Heat Exhaustion 1 - 5
(1)
冷たい空気が頬を刺す真冬の夕刻のことだった。
アキラは対局を終えた棋院を後にして、市ヶ谷駅へと向かっていた。
夕闇に包まれた街に響く靴音は、無機的で乾いていた。
ダークグレーのスーツを凛として身に纏うその後ろ姿を、横を走る車のライトが次々と照らしては
過ぎ去っていった。
突如、背後から派手なクラクションが鳴り、靴音が止んだ。
聞き覚えのあるエンジン音だった。
アキラが振り返る間もなく赤いRX-7が横付けされると、僅かに助手席のドアが開き、車内の白い
スーツ姿の男が声をかけてきた。
「家に帰るんだろ?送ろう」
「いいんですか、緒方さん?」
アキラはドアの隙間から中を覗き込んで言った。
運転席から身を乗り出す緒方は、ニヤリと笑うと、もどかしげに手招きした。
「遠慮するなよ。寒いんだから、早く乗ってくれ」
有無を言わせず目の前のドアを大きく開かれ、アキラは苦笑しながら助手席に身を滑り込ませた。
走行中の車内で、2人は何故か押し黙っていた。
緒方は銜え煙草でハンドルを握ったまま前方をじっと見据え、その横でアキラはただ俯いていた。
絶え間なく続くエアコンの送風音の中、緒方が操作するギアとウィンカーの音だけが、時折
虚しく響くだけだった。
本来、決して話題に事欠く間柄ではない。
だが、その日に限っては、互いに思うところがあった。
話したいことがあっても下手に口を開けない、そんな重苦しいムードが車内を支配していた。
RX-7は幹線道路で渋滞に巻き込まれ、なかなか思うように進まない。
それが、2人にはひたすら恨めしかった。
(2)
「今日の対局、勝ったんだろ?」
煙草を灰皿に押し込むと、緒方は沈黙を打破すべく、なんとか切り出した。
俯くアキラの肩がぴくっと震えた。
そろそろと顔を上げ、どこかホッとした様子でハンドルを握る緒方の方を向くと、静かに答えた。
「勝ちましたよ。緒方さんは……今日は対局の日じゃなかったでしょう?」
「野暮用があったんでね」
前方を見つめたままの緒方も、やはり安堵の表情を浮かべていた。
普段と変わらない遣り取りが成立したことに、内心胸を撫で下ろしていた。
しかし、ここで会話を終わらせては、せっかくの努力も水の泡になる。
緒方は更に続けた。
「そういえば、あの本は読んだか?去年の夏、キミにあげた……」
一瞬小首を傾げるアキラだったが、すぐに思い出したのか、小さく頷いた。
「ええ。でも、ボクが読むには少し早すぎるような内容だったかな」
「だが、最後まで読んだんだろ?」
含みを持たせるような緒方の口調に、アキラは微笑した。
彼らしい尋ね方だと思った。
アキラは助手席側の窓の外に視線を移すと、街を行き交う歩行者を何気なく見つめながら答えた。
「読みましたよ。最後の方にありましたよね。『美しく、冷酷で、無情なチェス。
その情け容赦のない無言の厳しさは、身の毛がよだつほどだった』……でしたっけ?」
「よく覚えてるな。チェスであれ碁であれ……将棋もそうだろうが、そういうものを生業としてる
オレ達みたいな人間にとって、あの文には特別な重みがあるな」
「そうですね。ボクにはストーリー以上に印象に残ってるから……」
そう言って、アキラはふと運転席の緒方を振り返った。
「だから、あの本をボクにくれたんですか?」
「ああ。そう思ってくれて構わない。しかし、あの時は暑かったな……」
肩をすくめて苦笑する緒方に、アキラもやはり肩をすくめた。
「そうですね」
(3)
塔矢家の門前で、緒方は車を止めた。
「渋滞もそう長くなかったな。電車で帰るより早かっただろ?」
「ええ。有り難うございました」
頷きながらシートベルトを外すアキラに向かって、緒方は穏やかに微笑んだ。
「じゃあな。棋院でまた会おう」
そう言うと、緒方はギアにかけていた手を離し、中指の先を眼鏡の中央部に添えて、軽く押し上げた。
眼鏡は元と同じ場所に収まるだけだった。
端から見れば無駄な行為でしかないだろう。
だが、アキラはそれが何を意味するか、わかっていた。
緒方は再びギアに手を置くと、低く、自分に言い聞かせるように呟いた。
「……本因坊リーグ戦でな」
