第162局補完 1 - 5
(1)
本因坊リーグ6戦目。
厳しい対局だった。ギリギリの線を綱渡りするような緊張をずっと強いられて、終わってみれば
負けた碁だった。
これでリーグ落ちが確定だ。
悔しかった。驕ったつもりはなかったが、それでもまだ力は足りなかった。
まる一日、食事もとらずに碁盤に向かっていた肉体の疲労も大きかったが、なにより精神が
疲弊していた。
持てる力を使い切って消耗したようなその姿に、ヒカルは声をかけるのが少しためらわれたが、
やっと腰をあげて立ち上がりかけたアキラに、それでも声をかけてみた。
「塔矢、」
呼ばれてこちらを見たアキラは、驚いたように目を見開いた。
一瞬、喜色が走ったように思えた顔は、次の瞬間にはきゅっと厳しく引き締まった。
「なんだ。」
「……残念だったな。」
ヒカルの言葉にアキラは僅かに目を見開いてヒカルを見る。
だが言葉を返さずに顔を背け、そのままヒカルの横をすり抜けて対局室を出ようとした。
ヒカルも追って対局室を出て、アキラの背中に呼びかけた。
「塔矢、」
「何しに来た?」
「何しにって、おまえの対局見に、に決まってるじゃん。」
「4月になるまでボクとは会わないんじゃなかったのか。」
顔も見ずに冷たく言い放たれて、思わずヒカルは足を止めて口篭る。
「…あれは……、あれはあそこには行かないってだけで…」
足を止めてしまうとすぐに置いていかれるので、慌てて追いながら、呼び止めようと声を高くする。
「塔矢!何、怒ってんだよ、オレ、折角来たのに!」
「別にキミに来て欲しいなんて誰も言ってない。」
それでも足を止めないまま、アキラは振り返って厳しく言い捨てた。
思わずヒカルが腕を掴んで引き止める。
「!なんだよ!ひでぇじゃんか、そんな言い方!!」
「ひどい!?どっちが!!」
ヒカルの手を振り払いながら、アキラは思わず声を荒げた。
(2)
四月になるまでここには来ない。それなら待とうと、最初は思っていた。
けれど日が経つにつれ、寂しさと空虚感は募るばかりで、ヒカルが来ないと思うと自然、碁会所
からも足が遠ざかった。
つい先日までは彼と打っていたこの場所で、一人でいるなんて耐えられない。
気を紛らわすように語学教室に通っても、虚しさは消えない。
それによく考えれば、四月になれば来るという保証はどこにもないのではないか?
「置いていかれそうだ。」などと弱音をはいてしまったのを、自分も歩みを止めないと、まだ大丈夫
だと、自分自身に言い聞かせてなんとか立て直した。
それももう二月も前のことだ。
一度同じ対局日に姿を見かけて以来、打つどころか口を利くことも顔を見ることもない。
そうなってみればむしろ、週に何度もあの碁会所で打っていたことが、まるでありえない事だった
ように思えてくる。
それなのに。
自分が無様な負けを晒したような日に限って前触れもなく現れて、「折角見に来たのに」だって?
ふざけるな。
「馴れ馴れしく触るなよ。キミなんか…キミにとって、ボクなんかどうでもいいんだろ。
ボクのことなんて気にかけてもいないくせに。」
「何馬鹿なこと言ってんだよ、おまえは!」
「またひとを馬鹿呼ばわりか?自分の都合が悪くなるといつもそうだな。まったく、相変わらず勝手
な奴だよ、キミは。」
声を聞くのも腹立たしい。顔なんか見たくない。
ついて来るな。そう思ってるのにどうしてわからないんだ。
「塔矢、」
立ち止まるのが嫌でエレベーターを通り過ぎてアキラは階段に向かった。
(3)
「塔矢、待てよ!」
ヒカルは必死で追い縋りながら、隣に並んで呼びかける。
「もしかして、北斗杯の予選が終わるまで碁会所に行かないって言ったの、そんなに怒ってるのか?」
「当たり前だろう!!」
凄まじい勢いで振り向いて怒鳴りつけられて、ヒカルは思わず一歩後退った。
「あんな事を言い捨てて放って置かれて、平気だとでも思ってたのか?」
アキラの剣幕に気圧されしたように息を飲んだヒカルを睨みつけて、アキラは続ける。
「ボクにどうしろと、どうすればよかったって言うんだ。
選手決定なんか辞退して予選に出ればよかったとでも?
