兄貴vsマツゲ? 1 - 5
(1)
フゴー、フゴー。
自宅マンションの椅子からずり落ちそうになりながら仮眠を取っていた緒方の耳に突然、
携帯の着信音が飛び込んできた。
はっとしてヨダレを拭い、携帯画面に表示された名前を確かめる。
慌てて咳払いをして喉の調子を整え、いつも通りのニヒルな声が出るのを確認してから
通話ボタンを押した。
「・・・もしもし」
「もしもし・・・もしもしっ?あ、緒方さん!良かった・・・!アキラです。あの、今大丈夫ですか?」
「キミが自分から掛けてくるなんて珍しいな。何か用でも?」
「ええとその、進藤に掛けようかとも思ったんですけど緒方さんのほうがこういうことは
慣れていそうだから・・・ボク一人じゃどうしたらいいかわからなくて、・・・あっ来た、
・・・違う、この電話は・・・落ち着いて、話せばわかる。話をしよう・・・離してくれ。離せ。
・・・だから離せと言っているのがわからないのかっ!ふざけるなぁぁっ!」
「アキラくん、どうした!誰か一緒なのか?今どこにいる!」
「ここはっ・・・」
パキッという音と共に電話の向こうの声が急に遠くなったのは、アキラが揉み合っている
相手に携帯を奪い取られたらしかった。
それでも辛うじて名前を聞き取れた有名ホテル目指して、緒方はヨダレ跡を消すのも
そこそこに愛車RX-7を飛ばした。
(2)
「アキラくん、無事か!?」
教えられたルームナンバーのドアをバァン!と開けて映画のように中に飛び込むと、
豪華な内装にひとけのない静かな部屋が緒方を迎えた。
(ア、アキラくんは・・・!?ん、そう言えば何故ドアに鍵が掛かっていなかったんだ!?)
動揺してキョロキョロ目を走らせていると右手からフンッと鼻を鳴らすような音が聞こえた。
振り向くとそこには、一瞬人形と見紛うほど整った美貌の長身の人物が、長い茶色の髪を
掻きあげながら壁に凭れてこの闖入者に冷めた視線を向けていた。
そのあまりに素人離れしたキラキラしい存在感に緒方はしばし圧倒されて立ち尽くしたが、
すぐここへ来た目的を思い出すと、対抗するようにぐっと胸を張りドスの効いた声で詰問した。
「オマエは誰だ。塔矢アキラがここに来ているはずだ。彼をどこへやった」
凄んでみせる闖入者の口元に昼寝の名残りの白い跡が残っているのを見て長身の人物は
軽蔑するように形の良い唇の端を上げ、壁に凭れたまま端麗な顔を斜め後ろに向けて、
何事か呼びかけながら傍らにあるバスルームの扉をコンコンと叩いた。
(なんだ?今の言葉・・・外国人か?)
バスルームの扉の向こうからカチャリと鍵の外れる音がして、見慣れた艶やかな黒髪の少年が
顔を覗かせた。
「アキラくん!無事だったか」
「緒方さん。来てくださったんですね・・・!」
安堵の笑みを浮かべかけたアキラだったが緒方の顔を見るとふと真顔になり、扉をパタンと
閉めてもう一度バスルームに引っ込んでしまった。
「ア、アキラくん?・・・アキラくん!?」
(3)
アキラくん・・・っ!と膝をついて扉に縋りつく緒方を見下ろしながら長身の人物が笑った。
「〔おいアンタ、塔矢に嫌われたらしいな〕」
「・・・あぁ?何を言ってるんだかわからないぜ、茶髪のボウヤ」
「〔昼間からヨダレの跡ベッタリじゃ無理もない。アンタも棋士か。日本囲碁界のレベルも
知れたもんだな〕」
言葉の意味はわからなかったが口調と表情で馬鹿にされている雰囲気は十分伝わってくる。
相手が女のように綺麗な顔をしている分、余計に腹が立った。
「オマエ、やる気か・・・女みたいな睫毛しやがって。よっぽど火傷がしたいと見える」
「〔なんだ、やるのか?言っておくがオレは強いぜ。碁を始めたのと同じ年から韓国古武術に
親しんで、段位も持っている。まあここでアンタをぶちのめしたら、塔矢もオレを見直すかな?〕」
異文化コミュニケーションはハート・トゥ・ハートとはよく言ったものだ。
