トーヤアキラの一日 1 - 5
(1)
「ピピッピピッピピッピピッピピッ」
目覚まし時計が7時半を告げる電子音。
閑静な住宅街の中の一軒家、古くはあるが、大きな日本家屋の中にその音は
必要以上に大きく響いた。
目覚ましのアラームスイッチをOFFにして、アキラは
「さあ、朝だ!!」
と言って、元気に起き上がる。
雨戸の隙間から「晴れ」を予感させる光が鋭く差し込んでいる。
布団から抜け出して障子と雨戸を開けると、想像通りの陽光がアキラを照らす。
アキラの顔は晴れ晴れとしていて、微笑さえ浮かべてる。
布団の側に戻ると、少し考えてから、
「9時までには時間があるけど、まずシャワーを浴びようかな」
と言いながら廊下に出て浴室に向かった。
今アキラは、この広い家で一人で暮らしている。後一週間もすれば、また
中国から両親が帰ってくるが、その後数日ですぐに韓国に旅立つらしい。
前回も中国から帰国して数日でまた中国に旅立って行った。日本でどうしても
こなさなければいけない用事があったから、一時帰国したとの事だった。
親元から離れて暮らす事を考えていたアキラだが、両親が家を空ける事が
多くなり、その必要も無くなって、こうして広い家に一人で暮らしているの
だが、やはり時々寂しくなる時がある。
でも最近は、両親が居ない時にヒカルが泊まりに来てくれる。お互いに忙しい
スケジュールをこなしているが、その合間を縫って2人は時々アキラの家で碁を
打ったり、一つ布団で夜を過ごしたりしている。
(2)
それはアキラにとっては他に替えようも無い至悦の時間なのである。生涯の
ライバルであるヒカルと碁を打つのは、他の誰と打つ時よりも気持ちが高揚するし、
勉強にもなる。しかも最近では布団に入る前に、必ず10秒早碁を打って、勝った方が
夜の主導権を握る事が出来る、というゲームを始めたのである。
今日は2週間振りにヒカルが泊まりに来る事になっている。今日も何が何でも
10秒早碁に勝たなくてはいけない。そのためにちゃんと準備もしているのだ。
勝ったその先の事を考えると、どうしても顔が緩んでしまうアキラだった。
古い家ではあるが、母の明子は新しい物好きなので、風呂もちゃんと最新式の
設備が備わっている。トイレも洋式のウォシュレット付きだし、台所も最新の
システムキッチンになっていて、ビルトインタイプのディッシュウォッシャーも
付いているくらいだ。前は良く、弟子たちが集まって食事をしたり、泊まって
行ったりしたので、不便が無いようにしてあるのだった。
鼻歌でも歌いたい気分でアキラはシャワーを浴びる。バスタオルを巻いた姿で
ドライヤーで髪を乾かして、浴室をチェックする。
「よし」
そう言って自室に戻ると、下着とシャツ、靴下、ズボンを身に付ける。昼には出か
けなければいけないので、それを考えてネクタイを選んで上着と共にハンガーにかけ
ておく。
時計を見ると、8時少し前を指していた。
(3)
まだ敷かれたままの布団を押入れに片付けようとして、掛け布団を畳む。枕をどかして
敷布団に手をかける。そこでアキラは、両親が中国に出発してからの6日間、シーツを
交換していなった事に気がついた。今日はヒカルが泊まりに来るのだから、新しいシーツに
交換しなければ、と思って、ふっと前回ヒカルが泊まりに来た時の事を思い出した。
布団の中に潜ったヒカルがシーツに鼻を擦り付けていたかと思うと
「なんだよぉ!このシーツ!」
と叫んだ。
何か不備でもあったのかと驚いてヒカルを見つめるアキラに
「ノリの臭いしかしないじゃん。ん〜もう、せっかくお前の匂いがすると思って楽しみに
してたのにさー」
と言って口を尖らせる。
思いがけないヒカルの言葉に、アキラは顔が赤くなるのがわかった。
「キミが来るからシーツを換えたのに・・・・」
「それが余計な事なんだよ!! この間は思いっきりお前の臭いがして嬉しかったのにな〜」
「えッ?・・・・そう言えば前回はシーツ換えるの忘れてたかもしれない。突然泊まりに来る
事になったし・・・」
「だろ!・・・あのさ、今度からオレが来るって分かったら、シーツ交換すんの無しな!」
