陽光の碑 1 - 4
(1)
頬を撫でる風からいつしかようやく刺々しい冷たさが消えていた。
バルコニ−で煙草を吹かす習慣にもようやく慣れた。慣れたくはなかったが。
自分の稼いだ金で得た城のどの場所で何をしようが勝手だと最初の頃は
突っ張って見せたが、アキラと、元々煙草の匂いが苦手な進藤に何度となく説教されて
そのうち意地を通すのが面倒になってしまった。
今は城の一番の権威者は、ベビーベッドに眠る小さな新しい命でありオレではなかったのだ。
以前住んでいたマンションからさほど離れていないところに結婚後の新居を構えた。
妻と子供と3人での新しい生活は、やはりさほど経たない内に何かにつけて妻が実家に
戻るようになり、そして最近では季節の衣服の入れ替え時期頃にしか帰って来なくなった。
その原因の多くはオレにあるのだろうが、その改善方法を考えるのももう面倒になっていた。
そして妻に代わってあいつらが――今日も何やら部屋の中を好き勝手に引っ掻き回して
いるようだが、進藤とアキラが足しげくこの部屋に通ようになった。
「わーっ、塔矢!ちいちゃん、ウンコしてるっ!」
自分の息子には結構凝った大層な名前をつけてやったはずなのだが、進藤が
「漢字が難しくて可愛くない」と勝手に「ちいちゃん」と呼んでいる。小さいという意味の
つもりらしい。
「だめだよ進藤!抱いておかないとそのまま歩き回るっ!!タオルにくるんで…」
「わーっ、だあーっ!□×☆△!!」
背後の窓ガラスの向こう側のリビングで繰り広げられているであろう修羅場を想像するのは止めて、
ひたすら眼下の日光に照らされた家々の光る屋根々を眺めてぽかりと煙を吐く。
「…平和だな」
(2)
トレーナーを汚されて、それをアキラが洗濯する間オレのYシャツを袖を折って
はおりながらも、進藤はにこにこしながらオレの愛児をその胸に抱き上げ、あやしてくれている。
赤ん坊の方も進藤が頬擦りをしたり指で胸や腹をくすぐられて機嫌良く笑い声のようなものを立てる。
「…そこまで進藤が子供好きとは思わなかったな」
「そお?だってオレ、弟が欲しくてたまらなかったんだ。そしたら碁を教えて、いつも2人で
打てるじゃん。…こいつも打つようになるかな。なるよね、緒方先生の子供だもん。
ねえ、オレが教えてもいいよね」
お前達を、後から追い上げる脅威者をオレは欲したのだ。そんな本音を隠して
「せいぜい強い碁を叩き込んでやってくれ」
と進藤に頭を下げてそう頼むと、進藤はウィンクをして片手を握り親指を立てた。
「だめだよ、進藤。まだちいちゃんに碁石を握らせたら…危ないから」
アキラがキッチンからトレーに3人分のコーヒーと1本のほ乳瓶を乗せて運んで来た。
進藤がそのほ乳瓶に手を伸ばすとすかさずアキラが腕を引いて避けた。
「なんだよ、塔矢」
「だって、この前もちいちゃんに飲ませる前に進藤が大半飲んじゃったから…」
「味見だろ。そんなに飲んでないよ。それに、温度が適当かどうか確かめないと」
「ちゃんと確認したよ。それに消毒してあるから、進藤は触っちゃダメ」
「オレは雑菌かよ…」
2人の会話の間、赤ん坊は泣きもせずじっと2人の顔を見比べている。
2人の表情や声をもう聞き分けているのかもしれない。
アキラはトレーを床に置くと正座して、むくれている進藤から赤ん坊を受け取って、もう一度
ほ乳瓶を自分の頬にあてがって温度を確かめてからその乳首を赤ん坊の口元に持って行く。
赤ん坊はすぐに両手でほ乳瓶を抱き、濡れた小さな唇を必死に動かしミルクを飲み始めた。
違和感の無い、何とも不思議な光景だった。
「…いつも思うけど、手慣れているなあ、塔矢」
つくづく感心するように進藤が呟く。