言葉は通じなくても互いの気持ちが手に取るようにわかった。
間合いを測り、今にもどちらかがどちらかの胸ぐらを掴みあげてもおかしくない空気となった
時、カチャリと音がしてアキラがバスルームから出てきた。手に、濡らした白いハンカチを
持っている。
「アキラくん!」
「あ、少しじっとしててください」
緒方の顎に手を添えグキッと自分のほうを向かせると、アキラは緒方の口元のカパカパに
乾いた白い跡をハンカチで丁寧に拭った。
「なんだ?アキラくん」
まだ殴り合いもしていないし血もついていないはずだが・・・と思いながら緒方は言った。
ハンカチを動かしながらアキラが口ごもる。
「・・・ええと・・・煤?・・・そう、煤です!煤みたいなものがほっぺたに」
「煤?覚えがないが・・・どこで付けたかな」
首をひねる緒方の顔をきれいにし、曲がったジャケットとよれた襟元をさりげなく直してから
アキラは改めて兄弟子を見つめ、端正な顔をにっこりと綻ばせた。
「緒方さん、ボクの電話を聞いて急いで出て来てくださったんでしょう?・・・ありがとうございます」
(4)
その様子を長身の人物は壁に凭れたまま、つまらなさそうな顔で眺めていた。
「〔塔矢、その間抜けな中年男は誰だ。その男をオレが倒せばいいのか?〕」
「〔違うよ。・・・落ち着いて話が・・・出来るように、彼には・・・ここに来てもらったんだ〕」
アキラは緒方の腕を取って自分の横に立たせ、紹介を始めた。
「〔彼は緒方精次九段。ボクの父の・・・門下・・・で、ボクの兄弟子だ。日本の・・・十段と碁聖と
いう・・・二つのタイトルを持っている〕」
「〔塔矢行洋先生の?ふうん・・・で、その男は塔矢の恋人なのか?〕」
「〔そっ、そんなわけないだろう。とにかく・・・キミのことも今・・・彼に紹介するから。〕
・・・緒方さん。彼は韓国棋院の棋士で高永夏というんですが、ご存知ですか?」
「高永夏?名前は聞いている。こいつがそうか」
ギロリと目を上げた緒方と、フンッと鼻を鳴らした永夏の視線が空中の高い位置で絡み合った。
(5)
座り心地のいいソファに緒方を腰掛けさせて、アキラが事情を説明した。
「今日、いつもみたいに棋院を出ようとしてたんです。そうしたら棋院前に彼がタクシーを
横付けさせていて・・・」
つい先日行われた北斗杯と、その後プライベートに行われた対局を通して永夏と顔見知りに
なっていたアキラは、思いがけない再会を嬉しく思って誘われるままホテルの彼の部屋まで
ついてきてしまった。
「何故そこでついていくんだ!」
「彼と再戦できるんだと思ったんです!ボクは・・・北斗杯後の彼との対局はボクの負けだった
から・・・」
唇を噛むアキラに、緒方はああ、と返すしかなかった。
たとえ自分より格上の相手とでも、対局に負けた時の悔しさは緒方も嫌というほど知っている。
だが部屋に着いてみると碁盤も碁石も見当たらない。
更に永夏はニコニコとアキラの肩を抱き、あろうことかベッドの上に押し倒そうとしてくる。
覚束ない韓国語でどういうわけだっ!と問い質すと、自分はアキラが気に入った、今回自分が
日本に来たのはアキラと親しくなるためだと悪びれもせずに語る。
「それで、先にシャワーを浴びてくるからって誤魔化して、お風呂場から携帯で緒方さんに
電話したんです。途中で彼に気づかれて携帯を取りあげられてしまったんですけど、何とか
追い出して鍵を掛けて、緒方さんが来るまでボクも外には出ないって言って・・・」
アキラもそしてアキラに出てきて欲しい永夏も、緒方の到着を待っていたわけである。
(どうりで、部屋のドアが開いていたわけだ・・・)
ソファに深々と凭れ片手で目を覆って緒方は溜め息をついた。
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