月の船 1 - 4
(1)
如月の闇濃い寒空の下に、人は一時の魂の休息におちいる。
命あるものは束の間の眠りにおち、ゆるやかに流れゆく刻に身をゆだね、
明日の夢を心に描く。今宵の月は三日月。陽の落ちた夕闇の橙色の一部が
置き忘れたかのように三日月の上に鮮やかに滲む。
賀茂明は宇治の枯野の夜道、1人で月を眺めている。名のある貴族からの内密
の依頼で宇治に来ていた。宇治は侘びしく寒々とした山里の地だが明は
好きであった。何処からともなく耳にかかる河の柔らかな水音も心地よい。
体の芯まで冷え込むような凍てつく寒さではあるが、一際目をひく三日月
に思わず明は見とれる。
「今宵のような見事な美しい月を例えるなら、それは果てることない夜空の
大海原に あてどもなく彷徨う船・・・。
そう今宵の月は月の船≠フ如く・・・。
―――天の海に雲の波立ち月の船 星の林に漕ぎ隠る見ゆ」
その時、一陣の風が宇治の野に吹き荒れた。それは明の心も身も一瞬に
して凍えさせた。
「・・・このような夜は孤独の痛みが いつも以上に我が身に沁みる・・・」
「御方様、何か申されましたか?」
明の側に何か蠢く者がいる。紫の瞳を闇に光らせ、銀の毛皮を纏う4本尾
の獣の容貌を持つ明の式神であった。
「いや、何でもない。──銀夜叉よ、敵の居場所を突き止めたのか?」
「はい、あちらは強力な火の要素をもつ結界が張り巡らされていましたが、
我らに恐るべきものではありませぬ」
「そうか。では銀夜叉よ、これから敵の本陣に乗り込み、一気に結界を
破るぞ。ついて来い!」
「御意」
明は銀色の毛を纏う式神に跨る。その途端、一瞬にして金色の炎が明と
式神を包む。そして炎が消えた後には、人影の姿は一切見当たらなかった。
深閑とした枯れ野に残るものは、微かに聞こえる河のせせらぎ。
そして漆黒の闇の中に煌々と静かに輝く月だけであった。
(2)
《孤独な陰陽師》
内密の指令は 苦もなく すぐ片付いた。
明は夜明けとともに任務の依頼を受けた貴族に事の結末を筆にしたため
て、すぐ文を出す。
そして自分の館に戻るため、朝日が顔を出すとともに牛車に乗る。
本当は式神の1人である銀夜叉に跨れば宇治から都までは一飛びなのだ
が、出来るだけ普通の人間らしく振舞おうとする明は牛車で帰る方法を
選択した。
異質な者との付き合いや、また その環境に長く身を置くと世間の常識が
分からなくなる事があるためである。
帰り道の途中、朝早くから畑で農民達が息を白く吐きながら歌い、畑仕事
に精を出している。その農民の中の1人の女は背中に幼子をくくりつけな
がら農作業をしていた。女を見ると まだ年若いが、子をあやす姿は母親
の役目を よく理解し、母性が滲み出ている。背中におぶさっている子は、
満ち足りた幸せそうな表情をしている。
明の耳に その女の子守唄が届いた。
明は母を知らない。母どころか父も兄弟の話を聞いた事がない。
物心ついた時には、すでに陰陽道の修行に身を投じていた。
明は知識は並外れ長けて豊かだが、どこか無機質で人間らしさが感じられ
ない雰囲気を醸し出すところがある。それは幼少時の育った土壌が原因で
あるのは明白なのだが、人と相容れなく、交わるのが苦手な明は常に冷淡
な印象を人に与えた。
(3)
一般的に人は親の愛情に触れて愛するという感情を覚えていくものだが、
明には その肝心な過程を得られなかった。
それは すなわち情を知らない事になる。情に触れることが少なかった
者は、人間関係に やや不器用なところがあるのが多い傾向にある。
明は愛情には関心がなく、自分には縁のないものと思っている節がある。
男と女は成長して成人になると自然の法則に習い、結ばれて子を成し、
血脈を絶やすことなく新たな命を この世に生み出す。
生きとし生ける者達のごく自然の道理の輪から逸脱している自分を以前
は特に何も感じなかった。
でも、今は違う。
もう二年も前のことになるが、都に多くの妖怪が現れて、近衛などの
多くの人達で命がけで妖怪討伐した時から自分の中の何かが変わりだし
た。あの時、初めて人の情に直に触れた。
近衛に自分の手を握られた出来事は、昨日の事のように今でも その情景
が鮮やかに脳裏に甦る。
明は賀茂一族から異端視されて、人の手ではなく幼い頃から式神達の手で
育てられた。だから、人の肌の暖かさを知らずに十年以上も生きてきた
経緯がある。
近衛の柔らかく暖かな手の感触は、明に大きな衝撃を与えた。
他人と一線を置いてきた明は、その時 初めて人と触れ合って生きていき
たいという人間として当たり前な感情が湧いた。暖かな手は、明の身の上
を改めて孤独なのだと心身に痛感させ、また自分の本心に気付く結果と
なった。
(4)
自分は愛情を最初から望んでいないのではなく、自分には縁の無いものと
諦めていたという事を―――。
心奥片隅で そんな自分を寂しい人間だと思ったりもする。
明は そんな自分自身をよく自覚していた。
──では、幸せとは どういうものだろうか。
明の思考は いつもそこにたどり着き、そこで止まる。いつまでも答えの
出せない問いに、暗澹とした気分になる。
牛車は、山里・宇治から平安京へと長く続く路を ゆっくり向かう。
都に着いたのは、すでに陽が傾き雲が桃色に染まり、茜色が空を埋め尽く
している時刻だった。
「賀茂様、館に着きました」
従者の声と同時に牛車は明の館に着き、敷地内で止まった。
「・・・ご苦労であった」
牛車と従者は、主人である依頼元の貴族の館へと帰っていった。
明の館は装飾少なく質素な造りで、寝食住さえ出来れば構わないという
館の主の趣向を見事に表している。また、敷地内には、これまた花々の
咲く木々など一つもなく、松などの針葉樹だけの殺風景な庭園であった。
平安時代の高貴な人々は、館や造園をお互い競って手にかけ、色艶やかな
四季の移ろいを上手く取り入れて優雅な王朝文化を築いた。
それらは、主の心模様を映し出しているといっても過言ではない。
花の一つも無い寂しげな庭園・質素な館は、明の心そのものを投影して
いるのかも知れない。以前は式神達を館の中に自由にさせていたが、今は
必要な時だけ呼ぶようにしている。なので、館には明が独りで住んでいる。
誰も自分を待つことのない館を改めて見ると、やりきれない感情が込み
上げてくるのを感じた。
内心 荒波の如く飛沫を上げうね狂う心を無理やり隅に追いやり、
無表情で つとめて冷静に明は振舞う。そんな部分も長年に渡って形成
された心の有様である。
そんな自分を また改めて愚かだと明は思う。
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