追想 1 - 4


(1)
「あったけー……じーちゃん遅いな〜、何やってるんだよ……」
「ヒカル、まだ二分程しか経ってませんよ」
「そーだっけ? ん、ふぁああ……う〜〜眠ぃ……」
「昨日の晩は少し夜更かしし過ぎましたね」
「んー……そう……か、も……」
「ヒカル? 寝ちゃだめですよ、ヒカル、ヒカルってば!」
私が声を掛けても、ヒカルは目を軽く擦っただけで、小さく何か呟いた後には規則正し
い寝息だけ。
春の陽気は、肉体のない私には感じられなかったけれど、ヒカルがあんまり気持ち良さ
そうな顔をしているので、その心地良さだけは私にもふんわりと染み込んできました。
くぅくぅと小さな寝息を立てて眠るその寝顔にはまだ幼さが残っていて、プロへの階段
を上りはじめたヒカルとはまた違った一面がそこにあって。
常に傍にいた私にしてみれば、こういう穏やかな顔のヒカルの方が馴染み深かったので、
なんだかほっとしたんです。
プロを目指してからのヒカルは前を真直ぐ見つめるだけで、その目は真摯に塔矢アキラ
に、そして囲碁に向けられていて……正直、私が想像していたよりずっと彼は向上心を
持って、それに向けて努力のできる子供だったので、戸惑いや驚きさえありました。
初めてヒカルに会った頃は碁を小遣い稼ぎの道具か何かの様に言って……、今のヒカル
に言ったら彼自身も塔矢アキラの様に激昂するでしょうに、ねぇ。


(2)
時に適切ではない言葉遣いには少し思う所がありましたけど、それでもヒカルは根は素
直で心の優しい少年でした。
虎次郎のように、それが素直に言葉に表れないのがヒカルの悪い所、……というよりも
損をしている所なんですけど。
言葉が足りないのと、恥ずかしさと。
でも、気持ちが伝わるのならば、あるいは言葉など不必要なのかも知れませんね。
ふと、ヒカルが小さなくしゃみをして。
「ああ、やっぱり。まだ春分を過ぎたばかりなんですから……こんな所で寝ていては風
邪をひきますよ、ヒカル、ヒカル……」
何度か、声を掛けて。
この身が、口惜しくなりました。
私に身体があれば、ヒカルに何か温かいものを羽織らせてやる事も出来るだろうに。
わざわざ起こさなくても、このあどけない寝顔を、春の暖かな日射しの中で見守る事が
出来るだろうに。
奥の部屋から出て来たヒカルのじーちゃんが、苦笑いをして戻っていくと、柔らかな毛
布を持って、それをヒカルに掛けてやりました。
ヒカルは無意識にそれを手繰り寄せて丸まって……、子犬のように鼻をくすんくすんと
鳴らせた後、小さく呟いたんです、さい……、って。
じーちゃんは気付かなかったみたいですけど、そう言った後嬉しそうに微笑んだヒカル
を見て、まだまだ子供だなぁ、って言いながら髪を撫でていましたよ。
その姿を見ていて、そこに立ってヒカルの髪を撫でているのが自分だったらどんなに良
かったかと、そう思ったんです。


(3)
ねぇ、ヒカル。
これは秘め事だから、あなたには伝えないけれど。
私はね、あなたに恋慕の情を抱いていたんです。
ほんの小さな子供としてあなたに会った頃には、考えもしなかった事です。
いや、違いますね……子供とかそういう事は関係なく、私が誰か特定の人物に思いを寄
せる事自体が大きな驚きでした。
私は肉体を無くした時に、囲碁に対する情熱以外を一切無くした様な気がしていました
から。
虎次郎は、私に囲碁を打たせてくれました。
本人が碁打ちになりたいと思っていたにも関わらず、です。
だからヒカルに出会った時は、正直神様を恨みました。
でも、碁に興味すらなかったヒカルが、徐々にその面白さを知って、逆に真剣に取り組
むようになってからは、私もそんなヒカルの成長を見守りたいと、切に願いました。
けれど、私は、……私もやはり、打ちたかった。
ヒカルの成長が自分の碁に繋がるのだなどと、どこにも保証はなかったのに。
打ちたいと思ったヒカルの気持ちを優先させた時点で、私は気付くべきだったんです。
ヒカルと私は、共に居られないと云う事に。
このところ時々思うんです、もしかして私は虎次郎の気持ちなど全く分かっていなかっ
たのではないか。彼の人生の大切な時間を自分の為に費やさせてしまったのではないか
と。
碁打ちとして、自分が打ちたいと思うのはあくまで自然な事。
ヒカルに言われて初めて気付くなんて、本当に私は自分の事しか考えていなかったんで
すね。


(4)
私は、ヒカルの時間まで奪いたいとは思いません。
ヒカルは、私に人として大切な感情──愛情と云うものを思い出させてくれた。
碁より大切かと問われれば、それはまだ分かりません。
ただ、虎次郎に感じていた親近感とは完全に異なっている事だけは分かっています。
私は、ヒカルの事を誰よりも愛おしく思っているのです。
あなたに伝えてしまったら、あなたはきっととても困った顔をするんでしょうね。
だから、これは私だけの秘め事なんです。
この大切な思いを抱えて、私はいきます。
あなたの成長をこれからも見守っていたかった気持ちもあるけれど、この感情を抱えた
ままあなたの傍にいて、あなたを苦しめてしまうような事があるのならば、私はその方
が苦しい。
私が居なくなったら、優しいあなたは悲しんでくれるかも知れないけれど。
きっと大丈夫だと信じています。
あなたは強い子ですから。

ああ、そうだ、ヒカル。
ヒカル。
ねぇ、ヒカル。
あれ?
私の声とどいてる?
ヒカル
楽しか──────


<<了>>



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