ボクだって、ボクの方こそ、」
キミと戦えるかと思ったのに。戦いたかったのに。
実績で代表決定なんて言われて、最初はああそうか、と思った。当然の事のような気もしたけど、
でも別に嬉しくもなかった。
でもその次に思ったのは、進藤はこの事をどう思うだろう、という事だった。
結果は案の定だ。
ボクだって、予選に出たって負けるつもりなんかない。落ちるはずがない。
そんな事よりキミと戦いたかった。
それなのにキミは、ボクのそんな気も知らないで、一人で勝手に怒って。
ああ、嫌だ。こんな事でこんなに苛ついてる自分が嫌だ。こんなくらいの事で泣きそうになってる
なんて、そんな自分が大嫌いだ。進藤のせいで。キミさえいなけりゃこんなつまらないことで腹を
立てることなんてないのに。
(4)
「知らないよ。知らない、キミなんか。
いっつも自分の気の向いた時だけ近寄ってきて、そのくせちょっとでも気に食わない事があると、
怒って、ひとを置いたまんま一人で行ってしまうくせに。
馬鹿にするな。
いっつも気まぐれに、気の向いた時だけやってくるキミを、いつもボクが待ってるなんて思うな。」
そう言い捨ててアキラは階段を降りていこうとした。
「塔矢!」
「触るなって言って、あっ!」
伸ばされた手を振り払おうとしてバランスを崩し、階段を踏み外しそうになったアキラを、ヒカルは
慌ててもう一度腕を掴んで引き止めた。
アキラは階段を振り返り、そしてほっと息をつく。それから顔をあげたところを、ヒカルはぐっと引き
寄せた。その腕を振り払おうとしたアキラに、ヒカルは言う。
「暴れるなよ、また落ちるぜ。」
そのまま抱き寄せられて、カッとしてアキラはヒカルを睨み付けた。
ヒカルの方が一段上に立っているために、普段だったら若干見下ろすはずの相手に見下ろされてる
のが余計に腹立たしい。
「ごめん、塔矢。」
真面目な顔で謝られると、言い返すことができない。悔しくて唇を噛んでヒカルを見上げた。
「でも、でもオレは信じてるから。
いつでも塔矢は待ってくれてるって。いつも、今までも、これからも。」
「ふっ、ふざけるなっ…!よくもそんな、図々しい。誰が、キミなんかいつまでも待ってるものか……!」
(5)
「…塔矢ぁ、」
宥めるようにアキラの髪を撫でながら、呆れたような口調でヒカルは言う。
「そんな、意地張ってつまんないウソつくなよ。」
「ウソじゃない。本気だ。」
「ウソだよ。」
きっぱりと否定するヒカルに、呆れを通り越して腹が立つ。
「なんでそんなに図々しいんだ。なんでそんな自信があるんだ、キミは。」
「なんでかなんて、そんなの……」
言いかけながらもヒカルは思う。
だってオマエがずっとオレを待っててくれたの、オレは知ってるから。
それにこうやってオレを見るオマエの目は、さっきからずっと、言ってる言葉と全部逆だ。
だってオレを見て嬉しそうにしたじゃんか。
怒るのはオレが会わないって言ったからだろ?それってオマエはオレに会いたかったってことじゃん。
放って置かれて寂しかったって言ったじゃん。
もっと素直になれよ、塔矢。
「…放せよ。キミなんて嫌いだ。」
「でもオレは塔矢が好きだよ。」
ストレートに言ってやると、塔矢は目を見開いてオレを見る。
ああ、オレ、オマエのそういう顔ってすごく好きだ。
「塔矢がオレの事嫌いでも、好きじゃなくても、オレは塔矢が好きだよ。」
更に言ってやると、また悔しそうに口元を歪めて目をそらす。
なんかもう、オマエって、ホントに、どうしてそう素直じゃないんだ。
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