アキラは無言で重々しく頷き、車を降りた。
門を背に立つアキラは、走り去るRX-7の後ろ姿が視界から消えるまで、じっとその場に立ち尽くしていた。
しばらくして振り返ると、ゆっくり門を押しながら上空を仰ぎ見た。
澄み切った夜の空には冬の星座が瞬いていた。
物言わぬ星々もまた美しく、冷酷で、無情なのだろう。
誰が聞くでもない夜空に向けて、アキラは呟いた。
「あの本をもらったのは、もう半年も前なんだ……。ボクのリーグ入りが決まってからだったのは、
偶然じゃないんだろうな」
凍てつく寒さの中、全身を駆け巡る血液は何故か滾るように熱かった。
微かな身体の震えは寒さの所為ではなかった。
偏に勝負師としての性がそうさせていた。
胸に手を当て、高まる鼓動を確かめるアキラの頬は、うっすらと紅潮していた。
「本因坊リーグ戦か……緒方さんと次に会うのは……」
囁きと共に漏れた熱を帯びた白い吐息が、煌めく星空に静かに吸い込まれていった。
(4)
インターホン越しの「はい」という声は、明らかに不機嫌そうだった。
「あ、ボクです。……お邪魔でしたか、緒方さん?今日はずっと家にいらっしゃるって聞いてたから……」
アキラは緒方の住むマンションのエントランスホールに佇み、複雑な思いでスピーカーを凝視していた。
ホール内に充満する熱っぽい空気が身体中にまとわりつき、鬱陶しいことこの上ない。
「いや、別に邪魔ではないが……」
「すぐに帰りますから、入れてもらってもいいですか?渡さないといけない物があるんです」
「オレに渡す物?」
「ええ」
しばらく応答がなかった。
アキラは大きく深呼吸すると、ポケットから青いハンカチを取り出した。
「わかった。今、開ける」
短く告げる緒方の声が聞こえた直後、オートロックが解除され、前方のガラスの扉が開いた。
アキラは紺の半袖シャツのボタンをひとつ外すと、首筋から鎖骨へと流れ落ちる汗をハンカチで拭いながら、
紙袋を片手にエレベーターホールへと向かった。
エレベーターはちょうど1階に止まっていた。
中に乗り込んで緒方が住む階のボタンと『閉』ボタンとを立て続けに押し、アキラは奥の壁にぐったり背を預けた。
「やっぱり事前に電話すれば良かったのかなぁ……」
汗が伝い落ちる頬にハンカチを当て、不安げに呟いた。
エレベーターは途中で止まることもなく、淡々と上昇を続けていた。
汗を拭き取った肌を撫でる機内のエアコンの風が、ひんやりと心地良い。
「それにしても、夏休みってなんでこう毎日暑いんだろう……」
うんざりと零すアキラだったが、エレベーターが目的の階に止まると、途端に表情を引き締めた。
(5)
部屋の主は玄関から出た通路でアキラを待ち受けていた。
白い開襟シャツにベージュのスラックスという休日らしいリラックスした格好の彼は、
珍しく眼鏡をかけていなかった。
「こんな炎天下の中、よく来たな」
ハンカチを握り締めるアキラを見て、緒方は皮肉っぽく笑いながら言った。
「ごめんなさい、突然お邪魔して。……緒方さん、怒ってるんでしょう?」
「別にアキラ君に対して怒ってるわけじゃないんだが……まァ、とにかく上がってくれ。
上がれば、何故オレの機嫌が悪いかわかるだろうよ」
そう言って頭を掻くと、緒方は怠そうに玄関の扉を開けた。
「いい香りがするな。オレに渡す物はそれだろ?」
玄関で脱いだ靴を揃えると、アキラは背後の緒方を振り返った。
緒方はアキラが手に提げている紙袋を指差していた。
期待含みの緒方の表情にホッとして頷きはしたものの、アキラの顔にはどこか動揺の色が
隠しきれなかった。
「え…ええ。でも、あの…緒方さん、これは一体……?」
緒方は待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑った。
「これでわかっただろ?」
「……ええ。よく生きていられますね、こんな部屋で……」
「オレもそう思うよ」
飄々と言ってのける緒方の後についてリビングに足を踏み入れたアキラは、
思わずハンカチで顔を扇いだ。
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