緒方クリニック 2 1 - 5
(1)
茂人は紙袋を振り回しながら、デパートの回転扉を潜って出てきた。
「この新しい香水…月光美人エキス入りよっ! フェロモンが恐ろしいくらい出るなんて…
これで兄貴もイチコロよねっっ!」
茂人はご機嫌だった。新しいドーランを塗って、口紅も新色の試供品をゲットできた。
今日はクリニックが休みで、茂人の愛する緒方院長に会えなかったのは辛いが、
明日になればまたおニューの化粧品で美しくなった自分を兄貴に見てもらえるのだ。
場合によればそのまま病院のベッドで菊門を曝すことになるかもしれない。
(茂人ったらバカバカ! 夏物のブラとショーツも買わなきゃ!)
そこで茂人はきゃっと叫んで立ち止まり、ものすごい勢いで地下街の入り口を目指して走り出した。
(2)
黒のレースで作られたショーツ(8900円)とブラ(10300円)とパッド(2500円)を購入し、
茂人は映画館へ足を伸ばした。兄貴が映画に行っているという情報を掴んでいたためだ。
「兄貴に会ったら…茂人、どうしよぅ…」
シャネルのショルダーバッグの紐をモジモジさせ、茂人はそれでもハンターの目で人込みを
ねめつける。兄貴センサーはクリニックでも1・2を争う茂人だ。ほどなくして長身の白いスーツの
男を発見した。その逞しい背中、肩幅の割に恐ろしいほど引き締まった腰…兄貴の他に
そのような男を、茂人は知らない。
「あ、兄貴みーっけ♪ 誰と一緒なのかしらん。…茂人、妬いちゃうっ!」
茂人は人も殺せる11cmヒールで小走りに人込みを掻き分けた。
(3)
「兄貴っ!」
ぐわしっと肩を掴んで引き寄せると、緒方は驚いたように振り向いた。
「茂人か…。どうした?」
素早く緒方の周りにチェックを入れ、誰も連れがいないことを知ると茂人は身悶えした。
「んもう、こんなところで会えるなんて、運命? ああん兄貴。いつもよりラフな前髪がセクシィよん。」
緒方はフッと笑い、煙草を口に銜えた。こんな人込みでも煙草を吸おうとする非常識さも茂人には
非常にワイルドでセクシーに思えた。
「ねえん兄貴、珍しく今日は一人なの?」
「ああ。これから用事があってな」
「茂人、トイレで前戯なしの挿入でもおっけーよん。30分もあれば兄貴をヒィヒィ言わせちゃうっ!」
茂人ははしゃいでいた。最愛の男が目の前で笑っているのだ。
多少声も大きくなっていたかもしれない。少し恥ずかしいことを口にしていたかもしれない。
緒方は右手でこめかみを押さえると、それからおもむろにポケットに手を入れた。
「………これをやるから大人しくしてくれないか」
それは、茂人の薬指にぴったりの、繊細な指輪だった。
(4)
「茂人たん、どうしたのー?」
トレイに載せた何本もの注射器の処置をしながら、506が小声で囁いた。
ごめんね506たん…。茂人は、兄貴を独占しちゃうの。
「506たん、ごめんね」
「どうしたの?」
心配そうに顔を覗き込む506が憐れでならない。506も兄貴を心底愛しているのだ。
茂人は目尻に浮かんだ涙を拭おうとせず、506の両手をぐっと握った。
「茂人ね、――結婚するかもしれないんだ。506たん、来てくれる?」
「え? モチロンだよ茂人たん!」
「ありがとう。ウレシイわん」
506とは緒方を巡ってのライバルだった。でも506とは永遠の友情を誓ってもいい。
でもアキラとは…。アキラだけには……。
(5)
「誰と? ねぇ誰と結婚するのよぅ」
茂人は左手をひらりと太陽にかざした。その薬指には、ビーズで作られた指輪がはまっている。
「兄貴にねぇ、指輪もらっちゃった…」
ぶっきらぼうに突き出した緒方の手。あれはきっと照れ隠しに違いなかった。茂人は昨日の
ことを、心の中に再生してうっとりと目を閉じる。
「あれ、その指輪」
怪訝そうな506の声に、茂人はマスカラの滲んだ目尻を拭いながら振り向いた。
「なぁに?」
「ううん茂人たん、気にしないで」
「綺麗でしょう? 兄貴ったら…こんなの、茂人のために用意してたなんて」
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