「・・・・分かった。キミがその方が良いなら、そうするよ。」
(4)
ヒカルの言葉を思い出したアキラの顔は、敷布団の端を手にしたままの姿で、不気味なほど
ニヤけていた。ヒカルの要求を受け入れる代わりに、アキラも匂いに関する要求を出した
のである。
「じゃぁ、その代わりに・・・・する前にシャワーを浴びないで欲しい」
「えェ〜!!? な、なんだよ、それ!!」
「ボクだってキミの匂いが好きなんだから、お互い様だろ?」
「やだよ! んな・・・一日外出していた後の事が多いんだしさ、きれいにしたいだろ!普通」
「でも、うちの石鹸の臭いより、キミの汗の匂いの方が好きだから・・・」
「お前なー!!それ変態だぜ!!汗の匂いが好きだなんて言われても嬉しくないって」
「キミだって、ボクのシーツの匂いが好きだって言った変態じゃないか!!」
「あ、いや、だけどさ、あれは、汗の匂いとかじゃなくて、塔矢の、その・・・・・良い匂いがさ」
「同じことだよ。ダメならシーツはノリの臭いをさせておくけど、いい?」
「ったく、もう、お前には敵わないよな。但し、お前が早碁に勝った時だけだぞ」
「うん、いいよ」
そう言ってアキラは満面に笑みを湛え、ヒカルは納得の行かない顔をして溜息をついた。
アキラは早碁は得意だ。もちろんヒカルも得意なのでうっかりすると負けてしまう。現に一回
負けてしまって自分の思い通りにヒカルを扱えなかった事がある。早碁は普通の対局とは
違って、直感が物を言う。いくらアキラでも、10秒早碁では相手の応手を読み切れずに甘い手を
打ってしまう事がある。まして相手がヒカルとなれば常勝は難しい。だが、本気を出して
集中すれば勝てる自身はあった。
ヒカルは、10秒早碁対決夜の主導権争いを言い出した張本人である以上、自分からやめよう
とは言えない。これまで4回対戦してアキラは3勝している。
今日だって絶対に負けられない。純粋に「碁」の勝負としてだけではなく、「準備」を無駄に
しないためにも勝たなくてはいけないのだ。
(5)
シーツはそのまま交換せずに、布団を押入れにしまった。目覚まし時計を机の上に
置き、バスタオルを脱衣所に戻して台所に向かう。
両親が居る時は母が用意してくれるので和食が多いが、一人の時はコーヒーとパンが
中心の朝食にしている。コンビニで買ってきたパンをトーストにしてジャムをつけたり、
色々な菓子パンを買ってきて味較べをしたりしているが、今日は、昨日買ってきたグリーン
サラダが残っているのでそれにミニトマトを洗って添えた物と、卵2個でスクランブル
エッグを作って、残っていたクロワッサンで食べる事にした。
冷蔵庫を覗くと、食材が殆ど残っていない事に気がつく。今夜はヒカルが泊まりに来て、
明日の朝食も一緒に取る事を考えると、買出しをしておかなくてはいけない。
ヒカルは華奢な割にはけっこう食べるのだ。出された物は何でも「おいしい」と言って
食べてくれる。
むしゃむしゃとヒカルの口の中で咀嚼された食べ物が、喉を通っていくのを眺めるのが好きだ。
細い首に遠慮がちに突き出た喉仏が、食べ物の通過に伴って上下する。その動きを見ていると、
どうしても欲情してしまうのだ。朝食を共にしている時に特に強く感じるのは、2人きりの
食事で、ヒカルが無防備になっているせいだろうか。それとも、夜のヒカルの姿が生々しく
思い出されるからだろうか。
欲望が絶頂に達する瞬間、ヒカルは仰け反らせた頭を激しく打ち振り、大きく声を上げる。
「ん、ん・・っ・・うぅぅ・・・あぁああぁぁぁぁぁ・・・・・・っ!!!!」
その時の汗で光った首筋や喉仏を見ているからだろうか。
初めて本当に結ばれた翌朝も、ヒカルが食べる姿を見ているうちに、
───自分の舌がもっと長ければ、あの喉仏の中まで届くのに・・・。そうすれば進藤の喉の
中も自分の舌で触れる事が出来るのに・・・。
と言う不思議な欲望が突然アキラを支配した。
前の夜にさんざん味わったヒカルの口腔内であったが、一度湧き上がった衝動を抑える事は
難しかった。
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