「特訓したからね。育児の本とか読んで」
アキラは当然のことのように答えた。
(3)
結婚の直後からオレ達夫婦の関係がどこか不自然なのは元名人夫妻にはすぐに
感じる所があったらしい。だが結局オレが何も言わない以上、夫妻も何か口を出して
来るような事は一切なかった。ただそれとなくアキラにはオレの様子を報告させているらしい。
もっとも、夫妻が気にしてるのはあくまで赤ん坊の事だけだろうが。
アキラも最初の頃はこの新居に来るのを遠慮しているところがあった。が、
「緒方先生の赤ちゃんを見に行こう」
と進藤に引っ張られて来た。アキラ1人で訪ねて来る事は、なかった。
出産の当時こそ、オレの妻となった彼女はアキラに対しささやかな優越感を抱いたようだった。
だがそんなものに何の価値もない事に、手に入ればオレという男がそれ程誰かと奪い合う
ほどのものでもなかった事にようやく気付いたというところだろう。
皮肉な事に父親に全く似ないで生まれた事で父親の愛情を得られなかった者もいれば、
父親に似過ぎた事で母親の愛情を得られないでいる者もいると言う事らしかった。
実生活の底冷えとは対照的に、棋士としてのスケジュールは過密になっていた。
赤ん坊の世話を心配する声も聞こえたが、無視した。何とかなるものだと思っていた。
金さえ出せば預けられるところはいくらでもある。今までのところそうした事はないが。
「ねえ、ちいちゃんを散歩に連れてってもいい?いいお天気だしさあ」
オレではなく進藤はアキラに承諾を得ようとする。
「そうだね…温かくなったし。緒方さん、いいですか?」
「構わんよ。…オレも行く」
高層マンションの周囲は、広く公園や緑が覆い季節毎に手入れの行き届いた多くの花壇で
多様な季節の花を咲かせた。
久々の温かな陽光に誘われて家族連れや若いカップルが散歩を楽しんでいた。
(4)
彼等には男3人でベビーカーを囲んで歩くオレ達の姿は少しばかり
異色なものに移ったかもしれない。
進藤かアキラのどちらかを赤ん坊の母親と思い込んで話し掛けてくる老婦人もいた。
アキラだと直ぐに苦笑いで訂正するのだが、進藤は時々ふざけて母親を演じることがあった。
大抵の相手は、ベビーカーの中にいる赤ん坊の容姿を見て驚き賞賛の言葉を添えた。
「まるで外国のお人形さんみたい」というのが大半だった。
その時に赤ん坊と自分の顔を見比べられて妙に納得されるのがオレが気に入らない事を知っている
アキラはともかく、進藤はまるでそれが自分の事のように嬉しく感じるらしかった。
「ちいちゃん、女の子だったら良かったのになあ。そしたらオレ…」
「そしたら?何だって?進藤」
軽く睨まれるようにアキラに聞き返されて、進藤は「へへへ」と笑って誤魔化した。
人同士の交わりに男女の差など関係ない事をわかりきっているはずのオレ達だけに、暫くそれぞれ
黙り込んだ。
「男の子でも女の子でも関係なく、オレはちいちゃんを大事にする。守る。約束する」
そう言って進藤はベビーカーから赤ん坊を抱き上げて空に高くかざした。
誰かに誓うように。
風に金色に近い柔らかな巻き毛を揺らせて赤ん坊が嬉しそうに笑った。
有能なベビーシッターらに、果たしてこの先どのくらい報酬を支払うハメになるかは
わからなかったが、こうして3人――いや、4人で過ごす時間が、少しずつ
何よりも価値あるものに、
…おそらく、かつての自分とアキラとの関係のように、
将来それが地獄にも近い苦しみを生み出す可能性を孕んでいるとしても、
ただこの瞬間を、季節を、今はただ大切にしたかった。 〈了〉
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