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(1)
その旅館は、季節になると庭園に蛍が放たれることで知られていた。

石灯籠に灯された蝋燭と、蛍の緑がかった光だけが、庭園を照らしていた。
僕は身の内に残る昂ぶりを鎮めるために、暗い庭園にでた。
暗がりに浮かびあがる、白い花を目印に、ゆっくりと庭園を横切った。
靴裏に感じる芝生の感触が、僕をまた夢見心地にさせる。
石作りのベンチに腰掛ける。鼻先で、白い花が揺れている。椿によく似た花だった。
その練絹を思わせる白い花びらの影から、すうっと蛍が姿を現す。
夏の風が髪を揺らす。
どこかに昼の名残をとどめた夜風では、いまの僕の熱を鎮めるには足りなかった。

まだ、信じられないでいる。

今日、僕は遂にタイトルを手に入れた。
初めて手に入れたタイトルは、――――本因坊。
明日の朝刊には、塔矢本因坊と書かれることだろう。

実感はなかった。
喜怒哀楽、そのどれもがいまの僕から抜け落ちている。
達成感はある。これがいずれ喜びに変わるのだろう。
だが、それは今じゃない。
今はただ、老練な打ち手と凌を削った対局だけが、忘れられない。
巧妙に交わす桑原先生を、追い詰め、引き摺りだし、打ち負かした、その事実が僕を熱くしている。
心技体、すべてが万全だった。
そんな状態で対局に望めることなど、そうはないだろう。
言葉にしてしまえば、奢っているように取られるかもしれない。でも事実だ。
勝負の場にいるからこそ、わかる。
今日の自分は完璧だった。勝つべくして勝った一局。
父でさえ、数十年に及ぶプロ棋士としての歳月に、数えるほどしかなかったと話していた。
それほど、稀有なことなのだ。


(2)
僕はゆっくりと息を吐き出した。
いまだに鎮まる気配のない、熱。
蛍のように、身の内に冷たい炎がいまだに燻っている。
勝ちを得ても尚、戦いたいと本能が叫んでいる。
僕は……、進藤の顔を思い浮かべた。
今日、僕が対峙した相手が進藤だったら………。
万全の状態で、進藤と対局したらどうだったろう。
そう思うと、体が震えた。
武者震い。
僕は勝てたろうか。進藤に勝てたろうか。
わからない。
実際に、打ってみないことにはわからない。
公式な場での、進藤との対局も随分数を重ねてはいる。勿論、すべての対局にベストのコンディションで臨めるように、日頃から気をつけてはいるが、今日のような状態にまで自身を高めていくのは簡単なことではない。それは相手にも言えることだ。
命を賭けるような一局を、進藤と打ってみたい。
今、僕が望むのは、そんなささやかでいて、至極難しいことだ。
持てる力の限りを尽くし、向き合ってみたい。
不思議だ。
強い碁打ちならいくらでもいるのに。
でも、僕が求めるのは、やはり彼なんだ。
進藤ヒカル………彼だけが。


(3)
今日、彼と打っていたならば、僕は今頃こんな暗闇で、ひとり物思いに更けることもなかったろう。
勝ったにしろ、負けたにしろ。燻る熱を持て余し、こんなところで熱い吐息を逃がすことはなかったろう。
間違いなく、心地よい疲労を覚え、僕は早々に布団にもぐりこんでいただろう。
そして、夢の中で検討を重ねていたかもしれない。負けたなら悔しげに、勝ったなら得意になって。
そんな詮無い繰り言に、僕はようやく笑みを浮かべることが出来た。
いつまでも、こんな処にいても、どうなるものでもない。
この旅館ご自慢の露天風呂にでも入って、今日はもう寝よう。
僕はそう決めると、火照った身には心地よい、冷たい石のベンチから立ちあがった。
そのとき、背後でかちりと金属音がした。
なんだろうと振りかえったが、いくら慣れたとはいえ、鬱蒼と茂る木立の奥になにも見出すことができず、訝しく思いながら向き直ろうとしたとき、目の端に気になるものがあった。
もう一度、視線だけを後ろにやると、赤い光が泳いでいる。
―――――蛍?
一瞬、そんなことを考えたが、赤く光る蛍なんて聞いたことがない。
なんだろうと暗闇に目を凝らしていると、赤い蛍はゆっくりと近づいてくる。
群雲が月を隠す夜。
漆黒に沈む梢をざわざわと揺らし、赤い蛍は近づいてくる。
僕はその場に立ち尽くし、動けないでいた。
白い花が揺れた。
花を揺らし赤い蛍を先導に、僕の目の前に姿を現したのは………。

