて動きが止まってしまった緒方に
「お久しぶりです、緒方さん」
とアキラは笑顔でお辞儀をする。
「ああ、そうだな。・・・・・・」
そう言ったままアキラらから視線をそらせた緒方に
「ちょっと良いですか?」
とアキラは遠慮がちに聞く。
「ああ、・・・・・・家まで送って行くから車に乗りなさい」
そう言いながらアキラの方をチラリと見やる。
躊躇しているアキラに
「何もしやしないから」
と苦笑しながら声をかける。
「あ、いえ、そんな・・・・。でも何かご予定があるのではないのですか?」
「いや、無いさ。二冠棋士は孤独なんでね、フッフッフ」
そう言うと、促すように助手席のドアを開けて自分は運転席に向かった。
(3)
アキラは助手席に座るとすぐにシートベルトをする。緒方がキーを回すと懐かしい
エンジン音が響きわたる。
───いつ以来だろう、緒方さんの車に乗るのは・・・・
そう思いながら、横に居る緒方を目だけで見る。
どことなく緊張しているように見えるが、白いスーツに身を包んだ緒方は相変わらず大人の
雰囲気を漂わせていてドキリとする。ギアーを握る手は大きくて力強いのだが、棋士らしく
指先は細長くて、しなやかな動きをする。
アキラが黙っていると、緒方から話し掛けてきた。
「今日はなんだい?」
「え?だって、今日は緒方さんのお誕生日でしょ?」
一瞬の間があってから
「あぁ、そうだったな。対局があったから忘れていたよ」
そう緒方は答える。
本当に、この瞬間まで緒方は誕生日の事を忘れていたのである。2日前に芦原が、17日は地方に
行かなくてはいけないから、と言ってプレゼントを持って来てくれた。その時は誕生日の事を
覚えていたのだが、今日はすっかり忘れていた。
「去年までは、ボクの家で皆とお祝いをしてたじゃないですか」
そう言ってアキラは横を向いて緒方を見つめる。
「だから、今日はプレゼントを渡そうと思って・・・・」
アキラはバッグの中からリボンが掛けられた小さい箱を取り出す。
「・・・・・・・」
何も言わない緒方を横目で見ながら、アキラは黙ってプレゼントをダッシュボードの中に入れた。
緒方のダッシュボードには、殆ど何も入っていない事を知っているのである。
(4)
車の中を気まずい沈黙が流れる。
アキラの家の方向に走っていた車であったが、いきなり大きな公園の駐車場に続く車道の横道に
入って止った。ブレーキをかける音が必要以上に大きく響く。
2人の沈黙はさらに続く。
ハンドルに手をかけて、前かがみになっていた緒方がアキラの方を振り返る。
アキラは緊張のあまり微動だに出来ないで居る。黒い大きな瞳だけが緒方を睨んでいる。
そのアキラの非難するような目を緒方は睨み返す。
次の瞬間緒方はアキラから数センチの所まで顔を近づけて来て瞳を合わせる。片方の手は助手席の
窓枠に置かれ、もう片方の手は助手席の背もたれの後ろに回されて、アキラを包み込む形になって
いる。アキラの凛とした瞳の中に、緒方の色素の薄い瞳が映る。そして2人の息が口元で交差する。
アキラは、緒方の服に染み込んだタバコの匂いをほのかに感じる事で記憶が蘇り、心臓が高鳴るのを
抑えることが出来ない。
暫くそうやって睨み合っていたが、緒方が根負けする形で声を出した。
「なぜオレの所に来たりしたんだ」
そう言いながら顔を離す。
「緒方さん・・・・・・」
「もう二度とプレゼントなんか持ってくるんじゃない、いいな」
そう言うと勢い良く車を発進させる。
それからアキラの家に着くまでの間、2人は一言も喋らなかった。
家の前で車を止めると、緒方は目で車から早く出るように促す。
アキラはドアを開けて外に出ると、緒方を振り返り、改めて緒方に言う。
「緒方さん。お誕生日おめでとうございます」
緒方は、ちょっと照れたように片手を上げてそれに答えると、ギアーを入れて走り去って行った。
完
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