進藤だった。


(4)
「塔矢……」
タバコを口元から放し、彼は僕の名前を読んだ。
僕の内で燻っていたものがちろりと、赤い舌を覗かせる。
「進藤、なんでこんなところに?」
「あ…、森下先生に呼ばれて……」
そうだった。今回の対局の解説者は、森下先生。進藤はその門下生だ。後学の為にと、師匠が弟子を呼ぶのはよくあることだ。
「だが、昨日は姿を見なかったと思ったが?」
「昨日は指導碁が入ってたんだ。それより、塔矢こそ、なんでこんなとこに? 今頃、祝杯あげてるとばかり思ってたぜ」
「進藤、酒も煙草もはたちを過ぎてからじゃなかったかな?」
進藤は肩を竦めると、持参してきたらしい携帯灰皿で、煙草を揉み消した。
「ナイショな?」
「いいだろう。貸しひとつだな」
「チェッ」
僕は煙草は吸わないが、酒は嫌いじゃない。周囲の目もあるので、自重しているだけだ。僕たちが成人するまで、まだ間がある。十代で手に入れたタイトルは、ほんの少しだけ僕たちを不自由にする。
「塔矢……、本因坊おめでとう」
「ありがとう」
「いい碁だったな」
「……君にそう言ってもらえると、嬉しいよ」


(5)
プロになって三年もしないうちに、進藤が本因坊秀策に傾倒していることは、周知の事実となっていた。
事の発端は、倉田さんだった。
プロ入り後の長期間の不戦敗が原因で、年配の人や協会関係者の中に進藤を快く思わない人は随分と多かった。
勝負の世界では、結果がすべてだから、進藤が勝ちを重ねていくうちに、そう言った人たちの聞き苦しい言葉も下火にはなっていったが、
勝ちが続けば続いたで、醜い妬心を忠告という便利な言葉で押し隠し、やはり進藤を悪く言う人もいた。
そんな人たちは、倉田さんが進藤を買っているような発言をするたびに、彼は信用ならないと過去の不戦敗を俎上にあげるのだ。そんな彼らに、倉田さんは笑って言った。
自分が進藤を侮れないと思ったのは、それ以前のことだから、と。あの不戦敗の前から、自分は進藤を買っているのだと。
なぜと尋ねられると倉田さんは、進藤とはじめて言葉を交わしたという、とあるイベントでのエピソードを面白おかしく話すのだった。
その話を聞いた人は、筆跡の真贋さえわかるほど、進藤が本因坊秀策を研究しているということに驚いたのだろう。そして意地の悪い人が、君は秀策に詳しいらいねと、水を向けたことがきっかけで、進藤が秀策の棋譜をすべて諳んじていることが明らかになった。
日本人というものは、隠れた努力というものを尊ぶところがある。
400近い棋譜を諳んじるには、並大抵の努力では足りないだろうと、周囲の進藤を見る目がたしかに変わった。
プライベートでも彼と打つ僕だからこそわかるのだが、それは美しき誤解というものだ。
棋譜を覚えるという点に関して、彼は努力など必要としない。
なぜなら、彼は一度見ただけで、覚えてしまうからだ。
それは、進藤の異常なまでの集中力があってのことだ。
彼の能力の高さを褒め称えるなら、まずこの集中力について言及するべきだと、僕は常日頃思っているのだが、普段が普段なので、記憶力ばかりがクローズアップされている。
進藤が正当に評価されるまでは、まだ時間が要るのだろう。



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